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眩しい、と感じたのは、ぽっかりと目が覚めた後だった。
緞帳のように吊り下げただけのカーテンの隙間から、一条の陽光が顔の上に落ちている。ヤヨイは咽喉の奥でぶつぶつと文句を言ってから、勢いをつけてつま先で毛布をはねのけた。そして予想外の寒さに、あわててもぞもぞと毛布の下に潜り込む。
しかし頭はしっかりと覚醒して、身も心もすっきりしていた。
よく寝た。ぐっすり。
心配していた二日酔いもないし、足の裏にじんと熱を持つ痛みもない。ふくらはぎが多少、筋肉痛か。ただ、やたらと咽喉が乾いていて、ヤヨイは部屋の真ん中のテーブルに載った水差しの誘惑に負けてベッドを下りた。
用意されていたコップは、まるで幼稚園児の歯磨きカップだ。小さくて持ちやすそうだけれど、重い水差しを傾けて得られる水の量は推して知るべし。少し悩んで、ヤヨイは水差しから直接水を飲んだ。がぶがぶと。
ぷはっと息をつき、顎まで滴る雫を拳でぬぐう。
なにかが身体の隅々まで満ちていた。溜まっていたなにかが、身体の中から抜けきったというべきか。
部屋の中を見回した。昨夜と同じ調度類は、かわらぬ配置でそこにある。相変わらずしんと静かで火の気はなく、臓腑に染み渡った水の冷たさに、ヤヨイは軽く身震いした。
よそよそしい、見知らぬ城の見知らぬ部屋。でもここでなにが終わり、なにが始まったか、ヤヨイはちゃんとわかっている。
「……うはあぁぁっ!!」
か細い奇声を発し、光速で脳裏に甦った様々なものを頭を振って打ち消した。不思議なことに、深く触れ合った唇の感触よりも、腕の中に緩く抱きとられたときのことのほうが忘れられなかった。
熱くなった頬を両手でおさえ、かゆくなった腹に力を込めて、冷静に冷静に、と自分に言い聞かせる。
別に間違ったことをしたわけではない。大丈夫。
室内が薄暗いからいけないのだ、と思い立ち、窓辺に寄ってカーテンをタッセルでまとめた。すると眼下に、小さな町が広がっているのが見えた。ガラスに額をつけて覗けば、ほとんど崖の上にこの部屋が位置することがわかる。
あれがスウェンバックの町。黒い屋根が連なって、ところどこに大樹が植わっている。朝食の時間にずれているのか、それとも朝は火を使わない習慣なのか、煮炊きの煙を上げているのは数ヶ所のみだ。
今日はアサヌマさんに会って話をしたら、町に行ってみよう。
「王子、一緒に行ってくれるかな……」
知らずつぶやいた声が自分の耳に届いたら、きゅっと胸が絞られるように切なくなった。
これまでと違う距離感で囁かれる、低い声。ヤヨイを見つめていることを隠さない、熱い視線。無遠慮にヤヨイの所有権を主張する、自分勝手な指先。でもその全部が、どうしていいかわからないくらい、うれしかった。
これからはいつでも、あのひとを望んでいいのだ。
「――あああぁぁぁっ!!」
ヤヨイは頭を抱えて悶えた。
朝の身支度には、もう少し時間がかかりそうだった。
ガルム室長が呼びに来てくれたとき、ヤヨイはワンピースの最後のボタンをとめたところだった。あわてて髪に櫛を入れ、ブーツの紐を結ぶ間は待たせてしまった。
城主の使う小食堂という場所へ案内されながら見上げた室長も、どこか吹っ切れた顔をしていた。相変わらず紺色の上着を羽織っていて、その理由を問いたかったけれど、胸をときめかせつつやめておいた。
「ここだ。すぐ戻るから待っていろ」
広く廊下の中ほどで室長が一枚の扉を開け、ヤヨイはうなずいてそこへ入った。
仕切りが何段にも入った大きなガラス窓から、いっぱいに朝日が差し込む明るい部屋だ。天井が高く、広さは二十畳ほどだろうか。その半分からこちらにテーブルセットがあり、もう半分には絨毯が敷かれソファが鎮座している。
暖炉はないがストーブが焚かれ、室内もほどよい温かさだった。昨日今日でぐっと気温が下がったのは確かなようで、『外』の同じ時季より冷え込むものなのかもしれない。
だれもいない部屋でどこにいればいいかわからず、ヤヨイはなんとなくストーブに歩み寄ってそばにしゃがんだ。おばあちゃんの家にあるような調理兼用ではなく、もっと大きくて、全体的に丸みのある優美な装飾が施されている。黒いアイアンワークの蔦の葉など、触ってみたくなるようだ。でもきっと熱いだろうから、自重。
鉄の蓋の隙間から、赤々と燃える火が見える。それにじっと見入っていたら、ガチャンとドアの開く音がした。室内外で連動する形の閂錠なので、いちいち大仰に響いてびっくりする。
ダルマのように丸まったまま固まったヤヨイと目が合ったのは、問題の人物だった。今日はシャツの上に短くて深い苔色の上着を着ている。チョコレート色の髪が朝日にキラキラして、そういえば私服らしいものを見るのが初めてだったことを思い出しながら、姿勢よく凛々しい姿に見惚れた。
「そんなところで、どうした」
目を細めて小さく笑う王子は普段通りで――いや、決してそれが日常的に見せていた表情というわけではないのだが、とにかく昨夜の出来事にうろたえている風ではない。
ヤヨイは急に、自分だけがおたおたしていることが悔しくなった。でも平然としてみせるほどの余裕はなくて、まして笑顔をつくれるほど表情筋も鍛えていない。必然的に、しかめ面しか選べなかった。
「……おはようございます、王子」
すくっと立ち上がり、何事もなかったように窓の外に目を向ける。そこは日当たりがいいばかりで殺風景だが、あんなカッコいい人を視界に入れずにすむなら問題ない。見惚れ続けて目がつぶれたりしたら大変だし、それはそれで幸せかも、なんて一瞬でも考えてしまった自分が惨めだ。
石の床を踏む足音が、軽やかに近づいてくる。そのたびごとに心臓の音も高くなり、どうか光のせいで顔が赤いと思われますように、とヤヨイはますます顔をしかめた。
「おはよう。よく眠れたか?」
さらりと髪を耳にかけられ、頬をかすめた指は唇の端に触れて、やわらかく爪を立ててから離れた。
おかげでヤヨイの頭の中は思い出してはいけないことでいっぱいになり、誤魔化しようがないほど顔が熱くなる。
(なん、なんでそういう……っ!)
狼狽を怒りにすり替えてキっと睨み上げると、王子はじっとこちらを見つめていた。いつも黒に近いほど深い紺色の瞳に、かすかな藤色が溶け混じっている。
綺麗だった。人間の目の色だなんて信じられない、宝石みたいで。
「俺は、目が覚めて全部夢だったと言われるのが怖くて、ずっと起きていた。……どうせなら、おまえの寝顔を見ていればよかったな。きっと夜が明けるのを、じりじりと待たずにすんだ」
バカみたいにひとの目玉に見入っていたせいで、ヤヨイはそれを正面からばっちり受け止めてしまった。
内緒話のように囁く声は少しかすれて、照れくさそうな微笑みとひどくアンバランスだった。なぜアンバランスだと感じるのかといえば、それがこんな健全な朝の食堂で聞くべき声音でないことを、既に学習済みだからにほかならない。
これか。これが、口説くということなのか。
泣きそうなほど恥ずかしくてうつむいたヤヨイは、再び響いた閂錠のガチャンという音に、またしても驚いて顔を上げた。
「お、いたいた。ちゃんと起きられたか」
「あっ! ゲラン!」
細く開けた扉の隙間から滑り込んできたのは、ゲランの大きくて逞しい体躯だった。
何日も離れていたみたいに嬉しくなって、それから心細かったことを思い出したヤヨイは、迷わず足を踏み出して彼に駆け寄った。お日様みたいに笑ったゲランが腕を広げ、その首にかじりついてしがみつき、ぎゅっと抱きしめてくれる腕にほっとした。
「どこにいたの? 急にいなくなるから心配したじゃない!」
「はは、悪かった」
大して悪いとも思っていなさそうに言って、顎の先をヤヨイの頭にぐりぐりと押しつける。それから軽々とヤヨイを片腕に抱き上げて、目線を合わせた。
「昨夜は冷え込んだから、またおまえが毛布を蹴飛ばして腹出してんじゃないかと気が気じゃなかったぜ」
「ちょ、やめてよ!」
実際、寝相のおとなしいほうでない自覚はあるけれど、なにもいまそんなこと言わなくても。
あわててゲランの口をふさごうとして、はたと彼の着ている服に目を止める。
いつもの着古した生成りのシャツにズボンじゃない。襟のピンとした真っ白なシャツに濃いグレーの上着、同じ色のズボン。それ以上の飾りも派手さもないが、いわゆるきちんとした服装だった。
「……なに、その恰好。そんな服、持ってたっけ?」
「怖いにいさんがいるんでな、体裁くらい繕っとくっつうか」
「殊勝な振りはやめろ、気色悪い。それより奥へ行け」
重低音の美声に押されたゲランが身じろぎして、ヤヨイはゲランの肩越しに室長の姿を見つけた。少しだけ低いところから金緑色の目がヤヨイを見上げている。
「随分とそいつに懐いたな」
おかしそうに笑って、室長はゲランの脇をすり抜けた。子どもっぽいところを目撃されたヤヨイは、腹いせにゲランの頬をつねった。
肩から紺色の上着を羽織っていた室長は、それを脱いでソファに腰を下ろす。
「おまえが気にする相手は、俺じゃないだろう」
ちらりと視線を流した先をつられて見やれば――グレイヴ王子が、愕然とした顔で凍りついていた。
「よっ、久しぶりだな」
いたって軽い調子でゲランは笑いかけ、王子は反射的にむっと口をへの字に曲げて立ち直った。
「その手を離せ」
「顔色もよさそうだ」
「離せと言っている!」
王子はずかずかと早足で歩み寄るなり、ヤヨイの二の腕をつかもうと手を伸ばす。だがゲランに軽くかわされて、端整な面差しに凶悪な色を浮かべた。
「……やる気か、ディージズ」
「おいおい、俺はその道のぷろだぜ? 下手なことは言わないほうがいい」
みるみるうちに剣呑な空気が霧のように立ち込めて、間に挟まったヤヨイは唖然とした。
「また起き上がれないほど叩きのめされたいのか? ヤヨイの前で?」
「黙れ!」
そして王子の右手が左の腰に伸びてヤヨイは青ざめたが、王子はぴたりと動きをとめた。
本気で斬りかかるつもりだったことはヤヨイにもわかった。けれど、そこにあるべきものがなかったのだ。咄嗟に見やった王子の人差し指には、銀の指輪もない。ただずっと嵌めていたことをうかがわせる跡があるだけ。
「――くそっ!」
王子が低く罵声を吐き、ゲランはぷっと噴き出した。
「ったく、恩知らずな奴だな。ここは感謝と労いの言葉を滔々と述べる場面だろ」
「だれがおまえなんかに!」
「そこらへんにしておけ。給仕が廊下で竦み上がってるぞ」
ゆったりとソファから見物していた室長は、紫煙を上げるタバコ――というより細い葉巻――を挟んだ指で戸口を差した。




