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まるでそうすることが定められていたように触れ合った唇は、静かな余韻を残してすぐに離れた。こつん、と額を合わせてかすかに息をつく王子が、平静を取り戻したと感じる。ドキドキと鉄琴のように硬質な鼓動を刻む心臓は痛いほどでも、もっとパニくってしまうものだと思っていたから、取り乱さずにすんでほっとした。
恥ずかしかったけれど、穏やかで、自然なことだった。初めてのキスがこんなふうで、相手が王子で、よかった。
なにより、嫌われていないことを確かめられた気がして、そのことがうれしい。穏やかに話ができそうだと、ヤヨイは肩の力を抜いた。
だが一歩下がって身体を離したとき、急にヤヨイの指先をつかまえていた王子の手に力がこもり、ヤヨイはぶつかるようにして王子の胸に引き寄せられた。
「わ――」
よろけた足元に気を取られた隙に、大きくて荒れた手がすくうようにして顎をとり、明確な意思を持ってぐっと上を向かされる。
豹変した気配におののく唇に、王子は咬みつくように口づけてきた。
「……ッ!」
ヤヨイは咄嗟に肘を上げて王子の胸を押しのけようとした。けれど腰に回った王子の腕に抵抗は封じられ、顎をおさえられていて動けない。
上げかけた悲鳴も吸い取られ、押しつけられる唇に口を閉じることもできなかった。濡れた部分がこすれ合い生まれる音が、ヤヨイの羞恥と混乱を極限まで煽り立てて頭を真っ白に塗りつぶす。
「ん……! ふ……っ」
口がふさがれていたから苦しくなって鼻で呼吸しようとすると、息が詰まって頼りなくくぐもった声がもれた。そのたびごとに唇は深く重なり、膝ががくがくとふるえた。突き飛ばししてでも逃げたいのに、どこにも力が入らない。鉄琴の独奏だった鼓動は、ありとあらゆる打楽器の競演と化して乱れ、内臓が全部心臓になったかと思うくらいの騒音を響かせる。
ちがう、待って、とヤヨイは心の中で闇雲に叫んだ。波打ち際で溺れる子どもみたいに平衡感覚を失って、怖い、たすけてと無言のまま繰り返す。
ヤヨイの唇を味わうように吸ってから、王子は強張る頬に、耳の下にキスをする。そらしたのどに舌が這うのを感じたとき、大袈裟なほどに肩が揺れ――王子はぴたりと、動きをとめた。
「……、……っ」
王子の肩越しに天井を見上げるヤヨイの膝から力が抜け、冷たい石の床にぺたんと座り込んだ。
「だ、大丈夫か、ヤヨイ?」
それはあわてたように上ずっていても、くっきりと輪郭を保った、張りのある声。
ああ、いつもの王子だ。
そう思った途端、涙腺が緩んでぶわっと涙があふれ出た。
「も――もうッ、ひどい! こわ、こわか……っ」
絞り出した声に非難を込めて訴えれば、ヤヨイの前に膝をついた王子は困ったように眉尻を下げ、夜目にも真っ赤に目元を染めた。
「あ……す、まん……」
謝るくせにその顔は、全然悪いと思っていない。なのに針のように尖って凶暴な気配が失せていたから、安堵してしまった。そしてヤヨイは、声も出ないほど怖がらせた当の本人が差し伸べた腕につかまり、抱き上げられるがままにソファまで運ばれたのだった。
ソファで膝を抱えているうちに、段々と頭が冷えてきた。
酔っていた。そう、疲れてすきっ腹のところにボトル半分もワインを入れたせいで、ヤヨイは本当に酔っ払っていたのだ。涙とともにアルコールが流れ出て、代わりに理性が湧いて出た。ついでに少し頭が痛い。
ビギナーには衝撃的過ぎたキスと、泣き止んでしまった後の処理に困ったヤヨイは、いまこそ寝た振りをするべき時じゃなかろうかと真剣に悩んだ。だって、どんな顔をしたらいいのかわからない。
いたたまれなさを誤魔化すために洟をすすると、隣に座って黙っていた王子がついと立ち上がった。そしておもむろにベッドから毛布を引っぺがして、戻ってくる。背中からかぶった毛布ごとヤヨイの肩を抱き、反対の端を、抱えた膝の上に掛けてくれた。
酔いが醒めて寒さを感じていたヤヨイは、ふわふわに織られた羊毛の暖かさにほっとした。それから、同じ空気を吸っている、と思った。
さっきのように抱きしめられているわけでもないのに、両腕と毛布で作った檻の中に閉じ込められて、さっきよりずっと王子を近く感じる。王子の注意や関心が、全力でヤヨイに向かっているせいだ。
ヤヨイはじわりとうつむいた。
なぜこんなことになったのだろう。おかしい。ここに至るまでの経緯を必死で思い返してみても、もう顔も見せてもらえないかもと泣くほど悩んだ昨晩と、呼吸もままならないような甘苦しさで満ちたいまとがつながらない。
なにか言ってくれればいいのに。困り果てたヤヨイが恨めしくそう思ったとき、膝に乗せられていた手が頬に触れた。
軋む首を動かして振り向くと、目が合った王子が微笑んだ。いままで見たことがない、寛いで余裕のある笑み。
犬じゃなかった。ずっと王子を犬っぽいと思っていたけれど、これはおなかいっぱいで満足している肉食獣の顔だ。ヤヨイは顔が熱くなるのを感じた。その余裕の原因があの抱擁とキスにあることがわかったから。
あの瞬間、確かにヤヨイは王子を受け入れた。確かめるように覗き込む目を、はっきりと見つめ返したのだ。
(――お酒、こわい!)
飲んだうえでの失敗談、というのを耳にするたび、なら飲まなければいいのにと冷めた目で考えたものだ。我が身で経験してこそわかる、どこか他人事のように思考と行動がさらさらと勝手に動く感覚。
とてつもなく大胆なことをした記憶に目を回すヤヨイの頬をなでる手がとまる。即座に緊張を強いられたヤヨイは、反射的に王子の唇を見やった。案の定、ふっと端を吊り上げたそれが、近づいてくる。
ドカドカ鳴る心臓の音に怯えて首をすくめ、ギリギリまで見ていた。もう焦点が合わない、というところで目を閉じた。
一度目より長く、二度目より優しく。確かめるように触れていた唇が、あえかな音を残して離れていく。
三度目も、ヤヨイは逃げなかった。逃げられたけれど、逃げなかった。
細く細く息を吐いて緊張を逃すヤヨイの耳にもそっと口づけ、王子が吐息だけで囁く。
「……好きだ」
ぎゅっと、胸の真ん中をつかまれた。熱くて真摯な気持ちの詰まった声。王の間の前で、騎士団の宿舎のポーチで、ヤヨイじゃないだれかに向けたようなものとは全然ちがった。
口説く機会を与えてくれないか、と言われたときのことを思い出して、ふと、もう謝罪は必要ないのかもしれない、と思った。王子が欲しがっているのは、もっとちがう言葉だと。それがわからないならここにいる意味はなくて、でも、ヤヨイはわかってしまったのだ。
あのとき一言も返せなかったことがずっと負い目で、それ以上に、悲しかった。窒息して死にかけた恋心が可哀想で、不幸な自分に酔い痴れて、距離を詰めようとしてくれた王子を弾いたことを悔やんだ。
後悔と自己嫌悪をおんぶして、ゲランに手を引いてもらわなければ進めなかった旅が終わった場所に、王子はいた。
追ってきてはくれなかった。けれどヤヨイが目指したところで待っていてくれた。たとえそれが目的ではなくても、遅くなっても、人がかわったみたいにひどい顔をしていても、ちゃんとヤヨイに会いに来てくれたのだ。
――旅の終わりは、清々するもの。
天狗のお面を掲げた宿、女将の言葉が脳裏をよぎって、ヤヨイは心の中でうなずいた。清々しよう、きっちりと。
いつの間にか俯けていた顔を上げると、王子がじっとヤヨイを見ていた。叱られるのを覚悟している子どものような、それでいて逸る気を抑えているような表情で。
口説く前に三度もキスして、告白が最後。
ヤヨイはぷっと笑った。途端にショックを受けた顔をするから、あわてて王子の手を握った。
触れることでなにかを一気に飛び越えた。一緒に。ならばあのときの返事は決まっている。
指先の冷えた手を少しだけ見下ろし、今度は本当にうなずいた。
「はい」
言えた、小さいけれど、はっきり。
軽くなった気持ちに励まされて振り仰げば、だが王子はぱちぱちと目をしばたかせている。
「……え?」
奇妙な空白をはさんで落ちた低い声に、ヤヨイは目を丸くした。
(あ、あれ? なんか……ダメだった?)
でも王子は宿舎のベンチで、確かにこう言った。好きだ、そこから始めたい、と。ならば告白は始まりで、きっとこれから――具体的にどうするのかは知らないけど――口説かれるのだろうと受け止めたのだ。
よーいドンの掛け声が上がってから走り出し、ゴールを目指す。うん、正しい。はず。
王子が既にゴールテープを切っていることなど、自分の持ったテープが切られたことなど露ほども思わず――そして、じゃあこの期に及んでどこがゴールだと思うのだ、という王子が悲鳴を上げそうな己の矛盾にもまったく気づかずに、経験値ゼロのヤヨイは「?」でいっぱいの頭をひねっていた。