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over again  作者: れもすけ
第七章
39/48

2



 この部屋は、多分客間というやつだろう。いつまでたってもだれも来なくて火もないから、月明かりだけを頼りに、ヤヨイはぼんやりと視線を流した。

 ベッドに箪笥、テーブルセット、二人掛けのソファ、小さな暖炉。人が過ごすのに必要な家具は一通りあるものの、そこにだれかの趣味や個性はうかがえない。

(室長、遅いなぁ……おなかすいた)

 赤茶色のコートを毛布がわりに膝からかけて、硬いソファの上にうずくまる。


 ガルム室長が言ってた食事は本当に簡単で、ワインが一瓶、パンとチーズが一かけらのみ。室内に衝立を置いただけの洗い場には大きめの盥が二つあり、片方には冷めかけてはいたけれどたっぷりとお湯が張ってあった。それと空の桶を使って汚れを落とした後、食事をしたが五分で済んだ。正直、足りるものではない。

 でも、いま城内が混乱していることは想像できる。『外』の人として重用されているらしいアサヌマも。だから我慢するしかないのだ。


 暇に飽かせて刻々と変わりゆく空の色を、嵌め殺しになったガラス窓の外にずっと見ていた。完全に日が落ちてから、もう随分経つ。

 夜が深まるにつれて湯冷めしたヤヨイは寒さに耐えがたくなり、ワインをなめるように飲んでいた。ほんのかすかな甘みを打ち消すほど渋くて苦くて、飲み下すのにいちいち顔をしかめてしまうが、寒気と悪寒がとまらなくて。

 おばあちゃんの果実酒が飲みたいな、と温まった手で頬を包み、目を閉じる。身体が内側からぼわんと膨れて、頭がふわふわするようだ。

 だれも来ないから寝た振りをする必要もなかったけれど、振りじゃなくて本当に眠ってしまいそう。自分の呼吸が深くなるのをぼんやりと感じていた、そのとき。


 コンコン、と小さくノックの音が聞こえた。はっとしたヤヨイがあわてて立ち上がり、カチコチに固まるほど痺れたお尻をさする間に、もう一度。

「は、はい、いま開けます!」

 お湯を使うためにブーツは脱いでいたので、履きなおさずに裸足でドアに駆け寄った。閂型の鍵を開けようとして、訪問者がだれか確かめる必要があるのだ、と思い出した。

「えっと、ごめんなさい、だれですか」

 ドアと壁の隙間に向かって問いかけるが、返事がない。ゲランならば、自分から名乗っているはず。

「……室長ですか? ルーヴェン?」

 重ねて問うても沈黙が返るばかりで、ヤヨイはもしや酔っ払って空耳を聞いたのでは、と自分を疑い出した。苦いまずいと思いながら大分ワインを飲んでいるし、実際裸足で石の床に立ってもあまり冷たく感じない。


 もしかして明日は二日酔い初体験か、と憂鬱になりながらドアから離れようとして、ヤヨイ、とかすかな声を聞いた。

 振り返ったヤヨイは、じっとドアを見つめた。

「…………」

 耳を澄ましても、物音ひとつ聞こえてこない。

 ふるえる指で閂をはずすヤヨイの頭からは、室長の言葉などきれいに消えていた。

 そっとドアを押し開く。暗闇の廊下にいた人は、うつむき、目を伏せ、唇を引き結んで――。

「……王子……」

 無意識のつぶやきに、グレイヴ王子はちょっとだけ顎を引いた。






 静かに部屋へ入ってきた王子は、後ろ手にドアを閉めたきり、その場から動かなかった。無口とか無愛想では片づけられない雰囲気に話しかけられず、自分だけソファに戻るのもためらわれて、ヤヨイもそこに立ち尽くす。

 黙り込む王子の横で、ヤヨイはちらちらと彼を盗み見た。

 いつもうなじで束ねているチョコレートブラウンの髪は、結わずにすとんと背に流されている。シャツとズボンという軽装に、肌身離さず持っていた剣もない。ピリピリしているのはわかる。でも同時に茫然と脱力しているふうにも見えた。

 様子がへんだな、と感じたのは、叔父さんが亡くなったせいだと思った。


 坂ですれちがったおじさんたちが、王都の騎士を見かけたと噂していた。それはきっと、大公の病気を聞いて駆けつけたグレイヴらのことだったのだ。途中で行きあわなかったのは、ゲランが選んだのとは別な、馬で走るのにいい別のルートかなにかがあるのだろう。

 そういえばおじさんたちは、そのお見舞いについてヘンなことを言っていた。

『なんたってご領主様はほら、陛下の――』

 陛下の、なんだというのだ。弟なのだから、というのなら、別に声をひそめる必要も話を切り上げる必要もなかったはず。王子はスウェンバック大公の甥だし、別にコソコソしていたわけでもないだろう。


(……胃が痛い……かも……)

 自分に関係のないことを考えてやり過ごしていたけれど、沈黙がひどく重い。いたたまれなくなってうつむくと、王子の手が開いては閉じてを緩慢に繰り返しているのが見えた。

 触れたいのに、触れられない、と、迷っているのだとヤヨイは直感した。

 手をとってあげたい。でも顔を合わせてからまだ一度も目を見てくれない王子に、どう声をかけていいかもわからない。


 旅の途中、再会したらなにを、どう話したらいいのか頭痛がするほど悩んだ。少なくとも開口一番は謝罪だな、と思っていた。王子がゆるしてくれるなら、いまの気持ちを正直に伝えたいとも。

 なのになにも言うことができない。ここで会う予定ではなかったからヤヨイが戸惑っている、というだけではない。


 想像の中で王子は、ヤヨイのしたことに腹を立てて怒っていたり、無責任な奴だと呆れ果てていたりした。だから謝ることばかり考えたのだ。

 なのにいま、決して手の届くところに近寄らない王子からは、怒りも腹立ちも感じられなかった。憔悴しきって、肩を丸めて、縮こまるように顔をそむけている。まるで、なにかから自分を守るみたいに。

(なにか、って……?)

 それを教えてほしかった。大公の死がそれほど衝撃だったなら、両親を亡くしたヤヨイと、親しい人を喪った苦しみを分かち合うためにここに来たのなら、話してほしい。

「――――」


 同じ。唐突に、思った。

 そうだ、ランドボルグを飛び出す前日。逃げ出したヤヨイを中庭で捕まえたあのときも、王子はなにかにひどく打ちのめされて苦しんでいた。王子がなにを抱えているのか、どうしてあげればいいかわからなくて、手に負えないそんな姿を見せた彼をヤヨイの心は拒絶した。

 ヤヨイが十七日間、歩きながらも悩んでいたように、王子も、あの日のままの苦しみを抱えて過ごしていたのかもしれない。

 ヤヨイにはゲランがいた。沈みそうになれば手をつかんで水面まで引き上げてくれる相棒。――もしかしたら王子は、ひとりで。


 意を決しておそるおそる近づくと、ぴくんと肩を揺らした王子の顔が強張った。そばに行くことすら拒まれたかとショックを受けたのは一瞬、ヤヨイはその表情を見て、引かれたように足を早めた。

 王子が、まるでこの世に独りきりみたいな、迎えがこないことを知っている迷子みたいな眼を、していたから。捕まえなければ消えてしまいそうに見えて。

「……っ」

 知らず伸ばした手が、シャツの肘をつかむ。吐く息が白くかすむほどの寒さなのに、王子は上着を着ていない。冷たい布地に手を広げ、自分の体温を伝えようと掌を押しあてた。


 いきなり身体に触れたヤヨイに驚いたのか、王子は弾かれたように顔を上げて目を瞠った。それからくしゃっと顔を歪ませ、不意にヤヨイを腕の中に抱き込んだ。

 そうされる予感があった、気がする。つらかったんだな、とも思うから、おとなしく、しがみつくように抱きしめてくる王子の胸に頬を寄せた。

 大きな手で頭を抱え込まれていると、王子から花の香りがしないことに気づいた。ジェイルと同じその香りは、いつも彼のいる場所にあったのに。


 ヤヨイの肩に顔を伏せ、時折首筋に頬をすり寄せる王子は、声を殺して泣いていた。気づかない振りを装いながら、ヤヨイはきゅっと唇をかんで胸の痛みをこらえた。

 自分の立場や生き方に自信とプライドを持っているはずの男の人が、こんなに心細そうに、異邦人の娘にすがって泣いている。

 王子はなにも話さなかった。心にのしかかるものの正体を、明かしてはくれない。十八日前も、いまも、ただヤヨイに苦しんでいる姿を見せている。でもあのときとちがって、迷う王子の手をとってあげたいと、自然に思えた。


 ここでしか泣けなかったのかもしれないし、ただ慰められたかっただけかもしれない。わからないけれど、抱きしめるだけでいいのなら――それをヤヨイに、望むのなら。

 ヤヨイは行き場のなかった手を、そっと冷たいシャツの背に回し、サラサラとした美しい髪の下にくぐらせた。一瞬、王子の身体が大きくふるえ、ヤヨイにからみつく腕の力が強まる。同じだけ抱き返してほしいと言われているようで、分け合う体温の高さにたまらなくなった。


 ――大丈夫ですか……。

 その一言が口をついて出そうになるのを、必死でこらえる。平気だ、とか、なんでもない、とか、どんな返事も王子に嘘をつかせることになる。同時に、大丈夫ですよ、と言ったらヤヨイが嘘をついてしまう。


 ヤヨイを抱きしめているのに、ひとりで乗り越えようとする王子が切なくて、涙がこぼれた。それがシャツの胸に沁み込んで、王子はぎこちなく伏せていた顔を上げる。

 心もとない月の光が、窓辺に差し込むだけの暗い部屋。それでも、互いの頬が濡れていることはわかった。

 睫毛の端に引っかかった雫をぬぐってあげたくて伸ばした指先が、王子の手につかまれる。そしていつかのように、掌に口づけられ、触れた唇がヤヨイの名まえを綴った。薄闇の中で漆黒に光る瞳がまっすぐにヤヨイを見つめても、臆せずに見つめ返した。

 ヤヨイの背から離れた手が、冷えた涙ごと頬を包む。王子がゆっくりと屈みこんできて、ヤヨイはそっと目を閉じた。




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