5
それまでくだらないバカ話に費やしていた時間を、ヤヨイは「お勉強」にあてることにした。
その地に生きる人にとってはごくあたりまえの風習や慣習でも、だからこそあえて口の端に上ることのない話題はとても多い。故郷でたとえるなら、お盆やお墓参りの作法、七五三や成人式、結納に女性からは時計を贈り男性からは指輪を贈ることなど、そのときでなければ意識せずとも特に支障のない話だ。
そういうことを思いつくまま尋ねるうち、なぜかナンパの常套句から馬房の建て方まで教わっていた。
たらたらと歩みながらの旅程は出発当初より遅れ、やはり野宿や納屋泊まりを余儀なくされることもある。ゲランは屋根があるなら入り口からより近いほうに、ないなら自分の膝に抱えて眠りヤヨイを護った。
その朝ぱち、と目を開けたときも、ヤヨイはゲランの胸に左の頬をあずけていた。太い木の根はよけたものの、小さく隆起するそれの上に一晩載せた尻が痺れている。
ぎゅっと目を瞑ってからもう一度開ける。
右肩からヤヨイを包むのは、ゲランのマント。つむじのあたりに落ちかかる吐息が安らかなリズムを刻んでいたため、ヤヨイはすぐに動き出すことをあきらめた。
(今日で……十六日目?)
時計もカレンダーもない生活で、一体いまがいつであるかを忘れないのは骨が折れる。それでもランドボルグにいればふとしたタイミングでそれを知ることができたが、旅の空ではそうもいかない。ヤヨイは毎朝、脳内の日めくりを一枚めくることを日課にしている。
そうして気づけば、いつの間にかランドボルグで過ごした日数を超えていた。
ゲランとの旅は、拍子抜けするほど平穏なものだった。追いはぎに遭うことも、ひどいぼったくり宿で有り金を巻き上げられることもない。旅慣れたゲランの選んだルートがよかったのか、はたまた運が味方しただけなのか。
見るべきものもない小さな村を経由しながら、ヤヨイの知識は幅広く増えていく。あんなふうに、なにもかもを投げ出して家出してきたというのに、まるで一ころ流行った「自分探し」でもしているかのごとき収穫である。
慣れればどうということもない、野宿の手順はこうだ。
まず適当な木の根元に手ごろな石を積み上げて竃を作り、集めた粗朶にゲランが火打ち石で手早く火をつける。やってみたこともあるけれど、ちっともうまくいかないあれだ。それから麦の粉を取り出し、皮袋の水で練る。リュックから細い鉄の棒を取り出して先端に巻きつけて炙ればパンが焼ける。
その間に寝床の仕度を整えるのだが、横になって眠るほど安全が確保できることは稀で、ほとんどゲランの腕と抜き身の大剣に抱えられることになった。
「なんだってそんなこと知りたがるんだ? ランドボルグにいりゃあ、喜んで教えてくれる御方がいらっしゃっただろうに」
途切れることなく質問をするヤヨイに、時折ゲランはそう言って笑った。その言い回しが示す人は、限られる。ゲランの敬愛するジョージ・クルーニーが思い浮かんだ。
もとよりそば近くで過ごした期間が短く、聞くチャンスがなかった。そんなことを知らなければ、と思うきっかけもなかった。
いまは遠慮なく尋ねられる相手がいて、少しでも知っておきたいと思うから、そうする。
様々な話を聞いた。王家のことに重点をおくそれにゲランが気づいたかわからないが、特に訝る様子もなく教えてくれた。
俗に大公三領と呼ばれる土地の特殊性についても学んだ。
現在、王様の上の弟が治めるファルジート、姉が女大公として立つドランヴァイル、そして末の弟のいるスウェンバック。
元々は王の名代として役人を派遣をして治める土地だが、国王に兄弟がいる場合は、彼らが一代大公を名乗ってその地に住まう。ただし当人が既に王族籍を失っていることから、呼称は大公であっても実質的には終身であるだけで役人とかわりない。つまり、その子どもは王の甥や姪であっても、まったくの平民扱いとなる。大公が亡くなれば、またランドボルグから新しい役人が派遣されてくるだけだ。
「…………」
すうっと眠りに引き込まれそうになって、ヤヨイはあわてて目を開けた。
ヤヨイを抱えるゲランはまだ木陰の中だが、ヤヨイ自身は曙光の片鱗を浴びる位置に顔がある。といっても、西の空は闇色で星が瞬き、太陽はまだ平原の彼方に指をかけた程度だ。いまが初秋であることを考えれば、そう早い時間でもない。
ヤヨイは細心の注意を払って、腰を抱くゲランの腕をそっとはずした。さりげなくずっと神経を張っていた彼も、スウェンバックが近づいたせいか、ぐっすりと眠り込んでいるようだ。
自分の代わりに荷物を抱かせ、ヤヨイは静かに立ち上がって夜明けの光に身を曝す。
閉じた瞼に赤く透ける光は弱くとも眩く、魂から清められていきそうな気がした。
ゲランとドつき漫才をしながら旅路は、初日から全工程徒歩の予定だった。
ランドボルグの市場でもらったものを仕分けしつつ、ゲランはヤヨイの持ち金の額を聞き、それだけあれば馬車を拾うこともできると言った。同時に、こうも勧めた。
「俺は歩いて旅するのが嫌いじゃない。ゆっくりと見渡してこそわかるものっつうのが、絶対にあるからな。スウェンバックまでなんざ、どんだけのんびり歩いたってせいぜい二十日。……歩けよ。歩いて、自分の目線でいろんなもの見てみろ」
最初は、それどころじゃないと反発を覚えた。とにかく一刻も早くアサヌマに会わなければいけないのに、なにを悠長な、と。
けれど薄いグレーの瞳が思いのほか真摯な色を浮かべているのを見て、それを口にすることができなくなった。
それで確かにわかったこともある。
たとえば野宿は心身にとって悲惨であること。そこらに生えている果物は食べ放題だけれど、やたらと酸っぱいこと。足の疲れを軽減させるため、旅人は脛に布を巻くこと。飲用に適さない水のそばには、ある種の植物が生えていること。薄暮を過ぎる頃、森から生まれた靄が街道へ這い出して、とても幽玄に景色をかえること。朝焼けに染まった黄金色の畑が、息を飲むほど美しいこと。
歩き疲れて泣きそうになったとき、さりげなく手を差し伸べてくれる人の存在が、やっぱり泣きそうなほどありがたいこと。
自分で次の足を踏み出さなければ、決して進むことができない。けれどもう歩けないと思ったら、座り込んで休めばいい。靴を脱ぎ、寝転んで、昼寝をし、あるいは甘いものを食べて他愛もない話で笑って。活力を取り戻したら、また立ち上がればそれでいいのだ。
そんなあたりまえのことが、いまのヤヨイにはひどく新鮮なもののように感じられた。
「まぁ、結果オーライ?」
「あ? なんつった?」
いまにも宿の扉を開けようとしていたゲランが肩越しに振り返り、片眉を派手に跳ね上げる。器用な顔面だなぁ、などと感心しつつ、首を振った。
訝りつつも、スウェンバックはもうすぐそこ、このあたりでの常宿だという旅籠「天狗の宿」へと入っていくゲランに続き、ヤヨイは頭上の色褪せた看板を見上げて嘆息する。
――天狗だ。真っ赤な顔でながぁい鼻の。
どこかのお土産品のような天狗のお面が貼りつけられた、一抱えもありそうな看板。しかしその顔立ちは、塗りがハゲ、そこここがひび割れてもわかる西洋風だ。
ゲランに促されて足を踏み入れた宿は、これまでに泊まったところと代わり映えのない、寂れた木造の二階建て。入ってすぐが食堂と酒場を兼ね、奥の階段を上がった先が客室だ。案内されなくても見当がつく。
「おや、ゲランじゃないか」
獣脂の蝋燭を灯した室内は薄暗く、まだ時間が早いこともあって客の姿もない。食堂と間仕切りさえない丸見えの厨房から声を上げたのは痩せぎすの女性で、ヤヨイは即座にメリル・ストリープとあだ名をつけた。
「よう、女将。世話ンなるぜ」
気安く片手を上げたゲランは、そのまままっすぐに階段へ向かおうとした。あわてて後を追うヤヨイは会釈だけしたが、女将はつかつかと歩み寄ってヤヨイの二の腕をがしっとつかんだ。その目はきつく眇められ、肉がえぐれたようなとがった顎も傲然と上向いている。
「お待ちよ。あんたがどこへ行ってなにをしようとかまやしないけどね、若い娘をたぶらかして連れ込むような宿じゃないんだよ、うちは」
やけに険のある声でつっかかる先で、ゲランは困ったように苦笑いを見せている。
むっと口を歪めて睨む女将がなぜ怒っているのか、まったくわからない。
「勘弁してくれ。こいつはそんなんじゃない、俺の雇い主だ。よく見ろよ」
言いながら、ゲランの手がヤヨイの帽子のつばをさらう。
うなじの上で結んだ髪がぽろりと転がり出て、女将の凍てついた視線がさっと緩んだ。
「あら、あんた……おやまぁ……」
おやおやまあまあ、とつぶやきながら、女将はヤヨイの顎をつかんで上げたり下げたりと検分する。
「驚いた、あんた『外』の娘じゃないか! いや、落っこちてきたって噂は聞いてるがね、そんなに前の話じゃないだろう? ランドボルグにいなくていいのかい? なんだってこんな田舎に」
最後にパン、と軽く両頬を叩かれてから、ヤヨイの顔は解放された。
痛くはなかったが、若干の痺れを感じて頬をさするヤヨイの頭に、ゲランの大きな手が載った。
「スウェンバックに向かってんだよ。アサヌマに目通り願うためにな」
「ああ……」
小さくとも街道沿いに宿を構えているのだ、女将は旅人を情報源にしていろいろな事情に接しているのだろう。一応は納得した様子だが、ゲランを胡乱げに眺めてからヤヨイに顔を寄せて声をひそめる。
「お嬢ちゃん、連れはこの男だけかい? 普通『外』の人間ってぇのは、ぞろぞろと行列して馬車で動くもんだよ。もしうまいこと言いくるめられてんなら――」
ヤヨイに尋ねる形ではあるが、明らかにゲランに対する牽制だ。きょとんとするヤヨイよりも、牽制されたゲランがいち早く口を開いた。
「おいおい、女将。俺の商売は人買いじゃないし、あんたの店をいかがわしい目的で使うこともない」
「……じゃあ、部屋は二つとるんだね?」
「冗談はよしてくれ、もったいない。天に誓ってもいいが、俺はこいつに手を出したりしないぜ」
両の掌を上げて見せ、ゲランは神妙な眼差しを女将にそそぐ。
そのまま睨み合いに突入する気配を察し、ヤヨイも宿に足を踏み入れてからようやく最初の一言をはさんだ。
「あの、大丈夫です。ゲランはほんとに、ちゃんと護衛です。ここまで二人で歩いてきたけど、その、身の危険とか……感じたこと、ないです」
自分の言っていることが妙に恥ずかしくて、ヤヨイはいたたまれずにうつむいた。意味もなく指先をいじっていると、「歩いてってあんた――」とあきれ返った声が降ってくる。
「……わかったよ。お嬢ちゃんの顔を立てて、二人部屋を使わせてやるよ。すぐ食事の仕度をするから、荷物を置いたら下りといで」
そして視界の中に差し出された古い鍵を受け取り、ヤヨイはようやくその日のベッドにありついたのだった。