5
野菜スープとパン、木の実のジャム、刻んだ香草と塩をふっただけの芋。朝食のメニューはシンプルだった。でも仕方ない、不幸があったばかりのよそ様のおうちなのだから。自分にはあまり関係なくとも、そういう空気はちゃんと読める。
昨夜もパンとワインだったのに、とちょっとさみしくなりながら、まだほんのりと温かいパンに手を伸ばす。
ちらっと見やれば、正面の席では仏頂面の王子が、隣に座ったガルム室長と小声でなにか話している。漏れ聞こえてくる単語の意味がわからなくて、なにか仕事の打ち合わせでもしているのだろうと思った。
「……ねえ、ゲラン。なんていうか……どうなってるの?」
ゲランが座る左側へ思い切り身を乗り出して、なんとなくヤヨイも声をひそめた。
「なにが」
フォークの背で芋をつぶしつつ、ゲランは眉を上げる。
「なにがって、なにもかもだよ」
まず先ほど目にしたやりとり。明らかに以前から王子とゲランは知り合いだったのだ。それから王子と室長がいつもとちがう服装でいることや、亡くなった大公のお葬式の件、アサヌマさんはどうしているのかとか、説明してほしいことは山ほどある。
「っていうか、どうして室長がここに? ルーヴェンがいたから思わず納得しちゃったけど、書記室の一番えらい人でも出張とかってするものなのかな」
「そりゃしないだろう。……あのひとがいまも書記官なら、な」
「ん? いまも、って言った?」
ぽつりとしたつぶやきに、ヤヨイはさらに身を乗り出した。ゲランは皿の上でマッシュポテトになった芋を放り出し、肘掛けにもたれてヤヨイの耳に口を寄せる。
「あのおっかないにいさんが、前はなんの職務に就いてたか知ってるか?」
ヤヨイは至近距離でグレーの瞳を見つめ、首を振った。室長は出会ったときから室長で、それ以前のことなど知るわけがない。
「俺には、文官服よりあの制服のほうが馴染みがあるけどな」
軽い苦笑とともに示唆されて、ヤヨイは目を丸くした。
「え、じゃあ――」
と、室長が羽織っていた服を確認しようとテーブルに向き直ったら、向こうから冷たい視線が飛んできた。いつの間にか打ち合わせを終えていた王子が、むっつりと口を閉じて半目でこちらを見ていたのだ。
「楽しそうだな、ディージズ。だがふざけるのも大概にしておけよ」
ドライアイスの煙のように低く這う王子の声に、ゲランよりもヤヨイが怯んだ。言われたほうはけろりとしているが、ヤヨイにとって大事な二人の仲がよろしくないことを見せつけられたようで、悲しかった。
「あ、あの、王子。ゲランは確かにちょっとヘンなところもあるけど、悪いひとじゃない、ですよ」
下手なフォローを入れたついでに、気になっていたことをひとつ、付け加えて尋ねる。
「それに、その、ディージズって……?」
なにかの役職名だろうか、それとも生まれ故郷かなにかか。『外』でも生まれた土地の名をとって愛称で呼ばれたりすることがある、ニューヨーカーとか、パリジャンとか。江戸っ子とか?
「あだ名だ」
綺麗な模様の描かれたスープボウルを片手でむんずとつかみ、隣からゲランがこともなげに言い放った。
「当然のように嘘をつくな! おまえの本名だろうが!」
憤りを通り越し、もはや無意識にだろう、王子が手元のフォークをゲランに向かって正確無比なコントロールで投げつける。ヤヨイは内心で「ひぃっ」と叫んで目をつぶったが、ゲランは手首の動きだけでスープボウルを返し、その凶器を弾き飛ばした。
「グレイヴ、フォークを投げたら『ゴチソウサマ』の合図だぜ。なぁ?」
一瞬遅れてドキドキと鼓動が早くなった胸をおさえ、ヤヨイは青ざめてうなずく。
「そ、それは、うちでは……うん」
箸を落としたら食事終了、とは佐々木家の躾でのルールだった。道中、幼いころ、せわしなく食器を扱っては行儀が悪いと怒られた話をゲランに聞かせたのだ。
「じゃなくて、本名? え、じゃあ、ゲランの名まえは本当はディージズっていうの?」
「そうともいうな」
スープボウルの縁をかじり、ゲランが咽喉を震わせて笑う。明らかにヤヨイをからかっているのだが、それに反応するのは王子だった。
「それがまずおかしいだろう。なぜヤヨイに正しく名乗らなかった」
「失礼な、まるで俺がヤヨイを騙したみたいな言いぐさはよせ。正しくないわけじゃない、普段はこっちの名で通してるだけだ」
「本名で呼ばれると不都合があるような生活をしているからだ」
「不都合っつうほどのことはないが、可愛いヤヨイと手をつないで平和に旅するための方便だ」
言って、テーブルの下でつないだ手をこれ見よがしに掲げてみせる。王子の瞳は怒りを過ぎて凍てつくように静かになった。
ヤヨイは二人を交互に見やり、とりあえず近距離にいてフランクな空気を失わないほう――つまりはゲランを選んで、首をかしげた。
「ど……いう、こと? わかんないよ、ゲラン」
「ヤヨイ」
ニヤニヤ笑うだけのゲランに、埒が明かないと思ったのだろう、黙って話を聞いていた室長が手の中でタバコをいじりながら苦笑を深める。
「身内は皆、そいつをそうは呼ばない。それはディージズ・クヴァーン。ドランヴァイル大公の次男だ」
「……ドラン――え、じゃ、王子の従兄弟!?」
ヤヨイは咄嗟に身を引き、思わずゲランの姿を上から下まで眺めた。
そう言われれば確かにどことなく王子に似通う高貴な雰囲気が――などということは一切なく、いくら着ているものがよくなっても、やっぱりゲランはゲランだ。どんなに乱暴な口をきいてみても、ジェイルがジェイルであるように。
「ま、血縁はあるな。だが俺は王族じゃないし、そもそも大公の子どもは生まれたときからただの庶民だ」
平然と言い放ち、ゲランはスープボウルの中身を一気飲みする。それから自分のこめかみをつんと親指で叩いて笑った。
「兄貴はお袋の補佐っつうお役目をいただいてるが、俺はそっちのほうがてんでダメで。せめて役人にしてやろうっつう親心に報いたい気はやまやまでも、法書の一文も頭に入ってきやしない。幸いガキのころから身体はデカかったんでな、陛下がイゼ爺に預けてくださって、生傷だらけで育てられたぜ」
幸い。確かに身体が丈夫なのはこの国では幸運なことだが、生傷だらけの子どもでも?
口が痒くなりそうに異議を覚えるヤヨイは、だがすぐにドランヴァイルの経済事情を思い出してそれを飲み込んだ。働ける場所が少ないそこでは、役人になるか、傭兵になるしかないのだとゲランは言ったのだ。ならば後者の適性があり、早くから技術を伸ばしてくれる師匠に出会えたことは、やっぱり幸運だったのだろう。
それに、師匠がイゼおじいちゃんだというのもよかった。おじいちゃんはちょっと頑固で偏屈気味だけど、その分おばあちゃんは絶対に怒らないしすごく優しい。
「陛下はおまえを騎士にしようとお考えだったのに、いまじゃ一端の剣闘士か」
自分も住むあの家で、ゲランも暮らしていたのかな、などと考えていたヤヨイは、半分あきれたような室長の声でそちらに顔を向けた。いつの間にか食器を空にしていた室長はタバコをくわえ、薄くて小さな丸い金属の入れ物を近づける。火種を入れる容器だ。ほどなく紫がかった煙とともに、甘辛い香りが立ち上った。
「イゼ殿も鼻が高かろうよ」
言って皮肉げに笑い、室長はゲランに向かって煙を噴きつける。軽く腕組みして背もたれに寄りかかり、ゆったりとくつろぐその姿に、ヤヨイは思わずぽうっと見惚れた。
「まあまあ。爺様には、勝ち続けて詫びるっつうことで」
「当然だ」
軽口を飛ばしあう二人は気安い様子で、ヤヨイも嬉しくなった。ただ一人だけ――王子だけが、不機嫌さを隠そうともしないことが気になる。
(仲、悪いのかな……悪いんだよね)
最前からのやりとりで、それはもう明白だ。けれど理由を尋ねるのははばかられて、ヤヨイはもう一度ゲランに向き直る。
「あのさ、じゃあわたしも、ディージズって呼んだほうがいいのかな」
そう気を遣って問うてはみたものの、口にするそばからその名まえが激しく違和感だ。するとそれを見越したように、ゲランは首を振った。
「いや、いままでどおりでかまわんさ。そっちで名乗ると、素性がすぐさまバレちまうからややこしい」
言って両手を広げるようにしてみせる。ヤヨイは納得した。この目立つ外見と本名が合わさると、そういうことになるのだろう。仕事絡みはともかく、大公の息子であると知れるのは――なるほど、なんとなく不都合かもしれない。自分も見た目からして注目を集めやすいので、その気持ちはちょっとだけわかる。
放り出していた食事に戻ろうとして、ふと、あの朝ゲランと出会ったのは偶然だったのだろうか、と思った。
ゲランは競技会を追って旅する放浪剣士だというけれど、ランドボルグでそういう催しがあるという話は聞いたことがない。きっと一大イベントなのだろうし、あればきっとどこかで噂になるはずだ。
たまたまヤヨイが家出を決めた日に、たまたまゲランがランドボルグに立ち寄った?
近くを通りがかったから、おじいちゃんに会っていくつもりだった、とか。――開門も間もない時刻から? 宿のチェックアウトは昼まででいいのに。
それに、そうだ、なにか用があってランドボルグにいたのなら、その場でヤヨイに雇われてしまってよかったのだろうか。
「…………」
ゲランの正体を知れば、まるでヤヨイの行動を見張っていたようなタイミングでの登場にさえ思えた。疑いたくないのに、胸の中に黒いもやもやがあとからあとから湧いて出て、それはやがて胃の中まで侵食してヤヨイはおなかいっぱいになってしまった。
「どうした、気分でも悪いのか」
気遣わしげな声にはっとして、ヤヨイは正面を見た。王子がテーブルに身を乗り出すようにして、眉をひそめている。反射的に首を振ろうとして、知らず強張っていた肩から力を抜いた。
ここで自分を誤魔化しても、絶対にわだかまりが残る。ゲランのことが、少なくともヤヨイが知る限りの彼のことが大好きだから、一瞬でも長くこんな気持ちでいたくなかった。
「あの……ね、ゲラン」
小さく声を吐き出すと、ゲランは片眉を上げて先を促してくる。
「ランドボルグの市場で、わたしに声をかけたのは……偶然、なのかな」
言ってからやっぱり後悔した。あんなにお世話になったのに、しかもちゃんとスウェンバックまで送り届けてくれた実績があるにも関わらずの発言だ。気を悪くしたにちがいない。
心配になって思わずゲランの顔を振り仰ぐが、銀色にも見える淡いグレーの瞳にはただ苦笑だけが浮かんでいた。
「残念ながら、答えは否だ」
「へ?」
あんまりあっさりと肯定されて、ヤヨイは目を丸くした。
「いや、市場で会ったのは偶然といえば偶然だな。けど俺は、もともとおまえに会うためにランドボルグに行ったんだ」
地方の競技会を一つ蹴ってな、と続けるゲランに、王子が口を開く。
「なんのためだ。試合に出る以上に大切な理由か?」
「やんごとない御方からの命令――だな。たまたま俺が一番乗りだった、っつうだけよ」
ヤヨイはもちろん、即座にジョージ・クルーニー似の顔を思い浮かべた。王子もそうだったのだろう、訝しげに眉を寄せて黙り込んだ。
でも、なぜ。
じっとゲランを見つめていたら、はっと息をついて乱暴に椅子に寄りかかった。
「大公の子どもたちは俺を含めて七人、うち未婚の男が三人。陛下からの御文を受け取ったのが、俺だけだと思うか?」
「……まさか」
低くうなる王子は、心持ち青ざめた顔に険を浮かべる。ゲランはゆっくりとうなずき、王子を真っすぐに見た。
「おまえは確かに大仕事をひとつやり遂げた。だがそれは、結局いつかおまえ自身のためにやらなきゃならないことだった。陛下のお心積もりがもしも想像通りなら――今回のこととは別の話だ」
「俺は、こんなことでなにかの優位に立つつもりなどない!」
バン、とテーブルに拳を叩きつける音に、ヤヨイは背を震わせた。
「グレイヴ」
室長が、なだめるように王子の名を呼んだ。ちらりとヤヨイに流された視線はすぐにそらされたが、なにかヤヨイが聞いてはまずい話題であることはすぐにわかった。その証拠に、王子は昨夜と同じ、ひどい痛みを噛み殺すような表情で顔をそむけている。
終わっていないのだ、王子が抱える問題は、まだ。ヤヨイとちがい、一晩眠ってさっぱりしてしまう程度のことではなかったのだ。
自分がひどく場違いな邪魔者であると気づき、ヤヨイは下を向いた。いやなふうに胸がドキドキして、席を立つべきだと思うのに、それもできなかった。
席を立って、一体どこへ行けばいいのかわからなかったから。