7
いつの間に寝入ったのか、気がついたら朝だった。
昨夜はガラスの窓に驚き感動したが、カーテンもないそれは朝日を容易に素通りさせ、思いのほか睡眠の妨げになるようだ。ヤヨイは清々しいほどの眩しさに顔をしかめた。
思い悩んだ夜の名残を引きずって、爽やかな目覚めとは言いがたい。それでもしっかり目を開け、隣のベッドを見やると、ゲランの姿は既になかった。シーツや毛布が乱れているところを見ると、昨夜そこで休んだことには間違いないようだ。
寝過ごしたのか、とあわてて起き上がり、身支度を整える。といっても、もう少し上等な宿なら洗顔用の、まさしく洗面器を運んでおいてもらうことも料金のうちだが、ここはそういうところではない。ほつれた髪を櫛で梳き、服の皺を叩いて伸ばす程度のことだ。
スカートをたくし上げて手を入れ、ブラウスの裾を引っ張りながら、ふとおかしくなる。
お金のことでひどく不自由していても、『外』では朝起きて顔を洗うことに躊躇いはしなかった。それなのにいま、たったそれだけのことと一回分の食事代を引き換えるわけにはいかない、となんの疑問も持たずに受け入れている。
価値観の相違を認めた結果か、あるいはいつの間にかヤヨイの気の持ちようがかわったのか。
ヤヨイは、そんな自分はちょっと好きだ、と心の中で言葉にしてつぶやいてみた。大丈夫、怖くない。今日も歩ける。
まだ、歩いていける。
部屋のドアを開けると、廊下の向こうに吹き抜けになった食堂が見下ろせる。
朝とは思えぬ温まった空気が立ち上って充満していて、首をかしげながら顔を出し、ヤヨイは目を瞠った。
「ああ起きたのかい、ヤヨイ!」
少ししゃがれた声のキツい口調、女将だ。
彼女の前には、厨房部分に据えられた大きな作業台。その上には籠に積まれた野菜と、羽根をむしられて丸裸の鶏。
ヤヨイは挨拶をしようと口を開いたが、女将の傍らで振り返ったゲランを見つけ、彼が満面の笑みで示すものに絶句した。
すぐ近くのテーブルが、それは見事な料理でいっぱいになっている。
「下りて来いよ、ヤヨイ。朝飯だ」
朝飯だ、で済む内容ではない。
ふらふらと階段を下り、ヤヨイは女将のそばに寄った。
「おはよう、ございます……」
「ああ、おはよう。ほら、座って座って!」
顎でテーブルをしゃくってみせる女将の意を汲んで、ゲランがヤヨイの背を押した。
たたらを踏みながら席に座らされたヤヨイの前には、朝とは思えぬ豪華な料理がずらりと並んでいた。
小鳥の丸焼き、兎のワイン煮込み、豚腿の燻製、川魚のハーブ焼きといったメインの他、この時季に採れるだけのあらゆる野菜を盛りつけたサラダ、顔ほどもあるカリカリのパンに拳大のビスケット。数種の木の実を砕いて炒ってシロップをからめたお菓子、甘い香りのミルク粥と蜂蜜にひたったプレッツェル。飲み物も、煮沸したばかりのホットミルクから強い花の匂いがするハーブティ、もちろん小樽に入った酒もある。
「……すごい」
咽喉の奥でうめいて横目で見やると、隣に座ったゲランは肩をすくめた。
「とにかく食えよ」
「って、言われても」
この地で目覚めて以来――いや、十七年の人生で記憶にある限り、こんなにたっぷりのご馳走を前にしたことはない。
戸惑いながら椅子の上で小さくなっているところへ、女将が前掛けで手を拭きながらやって来た。小脇に挟んでいるのは、薄汚れた小ぶりのノートだ。
「ちょっとちょっと! あったのよ、見てこれ!」
向かい側の席に腰を下ろすなり、女将は満面の笑みを見せる。興奮に上気した顔は若々しく、どこか愛しげにノートを見る瞳は優しく緩んでいた。
「あのさ、ヤヨイ。あ、食べなさいよ熱いうちに! これ読んでほしいのよ」
せっかちに言って差し出されたノートを、ヤヨイはおずおずと受け取った。まだ事態が飲み込めず狼狽するヤヨイに、ゲランは「飯代は女将持ちだとさ」と的外れなことを言う。
「あたしもさ、べつにはしゃいでるわけじゃないんだよ? ただ昨夜、うちの亭主と昔の話なんかしてたらこう……ねえ? あ、亭主は森に入っちまったけど」
はにかみつつ舌打ちなどする女将に、ヤヨイは要領を得ないまま燻製肉の切れ端をフォークに刺す。
「今朝になって、そうだと思って物置を探したらさ、あったのよ! これ!」
「はあ……」
「食べなさいったら。ちょっとそれ、読んでちょうだいよ」
ヤヨイは女将が促すまま、香木の風味のする肉を口に押し込んでから古いノートをテーブルに広げた。粗末な紙を紐で綴じ、端切れで補強した簡素なものだ。
しかしそこに書かれていたものは、ヤヨイを驚かせるのに十分だった。
漢字だ。
万年筆ではなく筆の文字で、漢字が書かれている。
「こ、これ――」
思わず顔を上げると、女将はわくわくした表情でうなずく。
「昔、ここに泊まった『外』の男が書いてくれたんだ。名まえがあるはずなんだよ」
ヤヨイは急いで肉を飲み下し、久しぶりに目にする他人の日本語に見入った。
「読める? ね、なんて?」
興奮を抑えて問う声に、小さく応える。
「……モリシタ、マサル……」
「あー、そうよ! そうそうそう、モリシタ! マサル!」
女将が甲高い声を上げて手を叩く。この、異様な盛り上がりはなんだろう。
「ああそうだ、モルーシアじゃなかった……メッサーリでも、なかったねぇ」
しみじみとした女将の言葉を聞きながら、ヤヨイはもう一度、生成りの紙に視線を落とした。
森下勝、日本、東京、天皇陛下――。故郷のことを、文字で綴りながら話して聞かせたのだろうか。
ページをめくれば、上手とは言いがたい絵が描かれている。へのへのもへじ、日の丸、それから鉄腕アトム、だろうか。そして天狗も。
「おぉすっきりした! ありがとう、ヤヨイ」
「あ――いえ……」
「悪かったね、朝から驚かせて。なにしろ古い話だからさ、懐かしくて」
ヤヨイの手元を見つめる女将の目は満足げだ。
「あの……モリシタさんと、交流が……?」
「交流なんてお上品なもんじゃなかったけどね、あたしらは子どもだったからさ。だけどまあ、言葉もろくに通じやしなかったけど、遊んでもらったよ。ほら『外』の人間なんて初めて見たろ? 顔立ちなんかは別だけど、どっこもあたしらとかわらなくってさ。……楽しかったねぇ」
そのとき初めて、ヤヨイは意識して女将の目を見た。こちらを向いてはいなかったけれど、そこに過去を懐かしむ以外の色を見つけることはできなかった。
それから女将は、気恥ずかしげに鼻を鳴らして席を立った。
ヤヨイはフォークを置き、両手で大切にノートを持った。
このノートを残したモリシタは、女将と同年代の――当時の子どもたちと親しくなったのだ。言葉は通じなかったと女将は言った。オージェルムのない世界から来た人間だということを、彼らはどう受け止めたのだろう。
「その、モリシタ? がさ、ここの名づけ親なんだと」
横から手が伸び、パンをつかんで豪快にぱっくりと割る。そこに肉とサラダを挟み、サンドイッチにした。味付けは燻製の塩気だけかな、でも美味しそう、と思った。
早朝から女将のアシスタントをしていたというゲランに聞けば、四十年前、モリシタがこの宿に投宿した折、新しい屋号を贈ってほしいと当時の主人にせがまれたのだそうだ。女将の父親である。
合点がいった。「天狗の宿」だなんてこの土地に異質で愛嬌のある名前はそのせいか、と。モリシタの故郷はきっと、天狗の伝説がある土地だったのだろう。
あっという間にサンドイッチを食べ終え、ゲランは小鳥の丸焼きを無造作につかみ、背中のあたりにかぶりついた。
「おとなしい男だったらしいぜ。右だか左だか、腕を悪くして痛そうだったって」
それはきっと、『落下』の際に負った怪我の後遺症にちがいない。ヒロもいまだに、歪んでくっついた脛の骨のせいで苦しんでいる。
「モリシタさんは……スウェンバックに向かったのかな」
もしかしたら会えるのでは、と漠然とした期待は、だがゲランによってあっさりと退けられた。
「いいや? 昔はいまほど街道が整備されてなかったから、ドランヴァイルに抜けるにも、もっと西へ行くにもこの道を通ったんだ。俺が知る限り、スウェンバックに『外』の人間が住み着いたって話は聞かない」
見る見るうちに、鳥はきれいに骨だけになって皿の上に放り出された。
ヤヨイは目を上げ、女将の姿を視界に映した。こちらに背を向けて作業台の前に立ち、ナイフを叩きつけるようにして丸裸の鶏をさばいている。照れ隠しにちがいなかろう。
ただモリシタの名まえを教えてもらうためだけに、こんなご馳走を振る舞ってくれるはずもない。もっと話したかっただろうに――ヤヨイの話を聞きたかっただろうに、あまり社交的でないヤヨイを気遣って、これ以上立ち入ってこないのだ。
そう思うと、途端に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。せっかくモリシタがこの地に築いたささやかなものを、ヤヨイがぶち壊しにしてしまったように感じた。
それでも思い出の中のモリシタのために、女将はヤヨイにご馳走とはにかんだ笑顔をくれた。
そっと、ごわつく粗い紙に残された四十年前の痕跡に触れてみる。
筆で刻まれ、通り過ぎた人々から記憶を引き出すだけの記号に成り果てたモリシタ。ヒロからもジェイルからも、その名を聞いたことはない。彼はどこに安住の地を見つけたのだろう。どうやって、そこがそうだと、わかったのだろう。
知らず疑問は口から流れ出ていた。蜂蜜漬けのプレッツェルをハーブティに突っ込んでいるゲランは、ただ黙って憐れみの表情を浮かべた。
豪勢な朝食を終え――ほとんどゲランの胃袋に消えたのだが――、相場より少し多い代金を置いて宿を引き払うと、女将は表まで見送りに出てくれた。
会釈にもならない程度にぺこぺこと頭を下げながら立ち去ろうとして、ヤヨイは立ち止まった。場にふさわしい言葉を知っているわけでも、なにかの期待に応えられるだけの力もない。
でもなにか言わずにいられないから――自分のために、胸の中に湧き上がった気持ちを口にした。
「あ、の……ご飯、美味しかったです。ありがとうございました。……また、来ます。必ず。今度はゆっくり、もっとゆっくりお話したいと思います」
モリシタの思い出を聞いてやるだの、『外』に関する知識を与えてやるだの、そんな驕った気持ちはひとつもない。いまのヤヨイには『外』から来た事実は重圧でしかなかった。いいことも悪いことも、ヤヨイの個性や意思と無関係に全部そこに起因している。
ジェイルの語るナガヤマさんのように、女将の記憶に残るモリシタさんのように、離れても大切にしてもらえる存在に自分がなれるとは、到底思えなかった。だからいま、女将に再訪を約束しているのは純粋にヤヨイ自身のためだ。モリシタさんの同胞である、その一点だけでも価値を認めてもらえるのなら、と。
後ろめたさからうつむくヤヨイの顎が、不意に下から伸びた手にすくいあげられる。視界がぶれるほどの勢いで上向かされ、女将が遠慮ない動作で昨日と同じく右に左に揺さぶった。
「なんて顔してんだい、まったく。あんたスウェンバックを目指してんだろ? そりゃもうすぐ目の前じゃないか! 長旅が終わるんだ、普通はもっと清々してるもんだよ」
そして今日もやっぱり、ぱん、と両頬を張られて解放される。
己の無力さと気構えの甘さに打ちひしがれ、そしてそれが原因で大切なものを失ったと信じ込むヤヨイの耳に、女将の励ましはひどく新鮮に響いた。
じんと熱くなる頬をおさえ、ヤヨイは思わずゲランを見上げた。三十センチも高いところで、灰色の瞳は微笑んでいる。
すりすりと頬をさすり、ヤヨイは呆然と女将の言葉を反芻した。旅の終わりは、清々するもの。
まだ歩ける、と思った。だがそれは決して建設的な意味合いではなく、むしろ断頭台へ我が身を運ぶような覚悟ではなかったか。
そのとき、なんのためにスウェンバックを目指していたのかを思い出した。
きっかけがどうであれ、これは前向きになるための旅だったはずだ。広い世界に目を向け、自分で作った殻に守られるばかりの日々をかえようと。アサヌマに会うことは口実で、実際には旅そのものが目的だったのだ。
足の裏にマメを作り、筋肉痛で重い身体を引きずって歩む道のりで、様々なものを見聞きしてきた。楽しいことばかりではなかったし、厳しい現実を知って臆さなかったわけでもない。だが反面、ヤヨイのどこかは静かに未来を見つめていたはずだ。
すべてを投げ出すことが案外簡単であることを、ヤヨイは知っている。本当になにもかもいらないのなら、なにも欲しくないと言い切れるのなら、境界の向こう側に行く術はいくらでもあるのだ。
そうしないのは、もう手放したくないものを持っているから。ヤヨイがそれを手放すことを、悲しむ人がいるとわかっているからだ。
冷たい手が、ヤヨイの頬に触れた。目の前に焦点を合わせると、「しょうがない子だ」とため息混じりにメリル・ストリープが笑った。
「さあ、お行き。ここまで来たんだ、あと少しさ」
またおいで、と素っ気なく言って踵を返し、女将はそのまま振り返りもせず宿の扉をくぐっていった。
色褪せた天狗の顔の真下で、乱暴に閉ざされた扉は、開こうと思えばいつでも開いてヤヨイを受け入れる。ただし次にそうするときは、自分の手で、自分の力で。
スウェンバックに着いたらおしまい、そんなわけはなかった。そこからまた始めるのだ。ならばこの旅の終わりは、無知と煩悶に訣別するときでもある。
――なるほど、それは清々しそうだ。
「……あーぁ」
意味もなく声を吐き、帽子をかぶりなおす振りをした。
くっ、と咽喉の奥から笑いがもれる。そんな気分でもないのに首を曲げて空を見上げたら、鼻がつんと痛んで涙が湧いた。目に染みる青空は遠く、緩く吹きつける風は肌に冷たい。赤茶色のコートは重たくて、暖かい。薄く一筋こぼれた涙が、耳の下に流れ落ちる。秋だな、と思った。
凛とした横顔の向こうに広がる空も、こんな色をしていたような気がする。
(会いたいなぁ……)
落ちそうになった帽子を、背後に立って顔を覗き込むゲランの手がおさえた。逆さまに映る彼は穏やかな無表情のままで、かすれた雫をぬぐってくれた。
まだまだ迷走中。ウザいといわないでやって下さい。
感想、拍手、ありがとうございます。
ご指摘で初めてヤヨイが天然ボケであることに気づきました。
あとアサヌマさんの登場を楽しみにして下さってる方がいらして、
驚くとともに緊張しています。ヨーダですよ・・・?




