6
時計のない田舎町では、陽が落ちれば夜になる。
やたらハーブの匂いがキツい割りに塩気の少ないスープとパン、それにオムレツが添えられた夕食を済ませた後、ヤヨイはすぐに部屋へと引き取った。
メリル・ストリープに似た女将はなにか話したげだったけれど、村に一軒きりの酒場でもある宿の食堂は繁盛していたし、あまり長居して『外』の人間だと知られたくなかった。
ゲランは今夜も、他のお客さんと酒を酌み交わしてくるのだろう。女将とのやり取りから察するに、村の住人とも馴染みのはずだ。そこに綺麗なおねえさんが一人も見当たらなかったことに、なんとなく救われる。
昨日は野宿だったから、お風呂には入れなかった。この宿に湯殿はないので、女将に頼めば湯を部屋まで運んでくれるはずだ。でも盥に一杯でいくらと計算するそれを値切り交渉する気力は、いまのヤヨイにはなかった。
手燭の炎を吹き消してベッドに上がると、毛布をはいでざらりとした手触りのシーツに埃で汚れた服のまま寝転ぶ。目的地はもう目の前だ、と思うほど、喜びや達成感よりも、後悔や罪悪感で気がふさいだ。
何気なく目を向けた窓に鎧戸ではなくガラスがはまっていることに気づいて、いまさらながらに驚いた。ガラス、特に板状のものはとても高価な品で、ランドボルグ城でも数えるほどしか見たことがないのに。
厚みがあって表面がデコボコしていて、無数の気泡を抱いたガラス。それでもちゃんと、星の光で青く染まった夜空が透けて見えている。
ふと、この世界でも星は丸いのかな、と思った。もしかしたら、地球が歩むはずだった別の世界なのかも、とか、それなら日本もあるのかもしれないな、と。
機会があったら、できるだけ大きな地図を見せてもらおう。きっとジェイルならそれを持っている――。
「…………」
あの衝撃の朝から、まだたったの十六日。随分長いこと放浪したような気でいたけれど、よく考えたら道に詳しく旅慣れた連れに従って、目的地へとまっしぐらだ。
いささかならず白けた意識を持て余し、どうしてこんなところにいるのだろう、と、氷の粒を吹きつけた暗幕のような空を見上げる。ベッドに横たわって星を眺めていると、身体がドロドロに溶けてしまう錯覚にとらわれた。ちらちらと歪んで瞬く光に惑わされて、催眠術にかかったみたいだ。
ヤヨイはそっと息をつき、目を閉じた。
おじいちゃんもおばあちゃんも、心配しているにちがいない。
ジェイルは今度こそ、烈火の如く怒る狂っているだろう。――案外、あっさり見放されたかもしれない。
だってここに至るまでに、ヤヨイを追ってくる人はいなかったのだから。
「…………」
これってどうなんだろう、と、自分を俯瞰で観察するヤヨイが疑問を呈する。追っ手がかからないということは、本当に見捨てられてしまったのか。それとも、もっと別のルートを探しているのか。あるいは――。
「……だまされるのは仕方ない、けど……ゲランが、わたしをだましてるとは……」
思いたくない。
ヤヨイは目を開き、ぼんやりと歪むガラスの向こうの空を見つめた。
いまさらゲランを疑ったところで遅すぎる。それにジェイルのアドバイスに従って、ケンカしたり話し合ったり、好き嫌いをぶつけあってここまで来たのだ。明日スウェンバックに着きさえすれば、ゲランへの疑いがすっきりと晴れれば、彼とは本当に親しい友だちになれると思う。
だからいまは、もっと別のことを考えなければ。
そう、たとえば――スベスベした手触りの、長くて綺麗な髪をした人のこと、とか。
ごろんと横向きに身をよじり、ふかふかした綿入り枕の感触を味わう。
(……いいも悪いも、返事、しなかったな……)
それならいい、と最後に王子は言ったが、アプローチを拒まないでほしい、という申し出を黙殺してしまった。
いや、もうそんなことを気に病む段階ではないのかもしれない。あのときは確かにヤヨイに対して好意を持っていてくれたかもしれないが、きっと愛想を尽かされた。
追いはぎも出ず、ランドボルグからの追っ手もなく、ヤヨイの行く手を阻むものはなかった。だれひとり、なにひとつ、障害にはならなかった。グレイヴ王子も、追ってきてはくれなかったのだ。
捕まる前に、少しでも早く遠くへ。自由に、自分の力で。そう望んでいたはずなのに、実際ほうっておかれたら寂しいだなんて矛盾している。
自分がひどくわがままで、ちっぽけな人間に思えてきた。もともとの存在意義からして薄っぺらである自覚はあったが、あんまりだ。さすがにこんな己を直視するのは惨め過ぎる。
しかし、いつものように思考を放棄して殻に閉じこもろうとしかけ、ヤヨイは踏みとどまった。かなりギリギリで、本能みたいなものが抵抗するのを、おさえつけて。
だって決めたのだ。だれかの勝手な思惑や無理強いに反発をすることはあっても、せめて自分の心から目を背けることはやめようと。
疲れたら休み、楽しければ笑い、つらければ弱音を吐く。それがあたりまえのことだと思い出したのだから、いま自分の心がどういう状態にあるのかは把握しておかなければいけない。
それはまるで、一晩中泣き喚いた朝、わざわざ鏡を覗くような恐怖を伴う。ひどい顔なのはわかっている。見なくてすむならそうしたい。
けれど腫れた瞼は冷やせば治るし、蒸しタオルで温めれば顔色はよくなるものだ。
色々なことから目を背けて今日まで来たが、明日はいよいよスウェンバックに入る。ゲランと二人の気楽な時間は終わりを告げ、どういう結果になるせよ、多くの意見や感情をぶつけられるにちがいない。
自分の問題とゆっくり向き合うのは、今夜が最後のチャンスになるだろう。堂々巡りになろうと憶測だらけだろうと、あの人のことを考えるべきだし――考えたい。
ヤヨイは再び目を閉じ、出発点を探った。
王子の好意は嬉しかったし、ヤヨイ自身も同じ種類の気持ちを抱き始めていたことは間違いない。ジェイルの部屋を飛び出すまで、確かにこの手に握った絵筆は明るい未来を描いていた。
――それが急に色を失ったのは、なぜだったの。
詰所のポーチで聞いた王子の言葉は、字面だけ見れば情熱的だった。もしもそれにふさわしい熱をもって迫られていたら、こんな気持ちにはならなかったかもしれない。口説くチャンスをくれ、などといわれなくても、あの瞬間、口説かれていると素直に思えただろう。
そしてそれは、きっとふわふわと甘やかな心地だったにちがいない。
あのとき感じた喪失感の正体は、なんなのか。
王様への反発? ――ないわけじゃないけれど、庇護を受ける立場にあっては、それだけで片づけられないと理解もできる。勝手を言うなと憤るほど、まだ事態を消化できてもいない。
王様への、怒り? ――人権を踏み躙る行為といえばそのとおりだ。いまどき政略結婚なんて時代錯誤だし、けれどここのいまどきと『外』のいまどきでは、それこそ時代がちがう。
ヒロに聞かなきゃわかんない、といまだにどこかで考えていることも確かだ。実際、ヒロに相談しないことには始まらない。アサヌマに会わなくてはと、ひたすら思いつめたのは明らかに逃避だった。
しかし緊急かつ異常な状況にあって、あの瞬間まで決してマイナスの意味で狼狽しなかった理由もわかっている。
グレイヴが差し出し、ヤヨイが受け取った気持ちが確かにそこにあったからだ。
(王族、とか……国、とか……政治? とか……ほんとはそういうの、わたし気にしてなかったんだ――)
鈍く頭痛がする。
ヤヨイに難題を突きつけないゲランと過ごして、自分がいかに特異な環境にいたかが身に染みてわかった。
本当はずっと、もしかしたら元の世界にいた頃から、ヤヨイの神経は参っていたのかもしれない。参っていたことにも気づかないくらい。だからちょっとした感情の揺れで絶望などしたのだ。
「ん?」
絶望……? なぜ? なにに?
王子はヤヨイを好きだと言い、ヤヨイも彼に惹かれていた。王様は二人に寄り添って生きろと言い、多少の温度差はあれど二人ともそれを受け入れようとしていた。絶望する必要などどこにもない。
ないけれど――でも。
遠くを睨む瞳。
気遣わしげにおいた空間。
苦しげに紡がれた愛を乞う言葉。
胸の奥がひどく痛んだけれど、ヤヨイはひとつひとつ、丁寧に思い出した。そうしているうちに、ようやく自分のどこが傷ついたのかが見えてきた。
ヤヨイがぼんやりと思い描いた恋。初めてヤヨイの掌の中に目覚め、優しく育んでいけると思ったそれが、不安と苦痛で染められたことが悲しかったのだ。
そのたったひとつを守ってくれればそれでよかったのに、甘くてふわふわした心地ではいられないと、現実を突きつけた王子に落胆したのだ。ヤヨイの心情を思い遣ってくれたからこそだと思えば、さらに距離が感じられたのだ。
この恋に示された道筋がどうであろうと、ヤヨイにとっては二人が過ごした短い時間と、味わった面映いようなくすぐったさが基点だ。王子も同じであると口では言いながら、彼自身が一番それを信じていなかった。
王様の命令だから従わざるを得ない、とヤヨイが言い出すことを、ひどく恐れていた。
当然だ。
だってヤヨイは、彼が信じられるだけのものを、まだひとつも返したことがなかったのだから。そうする前に、大きななにかに呑み込まれて、あっさりと自分を見失った。
それくらい、始まったばかりの恋だったのだ。
(そっか、わたしはあのとき……)
――失恋、したんだ。
ヤヨイの未熟な感性が期待するもの――闇雲な情熱や、恋愛映画みたいな甘ったるいムードを演出してくれなかった王子に、生々しく泥臭い現実を見据えなければならない状況に、幻滅して恋心を放棄して。
「……あ、はは」
乾いた小さな笑いが唇の端からこぼれ出た。
わざと毛布を蹴立てて大きな仕草で仰向けになおり、頭の下に腕を組んだ。本も読めそうな星明かりに照らされ、つんと上向けた自分の鼻先が青白い。
ヤヨイが失恋したとしたら、ありもしない幻想にだ。
ゲランと旅をしていると、他人と触れ合うことがどれだけ予想外の顛末を引き起こすかしみじみと思い知る。まして『外』とちがい、まず安全に食べて眠ることすら難しい状況もある日常の中で、恋愛感情を最優先にする余裕はない。そういう習慣も考え方も、ないのだろう。
王子もあのとき、なにか重要なことを王に告げられていたにちがいない。それこそヤヨイが「気にしない」と鷹揚に、そして傲慢に切って捨てていたこと――国益とか、よくわからないけどそういうことを。
だって彼は、カメラの前で手を振るだけが仕事ではなく、もっとリアルに大きなものを背負って生きる、王の子なのだから。
「や……だなぁ……」
自嘲のつぶやきをぽつりともらし、ヤヨイは熱くなった瞼を下ろした。涙をこらえれば唇がわななき、息をつめてもやっぱりだめだった。拳に握った手を目元に押し当てても、一度堰を切った涙は、蜘蛛の巣に伝う雨粒のように次々とこぼれていった。
真っ暗闇に、紺色のリボンで束ねたチョコレート色の髪が舞う。紺色の上着を隙なくまとい、すっきりとした姿勢で窓の向こうを見つめる端整な横顔が像を結ぶ。
記憶の中の王子はこちらに気づき、嬉しそうに目を細めてヤヨイの名まえを小さく呼んだ。ヤヨイも微笑み返したように思う。
もどかしくて気恥ずかしくて、でも平穏だったときに互いが見せ合った、最後の笑顔。
あれしきのことで深く深く傷ついたのは、思うよりずっと王子に惹かれていたからだ。
『俺は、おまえたちが自由意志で自分の相手から王族を除外していたと思いたいし、そうあるべきだと思う』
そう言ったとき、彼は悩んでいるように見えた。それでも、ヤヨイのことを精一杯気遣ってくれたのだ。負うものがどれだけ重くとも、重いからこそ、ヤヨイには持たせたくないのだと。
あのとき不意に思った。このままではダメだと、なにかをどうにかしなくては、不幸になると。
ならばヤヨイは、どうしたら二人で幸せになれるか、一緒に考えるべきではなかったか。王子はちゃんと、最初から始めようと手を差し伸べてくれたのに。
王様から結婚しろと言われる前に、堂々とヤヨイが好きだと言ってくれた。
命令だからではなく、ヤヨイが自由意志で自分を選んだのだと思いたい、と、苦しそうに伝えてくれた。
なのに見当違いに幻滅して、勝手に絶望して、その手をとらずに逃げてしまった。
「……っ」
ごめんなさい、と声にしかけて、奥歯をかんでこらえる。
王子に、とても会いたい。けれどそれはもう、かなわない気がした。
追ってきてはくれなかった。明日にはもうスウェンバックに着いてしまう。
もしかしたらもう、王子の笑顔を脳裏に描くことすら、ゆるされないのかもしれない。