6
いまヤヨイが席を外すと言い出せば、もしかしたら、泊まった部屋まで送ってもらえるのかもしれない。でもそうしろとだれかに言われるまでは出て行っちゃダメだ、と竦む気持ちにカツを入れて、ヤヨイは頬が強張るのを自覚しながらも顔を上げた。
目をそむけないと決めたのだ。もうこのひとから――そして自分の置かれた場所から、逃げ出さないと。
視線が泳ぎそうになるのを瞼に力を込めて防ぎ、じっと王子を見つめた。すると一瞬だけこちらに目をやった王子のほうが、無言で立ち上がったかと思うと部屋を出て行ってしまった。
呆然とした。自分がさっさと退場することは思いついても、相手にそうされるとは予想していなかったのだ。
「あ――」
思わず腰を浮かせてから、はっとした。
自分が逃走を図るとき、追われるのは怖かった。ついてこないでと、思った。もしかしたら、王子も放っておいてほしい気分なのかもしれないではないか。
追いかけたい、というのは、ヤヨイの勝手な希望だ。
しかし座り直そうとしたヤヨイの背を、大きな手でぱんと叩いてゲランが言った。
「頼む」
その淡いグレーの瞳は少し悲しげで、どこかあきらめたふうにも見える。
ずっと感じていたけれど、二人の仲が悪いのではなく、ただ王子が一方的にゲランを敵視しているようだった。そのことを、ゲランは残念に思っているのかもしれない。
「……うん」
なにができるかわからない。でも、ヤヨイは大きくうなずいた。
小食堂を飛び出した王子は、そのまま廊下を横切って裏庭に出て行ったらしい。それをヤヨイに教えてくれたのは、意外なことに制服をきちんと着た王様の近衛騎士だ。イーサン・ホークによく似た面差しの背の高いひとで、ヤヨイは彼のことを覚えていた。
薄暗い廊下で立ち番をしていたイーサン・ホークは、黙って少し先の曲がり角にあるドアを指さし、小さく微笑んだ。
「あの、ありがとうございます」
ぺこんと頭を下げて小走りにドアを目指しながら、イーサンはちゃんとヤヨイの目的を察しているのかと不安になった。だが分厚い木のドアを体重をかけて押し開け、彼を疑ったことを胸の内で詫びた。
三方を建物の壁に囲まれたそこは、痩せた木が一本だけ立つ日当たりの悪い場所だった。木の横に佇む王子がまとう深い苔色でさえ、鮮やかな色彩になるほどの、なにもない殺風景ぶり。
ドアの閂錠は例にもれず大仰な音を立てたから、王子がこちらに気づかないはずはない。頑なに向けられる背に怯みつつ、ヤヨイはそっと声をかけた。
「王子……?」
しかし、いっそ見事なシカトだった。完全な無反応。
どうしよう、やっぱり迷惑だったんだ、と戻りかけて、頼むと言ったゲランの瞳を思い出した。
足音を殺すように土を踏みしめてゆっくりと歩み寄り、強く握りしめられた大きな手に、そっと触れた。拒まれなかったことに励まされ、冷たい拳を両手で包む。
追ってきてはみたものの、やはりなんと声をかけていいかはわからない。でももう、それでいいのだとヤヨイはどこかで理解していた。
このひとは、慰めてもらいたくて苦しんでみせるのではない。いつもどことなく不機嫌そうな顔だけれど、それはただ、豊かな感情を持て余しているだけなのではなかろうか。
大変なお仕事に就いているわけだし、言いたいことを飲み込む場面も多いにちがいない。やり場のない気持ちをどう処理していいかわからなくて、そのまま表に出すこともできず、でもうまく隠してしまえるほど嘘つきにもなれないのだ。
(うん、きっとそう……不器用なだけ)
少し荒れてかさつく手を持ち上げ、いつの間にか開かれた掌に指を這わせながら、ヤヨイは口元を綻ばせる。
情緒不安定なひとだ、と思ったこともある。ムッとしたり笑ったり、やたらとエラそうにしてながら、不意に子どもっぽく真っ赤になってみたりして。かと思えば、今朝のようにキザな台詞をさらっと口にしたりもする。
でも彼の内側にはちゃんとそうなる理由があって――いつか、それを教えてくれればいいなと思った。
だからいまは、いい。少なくとも、隣にいて、手を握っても振り払われないなら、それで。
ふと思い立って、ヤヨイはなんとなく弄んでいた王子の手をじっと見た。これのせいで、いらぬ苦悩をひとつ余分に味わったようなものだ。
それは想像したよりたくさん、肉刺やら指輪の跡やら、少し盛り上がって治った傷跡やらで彩られていた。親指の付け根に、できて数日と思しきパックリと裂けた切り傷もあった。ゲランとよく似ていて、でも全然ちがう。もっと指が細いし、もちろん傷跡の位置も同じなわけがない。ジェイル王子のように、ペンを持つ手ではない、ということは明らかだ。
平たくて厚みのないヤヨイの爪とちがって、指の先まできっちりと楕円形に覆うその形。綺麗な手だな、と思った。
冷えたせいか、短く整えられた爪の生え際は薄い紫色になっている。日陰なんだもん、と建物に遮られた秋晴れの空をもはや習い性のように慣れた仕草で見上げたとき、紺色の瞳がヤヨイを見下ろしていることに気づいた。
トン、と心臓が跳ねた。あわてて離しかけた手を、つかまれる。
合わせた視線の強さに負けてうつむきそうになると、王子はヤヨイの前に立ちなおして反対の手で顎を上げさせる。
「下を向くな」
ものすごく真面目な顔と声で言われたことに、ヤヨイはきょとんとした。
「おまえが下を向くと、顔が見えない。顔が見えないと、おまえがなにを考えているか……わからない」
語尾は、ほとんど囁くように小さくなった。独り言にも似た響きのそれを、ヤヨイは必死に反芻する。
なにを考えているかわからないのが、不満ということか。それはつまり、ヤヨイがなにを考えているかわかっていたい、と――そこまで面映ゆく考えてから別の可能性に思い至り、ヤヨイは口を引き結んだ。
顔さえ見れば、なにを考えているかなど丸わかりなのに、という意味かもしれない。
それほど顔に出やすいほうなのだろうか。仕事で不快な思いをしたときなど、表に出さないほうが賢くその場を乗り切れる。だから自分では割と、ニュートラルな表情を作れていると思っていただけにショックだ。
しかしむっとするヤヨイとは逆に、王子は楽しげに目を細め、小さく穏やかに微笑んだ。
「怒っているな、なぜだ? ……だが、俺の姿など見えないような顔をされるより、ずっといい」
「見えないなんて――」
咄嗟に反論しようとして、しかしそのとおりだったのかも、と思った。
能面みたいに表情を消して、あなたの存在など気になりませんよという態度でいたら、相手は自分が透明人間になったように感じるだろう。
「……ごめんなさい」
言われるそばから下がろうとする顎は、それを阻む手でしっかり押さえられている。急に恥ずかしくなって、でも抵抗してまで払いたいほどではなくて、ヤヨイは目を伏せた。
「俺はダメだな」
ぽつりと降ってきたつぶやきに、ヤヨイは視線を上げた。だがそれとすれ違うようにして、王子のほうが目をそむけてしまう。ヤヨイに触れていた手も離れて、心持ち距離をとられた。
「自分がおまえの目にどう映るか……そんなことばかりが気になってしかたない。おまえに最上の男だと思ってほしいのに、いつだってだれよりみっともない姿を晒して」
短くため息をついた王子は、頬に落ちかかる髪をかき上げながら、ヤヨイに背を向けた。
「おまえがディージズに惹かれたとしても無理はない。あいつは昔から男にも女にも、年寄りにも子どもにも好かれた。――いや、ディージズだけじゃない。これからおまえの前に現れる幾人もの男たちは、俺よりよほど上等だろう」
噛みしめるように苦くかすれる言葉、なにを言われているのか、よくわからなかった。
確かにヤヨイはまだ十七歳だから、これから先の人生でたくさんの人に出会うだろう。いままでの自分を改めて、もっと社交的になっていきたいとも願っている。
でも王子より上等とか、ゲランがどうとか、比べることになんの意味があるのだろう。
それ以前に、ヤヨイはゲランに惹かれたりしていない。いや人間的には大好きだ、頼もしくて楽しくて、隠しごとがあったと知っても彼の代わりになる人はいないと思う。けれどそれは多分、王子の言おうとしている意味ではないはず。
そう伝えたほうがいいのかな、と口を開きかけたが、ひどく暗い声に遮られた。
「俺は自分の歩む道を誇りに思う。……そう思えると信じる。だから奴らになにで負けても、もうかまわないんだ。だが……おまえだけは、あきらめたくなかった」
そうして、まるで痛みのもとがそこにあるみたいに苦しげに、ヤヨイを斜めに見つめる。
「……王子」
ヤヨイは若干、もどかしくなった。
だからなぜ、そういうことをそんな表情で口にするのか。もっと甘い雰囲気で言ってくれたらいいのに、わかっていても歯がゆくなるほど乙女心に疎いひとだ。
でもなにか演出できるほど余裕がなくて、その分だけ王子の言葉は真実を紡いでいるようで、だからヤヨイも、覚悟を決めてまっすぐに王子を見返した。
「どうして……そんな、自信のないこと言うんですか? 他のひとなんて、まだ会ってもいないひとのことなんて、関係ないのに」
そっとはずされた視線が、再び戻ってくる。盗み見るように向けられた目が、不安そうに揺れていた。
ヤヨイよりずっと背が高くてしっかりした体格で、きちんとした生まれ育ちで、きっと剣を持てば強いであろう人なのに、そんな様子が子犬みたいでヤヨイはあわてた。耳を伏せて尻尾を垂れて、いますぐ撫でてあげなければ二度とそばに来てくれなくなりそうで。
「王子は、だってその、すごくカッコいいじゃないですか! 顔も綺麗だし、髪も綺麗だし、立ってるだけで素敵だし」
近衛の制服も似合うし、と続けようとして、ヤヨイは自分が外見ばっかり褒めていることに気づいてうろたえた。他にもなにか性格とかそういう部分を褒めなきゃ、と思って大急ぎで考えてみるが、そんなことすぐには思いつかない。
(っていうかそういえば、わたし王子のこと、あんまりよく知らない……?)
その事実に思い至って、ヤヨイは愕然とした。では自分は、一体このひとのどこを好きになったというのだろう。
知らずびっくり眼で、ヤヨイは王子をまじまじと見つめた。
さらさらっと口から出てきたのだから、見た目は気に入っている。ジェイルのことは綺麗だけど恋はしない、とはっきり感じたことがあった。だから。
そのとき、様々な理論的思考をひょいっと飛び越えて、ヤヨイは悟った。
――王子がヤヨイを好きだったからだ。
なにかを訴えかける眼差しや、息苦しいほど緊張した、でも甘く密度の高い空気や、他の人とは明らかにちがう性質の温度で触れてくる手や、彼が醸し出すそういうもの全部に引きずられて、ヤヨイは王子を好きになったのだ。――と、思う。
だとしたらこの場合、容姿に続いて「わたしのことが好きなところが好きです」と言うべきなのか。それは確かに事実のひとつなのかもしれないけれど、言葉にしたらなんて傲慢で高飛車なことだろう。
早くも沸騰して煮え立った頭で、ヤヨイはぐるぐると混乱していた。
(え、ちょっと待って。じゃあ、じゃあ、わたしはたとえばもし、ジェイル殿下に好きって態度をとられてたら、ジェイル殿下を好きになってたの? まさかゼロンとか、ルーヴェンでも? ――や、やだ! わたし、わたしは好きって言ってくれる人ならだれでもいいの!?)
ヤヨイの短い人生で、男の人にそういう好意を向けられたのは初めてだった。だからそれで、舞い上がって、うっかり自分も好きだと思ってしまったのだろうか。
――なんてこと。
ヤヨイはひどい衝撃を受けて、ふらりとよろけた。
「ヤヨイ!」
力強く腕を引かれて、ヤヨイは息を飲んだ。あわてて顔を上げると、瞠られた紺色の瞳が心配そうにこちらを見ていた。
自分の不安にだけ囚われていた王子が、ヤヨイがふらついた、それだけでもう全部の意識をヤヨイに向けている。それがわかるから、きゅっと胸が痛くなった。
うれしかった。自分自身よりもヤヨイを優先してくれるひとがいて、そのひとが王子であることが。
ヤヨイも王子が好きなのだ。ちゃんと――といったらおかしいけれど、きっかけはなんであれ、もうヤヨイは自分も王子が好きだとわかっている。たとえいま、他のだれかが王子より情熱的にヤヨイを好きだと言ってくれても、きっと心動かされたりはしないと思う。
ああ、恋をしている。
なにもかも、ほんのわずかな持ち物や友だちや、とらなければならなかった責任や、そういうものも全部捨ててきたヤヨイが。命まで捨てて逃げたヤヨイが、ほんの半年前には耳にしたこともなかった言葉をしゃべりながら、生い立ちも習慣も民族的な身体的特徴もまったく異なるひとに、恋をしているのだ。
そしてそのひとは、ヤヨイの心がほしいと――ほかのだれにもとられたくないと、駄々っ子みたいに口にする。
「……ッ」
急に息をするのもつらくなって、ヤヨイは目を閉じた。ぎゅうっとおなかのあたりが熱くなって、その塊がゆっくりと咽喉までせり上がる感じがする。ヤヨイの頭はまともに動いていないのに、苦しさから楽になる方法だけは知っていた。
いまここで、ひとりでバカみたいに狼狽えてタコかと思うくらい真っ赤になってるヤヨイを見つめるひとに抱きつくか――そんな恥ずかしい自分を隠すために、競馬の馬も真っ青な猛ダッシュで逃げ出すか。
昨日までのヤヨイなら、迷うことなく後者を選んだ。というより、まず選択肢がそれ以外存在していなかった。
でもいまはちがう。
後ずさりそうになる脚を無理やり前に動かして、ヤヨイは王子につかまれているのと反対の、砲丸投げの球でもぶら下げてるみたいに重たい腕を持ち上げた。そして注射器を構えるお医者さんにそうするように、顔をしかめておずおずと、その手を王子に伸ばしてみた。
苔色の上着の、袖口に触れる。近衛の制服よりずっとやわらかくて、なめらかな手触りがした。
「……だれにも、負けてないじゃないですか。わたしほんとに、王子は他のひとよりずっと素敵だと思ってます。あの……わざわざ会いに来てくれたり、一生懸命に、なってくれたりするし」
ヤヨイに袖を持たれるがまま、ぷらんと脱力した王子の手を睨みながら、ぼそぼそとしゃべる。おなかの中がかゆくて叫び出しそうだった。本音から少しだけずれた言葉を選んでしまったのは、好きだとアピールしてくれるし、と表現するのが恥ずかしくてできなかったからだ。
なんか言ってよ、と痺れた歯茎をおさえるように歯を食いしばるが、王子は身じろぎひとつしないまま、圧力みたいな沈黙がヤヨイを押し包む。
(ま、まだわたしの番なのね……)
泣きそうだ、と思った途端、鼻がツンと痛くなって本当に涙が出た。
ほんのちょっとだけど自分が泣いたことに驚いて、ヤヨイはカっとなった。おなかに溜まった羞恥といたたまれなさの混合物は、簡単に闇雲な怒りへと変化した。
「あ――あきらめたくないなら、あきらめなきゃいいじゃないですか! ここで会えて、わたしうれしかったです! 悩んで悩んで、なにもかもダメにしちゃったと思って、わたしのほうこそ王子をあきらめなきゃいけないと思ってたから、そうしなくてもいいのかなって安心したところだったのに! なのになんで? なんでそうやってまたわたしに難しいことを考えさせるんですか? わかんないのに、わたしはわたしのことだってよくわかんないのに!」
言い切って、真っ白になった。
基本的に遠慮癖があって、自己抑制を心がけている――成功しているかはもはや怪しくても――ヤヨイが、こんなに早口で大きな声を出すのはあまりないことだ。それこそ、ジェイルに誘導されでもされない限り。
でもあのときとは、相手がちがう。だっていまヤヨイが文句を言っているのは、嫌みで意地悪で口が悪い毒まみれの姑上司ではなく、本当なら手持ちで一番大きな猫をかぶって、別人みたいに可愛いところを見せておくべきひとなのだ。
(わた、わたし、なに言ってるの……!?)
肺からいっぺんに空気が消費されて、わけがわからないのになにかとんでもない状況だというのは理解できるから、余計に混乱した。それに、ぼそぼそと下を向いてしゃべってたヤヨイが突然怒り出したのだから、王子はきっと、なんなんだこいつはと思ってるにちがいない。
どうしてこんなことになるんだろう。情けなくて、さっきの涙が呼び水になって、ヤヨイはぼろぼろと泣いた。
「だから、あの――」
洟をすすりながら頑張って可哀想な自分を少しでもフォローしようと試みるが、もうヤヨイの気力は目盛がゼロの空っぽだった。とっちらかった思考力をかき集めることもできないくらい。
ヤヨイは手元を睨んでいた顔を上げ、呆然としたまま正直に言った。
「あの……なにが言いたかったのか、わかんなくなっちゃった」
間違いなくたったいま、ヤヨイはこの世で一番のおバカさんだった。
泣きわめいた挙句、自分が引き起こした事態をほっぽりだして途方に暮れたのだ。ジェイルが見てたら心底あきれて、爆風みたいな鼻息で吹き飛ばされただろう。
けれど王子は、あきれたり軽蔑したりはしなかった。
びっくりしたようにヤヨイを見ている紺色の瞳が淡い藤色をにじませ、ゆっくりと笑んでいく。そしていつもきりっと結ばれている口元まで綻ぶと、初めて見るほど嬉しそうな表情になった。
「……ヤヨイ」
小さくつぶやいた唇が、微笑んだまま近づいてくる。
頼りなく眉を下げ、涙でぐしょぐしょの頬をして、洟が出そうなのを必死ですすってるような状況で、いいのだろうか。なんだか申し訳なかったけれど、ヤヨイはぱちんと目を閉じた。
そっとヤヨイが握りしめた袖口をはずし、王子は温かい胸の中に抱きしめてくれた。
したいようにしてくれればいいのだ。王子の胸に両手でしがみつきながら、きっとひどいことはされないという確信が、ヤヨイにはあった。
しかしそれが世間知らずの思い込みであることに、ヤヨイは唇が触れ合ってすぐさま気づかされるのである。