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うつむいたゲランの瞳は、淡い影の中で磨き上げたステンレスのような銀色に見える。
ステンレスといえば、憧れのシステムキッチンが憧れのままで終わってしまった。ビルトインでガラストップで三口のガスコンロ、混合栓でシャワーヘッドのついた蛇口、人口大理石の作業スペースはシンクに向かって絶妙に傾斜しているような。「お勝手」ではなく「キッチン」で作ればただの炒り卵だってスクランブルエッグだ、朝餐に添えられたゆで卵は味が濃くておいしかった――などとぼんやり思いながら、ヤヨイは顎を引いた。
宿は街道へ続く村の入り口近くにあり、住民が丹精する畑は村の奥を抜けた方向だ。しかしあまりぐずぐずしていては、見咎められるかもしれない。ヤヨイはゆっくりと肺を清い空気で満たし、ぐっとおなかに力を入れて吐き出した。
「よし! アサヌマさんまでもう少し、張り切って行きましょーう!」
道の先を指差して振り返るヤヨイに、ゲランは肩をすくめた。
わざわざ言葉にして口から吐き出さなければ、張り切る元気も湧いてこない。逆に口に出してしまいさえすれば、気持ちも上向きになる気がした。
(言霊って本当だ、自分の声が自分の耳で聞こえるって威力抜群)
ヤヨイは機嫌よくスカートの裾を蹴飛ばし、歩き出した。
ランドボルグで通勤途中よく口ずさんだ散歩の定番曲を小さく歌い、ゆっくりとあたりを見回す。おじいちゃんの家を飛び出したとき、樹木はもう少し豊かに茂り、もっと深い緑色をしていた気がする。蛇行する街道をたどって北上するうちに、森の縁を彩る木々は黄色く色づき、畑も野原も混じり気のない黄金色に染まりつつあった。移ろう季節を物語るのは、なにも空だけではないのだ。
たった十七日。でも『外』の世界で、十七日間歩き続けた経験を持つ十七歳が、一体どれほどいることか。
自分はやり遂げようとしている。こうと決めたことを、泥水を掻き分けて泳ぐようなつらさを飲み込みながら。それでも。
強張っていた心が緩み、逆に足元は固まったように感じた。ローマ軍が行進できるほどではないけれど、振り返れば確かにたどってきた道がある。
歩け、と言ってくれた連れを見やれば、薄手のシャツの下ではっきりと膨らんだ胃袋を押すようにして腹をさすっていた。
そりゃあれだけ食べればね、と苦笑しつつ、ヤヨイはワイン煮込みの味を脳内で反芻する。元々、トリの胸肉と豚こま肉以外を食べつけない舌ではあったが、ほどよい弾力を残してやわらかく煮込まれたウサギに苦手意識は持たなかった。昨夜から火にかけていたのだろうか。
「女将のお料理、おいしかったね。あんなご馳走見たの、生まれて初めてだよ」
「そりゃなによりだ」
おざなりに返してきたゲランは、下唇を突き出して腹を叩いた。ぽん、と間の抜けた音がする。これぞ腹鼓。思わずぷっと噴き出し、ヤヨイも遠慮なくそれを叩いてみた。
「ちょっとゲラン、おじさんぽーい! すごい音! すごいおなか!」
「こらやめろ、出る! しょうがないだろうが、おまえがもっと食えばよかったんだ」
それを言われると黙るほかない。しかしヤヨイの胃袋が乏しい食料に慣れていたのは、もう数ヶ月も前のことだ。いまは決して小食と呼べない量を食べる。
あれは一体何人前の料理だったのだろう、とゲランの腹をなでながら考えれば、あきれたように眉を上げて制覇されていくテーブルを眺めていた女将の顔を思い出す。
「そういやぁ、あの小鳥の丸焼きはおまえに食わしてやればよかったな」
「ああ、ゲランが高速で骨にしちゃったヤツ?」
「美味いんだもんよ。肉としちゃあ食いではないが、炊いた穀物と腹から出した卵を茹でたのが詰めてあって、このへんの名物だったわ」
ゲランはさらっと軽く悔いてみせたが、召し上がっていただいてまったく問題ない。ウサギをクリアしたからといって、産卵前の茹で卵など次のハードルには高すぎる。たとえ卵的に十分食べごろであったとしても、だ。
「この時季に繁殖する鳥っつったら、かなり数が限られる。森番の亭主がいるからこその贅沢だ。普通、冬に育雛する鳥は捕らないっつうのが森の掟だからな」
「そうなの? どうして?」
「そりゃ他の獣の餌になるからだろうよ。冬眠しない獣にとっちゃあ、鳥の卵も雛も大事な食糧だ。ただでさえ減る雛の素を人が食っちまっちゃあ、まずいだろ」
生々しい話にさらに青ざめながら、ヤヨイは深く納得した。
人と獣による鳥の解体ショーを頭の中から追い出して、ヤヨイは必死で別のことを考えようとした。
そういうことは得意だ。深く息を吐いて目を閉じ、額の裏側あたりを真っ白な雑巾が左から右へ力強く滑る様を思えばいい。そこへすかさず別のものを想像すれば、考えたくないことは簡単に棚上げできる。
このとき思い浮かんだのは、女将の穏やかな微笑みだった。
「……どっこもかわらなくってさ、か……」
感慨深げにこぼされた女将の述懐が、ヤヨイの胸をあたたかくする。
人種や民族、顔立ちや体格、文化や生活習慣ばかりか生まれ落ちた世界すらちがっても、女将はモリシタさんを拒絶しなかった。それが我がことのようにうれしかった。『外』から来ることの、本当の意味を理解していないからこそであっても、かまわない。
ところがヤヨイが独り言をつぶやいた瞬間、ゲランの足がぴたりととまった。
訝しく見上げた先にあるのは、苦いものを口にしたような表情だ。
「……多分、あの女将は知ってたんだ」
「なにを?」
らしからぬ沈んだ様子に、反射的に問い返したヤヨイはすぐに後悔した。だがゲランの瞳は正面に向けられたまま、なにか、どこかを睨むばかりだ。
彼のまとう殺伐とした空気と、リュックから覗く大きな剣。初めて見るほど厳しい横顔に、ヤヨイはどきりと心臓が揺れるのを感じた。
清冽な朝の空気の中に、重苦しい沈黙がただよう。乾いた土を踏みしめる足音が遠い。
「……夕暮れの閉門には、間に合うな」
乱暴にヤヨイの頭をなで、手を握ったゲランの声はいつも通りに戻っていて、ほっとした。同時に、最後までよくわからない人で終わりそうな彼が寂しかった。
いろんなことであまりにも余裕がなくて棚上げしてきたが、ゲランはあくまでお金で雇ったボディガードだ。スウェンバックに着けば、そこで任務は完了ということ。
いざ別れが近づくと、後悔ばかりが胸に湧く。もっと一緒にいたい、もっといろんなことを話したい。でもヤヨイに、ゲランを雇い続けるほどの収入はない。詳しい金額は聞かなかったけれど、大人の男性を長時間拘束するのだから、それなりになるはず。『外』でいうなら……月あたり三十万円とか? 危険手当みたいなものがついて、五十万円くらい? もっと? わからない、見当もつかない。それ以前にヤヨイは元々、ボディガードが必要な状況にもない。
つないだ手を胸の前に引き寄せ、ごつごつと骨ばった拳に視線を落とす。甲にはうっすらとした白い傷跡がいくつかあって、かさかさに乾いていた。あんなに大きな鉄の棒を振り回すのだから、たとえ刃がなくてもかすっただけで怪我をするかもしれない。
何日か前、ゲランは「俺の剣はイゼ爺直伝だ」と誇らしげに話していた。二十五歳のゲランが、七十歳を超えているだろうおじいちゃんの弟子というのは、なんだか不思議だ。体力も体格もはるかに及ばないゲランに、おじいちゃんはどんな稽古をつけたのだろう。
微笑ましい気分で山脈のように出っ張った骨の形をたどっていて不意に、あれ、と引っかかりを覚える。
――王子の手って、どんなだったかな。
知らない。覚えてない。
初めて会った湖の畔。掌に口づけられたあの夜。確かに手と手を重ねていたのに、すぐ間近で見ていたはずなのに、まったく思い出せなかった。
「――っ」
突然ひどい焦燥に襲われ、ヤヨイは混乱した。あわててゲランを見つめるが、灰色の瞳は訝しげにこちらを見るばかりで、当然助けてくれるはずもなかった。
「あ、あのねゲラン、あの――」
バカみたいに「あの」を繰り返すヤヨイに、ゲランはあきれたように目を瞠った。ああジェイル王子にその癖はやめろとこっぴどく叱られたのに、と思い出して余計に焦りが募り――思わず、口走っていた。
「わ、わたしを好きだって言ってる人がいて、あの、事情があって、その人と結婚することになりそうで、でもまだそこまで全然考えてなくて、っていうか自分の気持ちも全然よくわからなくて、びっくりして、アサヌマさんに会おうと思ったんだけど、全然わからないの!」
文法が壊滅している。ヒロが聞いたらショックで寝込みそうなくらい、ひどいオージェルム公用語だった。
気がつけば立ち止まり、痕がつくほど爪を立ててゲランの拳を握りしめていた。あまりにも目の前に立ちすぎて、ゲランはほぼ直角にヤヨイを見下ろしている。
ゲランは最初驚いたような、それから考えるような、最後は微妙に気まずそうな顔をした。そしてその表情の変遷にどんな意味があるのかヤヨイが考える間もなく、あっさりとうなずいた。
「そうか。よかったな」
ヤヨイはぎょっとした。
よかったな? よかったな、って――よかったな?
「な――なに、が……?」
自分の唐突な発言は遠くのお空に放り投げ、まったく理解不能な感想らしきものを述べたゲランをおそるおそる見つめる。
くっと笑ったゲランは、ヤヨイの肩をぎゅっと抱いてそのまま道を進んだ。
「おまえの悩みが、色恋に関する話でよかったな、っつうことだよ。道中おまえが聞きたがることっつったら、ここらの風習だの税だのなんだの、まるっきり色気がなかったから、俺はてっきり」
そして、わかるだろ、とでも言いたげにたくましい眉を跳ね上げた。これまでずっと、モテない娘とバカにされていたのかと思い、ヤヨイは顔を真っ赤にして声を上げた。
「そ、そんな暢気な話じゃ――」
「ああ、そりゃそうだよな。おまえなんぞに惚れたりしたら、男は一生苦労していかなきゃならないもんな」
力の限り言い返そうと目いっぱい息を吸い込んでいたヤヨイは、それを吐き出すタイミングを失して固まった。
睨みつけた灰色の瞳から目がそらせない。顔をそむけたいのに、はるか高みに向く首の角度が戻せない。
「……どういう、意味……」
静かに見下ろしてくるゲランに気圧され、途切れる言葉に同級生の言葉を思い出す。住んでいる町の姉妹都市事業で、交換留学生としてカナダへホームステイに行った彼女が一番嫌いだと言った英語のフレーズ。それが「どういう意味?」と「彼女いまなんて言った?」だったという。日本の英語教育がまったく実践的でないことと、通じなかったなら周囲でなく当人に聞きやがれ、という鬱憤が積もり積もってうんざりしたと。
思えばヤヨイはゲランに、同じような言葉を何度も浴びせた。そのたびに、それからいまも、もしかしたら彼も苛立ちを募らせていたかもしれない。
まるで熱のない視線にとらわれ、凍りつくヤヨイに、ゲランの灰色の瞳は一片の慈悲も浮かべていないように見えた。
「なんでヒロやアサヌマ以外の『外』の奴らが、ランドボルグじゃなく辺鄙な田舎に引っ込んでると思う? なんで大きな町では生きられない?」
そう問われてもそんなことに理由があると考える以前に、ヤヨイはまだ自分とヒロ以外の仲間がこの地にいると、実感すらできていない。
だが考えた。都会でなく地方を選んで暮らす理由。
仕事がないから。物価が高いから。咄嗟に思いつくのはこれくらいだ。あとはその土地の特産品に関係があるとか、その場所が気に入っているから、とか――。
「ヒロに、早い結婚を勧められたことはないか」
「……ある」
ゲランはふっと息をつき、いつの間にかとまっていた足を動かす。
「あいつは、利己的な男だから」
その口調にはなんの変化もなかったのに、ざく、となにかが胸に刺さった。『ものすごい自信家の上に独断専行も甚だしいからね』……ジェイルの声が響いた気がした。
心臓が嫌な鼓動を打ち、血液が指先まで下がったように感じた。
「『外』の人間に惚れるっつのは、まして一生添い遂げるっつのは互いにとって楽なことじゃない」
「え……」
「一から十まで全部ちがうことを認めて、生涯わかりあえない可能性も受け入れて、それから世の中にゃあ『外』を嫌う――つうか頭っから信じない輩もいるから、それとやりあうことも覚悟して。『外』の者に限らず、生まれも人柄も努力も、過去の功績だって王の鼻息ひとつで吹っ飛ばされるんだぜ。いまは王家の庇護下にあったとしても、どこにも拠り所のないおまえらを抱え込むことに、怯まない奴なんざいないさ」
その瞬間、ジェナの笑顔が脳裏をよぎった。いつも明るくて陽気で、心からヒロが好きでたまらないと全身で示していた彼女。
「『外』の人間を隣人と認め、優しく知らん振りしてくれるのはランドボルグの住人だが、そこから離れるほどに『外』の人間への興味と好意は高まる傾向にある」
聞き覚えのある言葉に、ヤヨイはよろよろと顔を上げた。それは道中の四方山話で教えられたことだ。ゲランは詳しく語らなかったが、田舎町は長いこと司法制度に問題を抱えていて、それをかつてアサヌマが解決したという経緯があるらしい。
先達の栄光のおこぼれに与るようで恐縮だが、冷たい視線や悪口を投げつけられるよりずっといい。そのときはただ、そう思った。
「王都は無論、これだけ離れた大公領ですら王の影を踏まずには歩けない。功績の挙げられない人間は、せめて失敗を見つけられないよう息を殺しているしかない。だからおまえらを迫害しない、心優しい田舎モンの懐に逃げ込んで生きる。王の目にとまるっつうことは諸刃の剣だ、寵愛が深まるほどに危険も増す。――それがくだらねぇ謀の手駒みてぇに扱われたっつうなら……そりゃ悔しかっただろうなぁ」
衝撃の大きさに、遠い目をするゲランの話の半分は耳に入ってこなかった。
ぐるぐると、優しい人たちの笑顔だけが頭の中を回っていた。
次で旅は終わる予定です。(用心棒が余計な話題を振らなければ・・・。
あと少し、もうちょっとだけめんどくさいヒトにおつきあい下さい。