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「今日はさ、寝るところ、農家の納屋でも民家の軒下でもかまわないから」
宿を引き払い、町の広場を抜けて街道に一歩踏み出したところで、ヤヨイはおもむろに切り出した。
「少し、話をしながら歩いてもいい?」
ぴたりと足をとめて振り返ったゲランは、大きく目を瞠った後、一瞬だけすっと眇めた。警戒されたと悟ったのは、ほとんど本能の仕業だったかもしれない。
「なんだ、あらたまって。話ならいつだってしてるだろうよ」
ゲランはすぐにいつもの表情を取り戻したが、かえって取り繕ったようにヤヨイには見えた。リュックを背負いなおすその動作さえも、なにかを誤魔化すためだとわかる。
――ゲランには隠し事がある。それもヤヨイに知られたくない、類の。
だがそうと知れても、意外なほどヤヨイの気は軽かった。だれにでも秘密はあるし、自分のことを話さないかわりにゲランの素性さえ問いたださずにここまで来たヤヨイが、突然こんなことを言い出せば何事かと思うだろう。
ヤヨイは小さく笑い、ブーツの踵を地面に打ちつけるようにして先を歩く。
「ゲランの女性遍歴とか、別にそういうのを聞き出そうとしてるわけじゃないです。お尻が好きなこともわかってます。残念ながらゲランは私の好みじゃないので、心配ご無用」
肩越しに精一杯小生意気な視線を投げると、ゲランの厚めの唇が面食らったように引き結ばれる。心の中で「よし、一本!」とガッツポーズをとったヤヨイの首にゲランの腕が巻きつき、かぶった帽子ごとがしがしと頭を揺さぶられた。
「言うじゃないの!」
「うわわわ、やめてよっ」
キャスケットに似た形の帽子の中で髪が乱れ、ぼろぼろとこぼれ落ちてくる。そば屋の暖簾のように顔にかかったそれに頬をくすぐられながら、ヤヨイはゲランの腕をおさえた。
「で? なんか聞きたいこともであるのか?」
ヤヨイの肩を肘掛けに、ゲランがいつもの調子で瞳を笑ませる。ヤヨイは帽子をかぶりなおし、道の先を見つめた。
「聞きたいことっていうか……うん。あのね、わたしの知識っていうか常識は、実はすごく偏ってるんじゃないかと思うんだ」
「実はっておまえ、そんだけ極端に偏った常識のあるヤツもいないぞ?」
「あ、やっぱり?」
掛け値なしのあきれを含んだ声に、ヤヨイはあっさりうなずいた。
『落下地点』でヒロから教わったことといえば、オージェルム公用語の読み書きと、この国の大まかな歴史と地理だけだ。それも日常に不要な部分は大半が海馬によって引き出しの奥にしまわれた。実際的に要するものは、毎日新しく目にし手に取り、自分の生活に触れた事柄しか覚えていない。
そんなヤヨイが昨日、庶民の税金や家族の事情についてゲランが語った内容を大まかでも理解できたのは、たったの三日をしごき抜いてくれたジェイルのおかげに他ならない。
回された書類の中身がなんであろうと、清書したほうが読解不能の大惨事になろうと、ジェイルはかまわずどんどんヤヨイに押しつけた。九割以上が初めて見る単語と言い回しで構成されていたのだから、当然読めないところはジェイルに訊いた。
それでわかった気になっていたのだが、所詮は字面だけのこと。
「昨日さ、独身でいたら税金払わなきゃいけない、って言ってたでしょ? ゲランはどう見ても二十一歳よりはるか上だから――」
「はるかとはなんだ、俺はまだ二十五だ」
「――はるかよりちょっとだけ下みたいだけど、結婚してるの?」
二回りは身体の大きなゲランに遠慮なく寄りかかられて少しよろめき、やっぱり王子より重たい、などと考えつつヤヨイは身近な男性たちの顔を思い浮かべる。ガルム室長、ロアード太子殿下、ゼロンやその他独身の面々。
「そうそう、ジェイル殿下も二十二歳だけど、独身だよ。殿下も独身税、払ってるのかな」
「かなって、殿下の下で働いてたんじゃないのかよ?」
訝しげな声に顎を上げ、ヤヨイは口の端を曲げた。
「三日間だけだよ? 朝から晩までひたすら書類を写し取って、それを届けるためにあっちこっち走り回って、そんなこと尋ねるヒマもなかったよ。ていうか、文章を理解する隙もなかったくらいさ」
唇をアヒルのようにとがらせてみせると、ゲランは咽喉の奥でくつくつと笑った。
「やさぐれんなよ。……ふぅん、なるほどねぇ」
「なに、なるほどって」
したり顔で顎をさするゲランを振り仰げば、目元を緩めて見下ろされた。
「いいや? 質問にお答えしましょう、お嬢さん。まず俺は一人の女に縛られたくない、いやさ縛りきれない罪な男で」
『つまり不実で浮気なナンパ野郎だと』
「若干の悪意を感じた。いまなんて?」
「いいえ? 質問にお答えください、おにいさん」
「……当然、地元の領主、つまりドランヴァイルの大公閣下に税を払ってる。普通は収入によって率がかわるが、俺はドランヴァイルにいないことのほうが多いし、ハデに儲かるときもあればまったくの文無しっつう期間もあるからな。年齢で決められた額を納めてるよ」
その分だけ割高だ、と思いのほか真面目に語るゲランも、まっすぐに前を向いていた。
「結婚に離婚、子どものあるなしに税がかかるのは、そもそも一定の人口と税収を確保するためだ。オージェルムが長く戦をしていたっつう話は?」
「知ってる。いまの王様が若い頃でしょう?」
ヒロがヤヨイの教育に本腰を入れたのは、『落下』から一月ほど後のことだ。その前は記憶がひどく曖昧で、よほど混乱していたのだと今さらながらに思う。
ヒロはオージェルムについて、まず「王様が治める王国だ」と言った。そしていまの王様が王位に就く以前から、二十五年ほどにわたって大きな戦争が続いていたのだと。王様は自ら剣をとって戦場に立ち、小さな敗北と大きな勝利をつないで戦争を乗り切ったのだ。
まだ国境の一部は安定していないから、油断はできないんだよ――そう言って深刻な顔をしたヒロを思い出しながら、ふと王様のお父さん、つまり前の国王は、戦場ではなくランドボルグで命を落としたと聞いたかな、と眉を寄せる。
それって病気かなにかだろうか。お父さんが亡くなってショックを受けているときに、王様になって戦場へ赴くのは、どんな気持ちだったのだろう。なにがなんでも勝とうと、思ったかな。
ずくんと重く痛んだ胸をおさえたヤヨイの耳に、考えながらしゃべるゲランの声が流れ込む。
「健全な夫婦が増えなけりゃあ、順調に子どもも増えない。まぁ離婚税と子どもを持たない税、っつのは要するに罰金で、戦に明け暮れる前は結婚税しかなかった。……戦といやぁ、長髪令もその頃発布された法だったかな。その後だったか」
「え、長髪がなに?」
場違いな単語に首をかしげると、ゲランは眉を上げて苦笑した。
「男児髪を伸ばすべからず、ってやつだ」
「そんな法律があるの?」
「厳密にはそういう名称じゃないんだが――まぁ要するに、長髪は特定の立場にある人間にのみ許すことを明文化したもんだ。そういうといかにも特別扱いに聞こえるが、次男以下の王子は髪を切ること罷りならん、っつうことよ。城にいたならジェイル殿下だけじゃなくて、ロアード殿下やグレイヴ殿下もお見かけしただろが」
「う、うん」
若干の後ろめたさに咽喉を詰まらせながら、ヤヨイはうなずいた。
ゲランには、グレイヴと親しかったことを話してない。当然、彼との間に起きたことも。ヤヨイなりに言うべきではないと判断したからだ。色々な事情を知ったら、きっとゲランは旅などやめろときつくとめたに違いなかた。
三人の王子たちなら、お見かけしたどころの話ではない。じっくり話す機会こそなかったが、ロアード王子にも王様の部屋や城の廊下でちょくちょく顔を合わせていたのだ。
確かにそう言われてみれば、ぞろぞろと髪を伸ばしているのは下の二人だけだった。そうだ、兄弟だからというならロアードは短髪だし、他に一人も見たことがない。
ジェイルはいつも、胸元に落ちかかる髪を邪魔くさそうにはねのけていた。グレイヴは結ってもいいかとたずねたとき、とても訝しげな顔をしていた。
「理由が、あったんだ」
ぽつりと落ちたつぶやきに、ゲランが大きくうなずいた。
「髪の毛っつのは、切るのは一瞬だが伸ばすとなると時間がかかるだろ? 鬱陶しいし手入れも面倒だし、その分、王への忠誠と法の遵守を意識し続けることになる。しかも国中に何人も長髪はいないから、相当目立つよな。時期がきて臣籍に下り所領を賜った後も、だれが見たってそれが次男以下、つまり太子でない王子で、王位に色気がないっつうことが一発でわかる」
目に見えてわかりやすい枷だな、とゲランは素っ気なく言った。
ヤヨイはその話を飲み込むために、必死で頭を働かせた。国王の地位を巡る骨肉の争いを避けるために、わかりやすく長男とそれ以下を区別している、ということか。
「え、でも……髪を伸ばしながらでも、なんだろう、色々と企むことはできるんじゃないの?」
「そこが俺らとおまえらの常識のちがいだな」
ゲランの大きな手が、肘掛けにしていたヤヨイの肩をぐぐっとつかんだ。
「陛下が『髪を切れば不忠と看做す』とおっしゃるならば、忠誠の証に伸ばし続ける。そして証と立てるからには、芯から本気でそれを誓う。陰で舌出すような真似する卑怯者がなに企んだところで、追従するヤツはいないぜ」
一瞬、個人的な主義や思想の問題では、と思ったが、口にはしなかった。見上げた横顔がなんだかとても誇らしげで、薄いグレーの瞳までキラキラと輝いていたから。
国王陛下に熱烈な忠誠を誓っている、という彼の言葉は嘘ではないのだろう。自分が心からそれを信じているから、他人もそうだしそうあるべきだと、本気で思っているのだ。
ゲランの胸までしか身長のないヤヨイからは、頤に剃り残した髭を数本見つけることができる。ゲランがあんまり眩しくて、そしてそんなふうに信じるものを持たない自分が卑小に思えて、ゲランの顔ではなく大ざっぱさの象徴のような髭を見つめた。
「あれ、なんの話だ? 王族の税金か?」
ヤヨイの視線が刺さったようなタイミングで、ゲランは指先で頤をかいた。さりげなく視線をはずし、ヤヨイも前を向きなおした。
「殿下も独身税を払ってるのか、って話」
何事もなかったような調子で言えた。そのことが、少しだけ気を軽くしてくれた。
「国王は直轄領から上がりが出るが、所領を持たない王子には収入を得る手段がない。だから国王は税金を払うが、王子は基本的に全額免除らしいぜ」
「え、じゃあ殿下はタダ働きってこと? すごく忙しそうだったよ?」
驚きのあまり、ワントーン高い声が出た。
ジェイルのもとにはひっきりなしに書類が届いて机に山を築いていたし、グレイヴはロアードに付き従って常に神経を使っていた。警護につけば立ちっぱなし、それ以外も鍛錬や事務仕事があったはず。
労働に対する正当な報酬がない。ヤヨイには信じられない話だった。
「そりゃ――まあ、ほんとのところは知らないが、建前ではな」
ひょいと肩をすくめ、興がのったらしいゲランは「国王といえば」と続けた。
「王家に嫁ぎたがる女は少ないから、国王陛下はいつの時代も嫁の確保に必死だっつう話だぜ」
「は?」
ヤヨイは目を丸くした。ヒロの声で「だって玉の輿よ?」と幻聴が聞こえた。
目玉だけ回して空を見上げながら、ゲランはその理由を話した。
「他の国はともかく、オージェルム王は代々しまり屋で有名だ。立派な人手として農作の繁忙期には畑仕事もさせられるし、派手な夜会も年に数度で身を飾る機会も少ない。おまけに政敵が虎視眈々と首を狙っていたからな。巻き添えっつったらおかしいが、過去、悲惨な目に遭わされた王妃の話には事欠かないぜ」
「えー……」
ゲランとは逆に足元に目をやり、ヤヨイはむむと考え込んだ。
随分と印象が覆される。王妃や王子妃といったら、綺麗に着飾って優雅に過ごすのが仕事だと思っていた。故郷にも王室外交なる言葉があるし、外国に行ったりお客を迎えてもてなすことがあっても、基本的に友好関係を構築・維持するのが目的だろう。
しかしゲランの言うことが本当なら、ちょっとした商人に嫁入りするほうがマシに聞こえる。ヤヨイの通勤途上にあったランドボルグの大きな商館では、たびたびパーティが開かれていたものだ。ジェイルの元へも一度、真っ白に漂白された厚紙でできた招待状が届いたことがある。
思えばあのとき、王様は「王妃になってやってもいい」という言い方をした。ロアード王子の恋人のことだ。聞き間違いで片づけていたが――。
「うーん……」
胃がかゆくなるような焦りに、ヤヨイは知らずうなっていた。
王妃ではなくとも、いや王妃でそれなら王子の嫁はもっとたいへんそうだ。アルガンダワという地名も耳慣れないし、ということはランドボルグの外周にあたる大公三領よりさらに外側の領地だろう。農作業やその他の雑用も多いにちがいない。……やっていけるだろうか。
「ほ、他になにか、知っておくべきことってある? 王――家の決まり、とかで……」
王子のお嫁さんとして、と口がすべりそうなところをギリギリで留まり、ヤヨイはゲランを振り仰いだ。
必死の思いで問うたのにゲランはあっさりと首を振り、だがすぐに顎を上げた。
「細々したことは知らん。庶民には関係ない話だ。――ああ、有名なやつが一つ」
「な、なに!?」
勢い込んだヤヨイは、次の言葉で固まった。
「男色の禁止」
「……なに?」
「男同士で肉体関係を持つことだ。『外』にもそういう趣味があるんだろ?」
生々しい響きに、ヤヨイの顔に血が上った。
「あ――あるかもしれないけどそれはッ、なんだろうなんていうか、わたしの周りにはいなかったよ!」
「そうか? このあたりの国では昔からよくある」
あわてまくるヤヨイをおもしろそうに見下ろして、ゲランは笑った。
「戦続きで動乱の時代が長かったから、傭兵だけじゃ足りずに地方からも男たちが徴兵されたし、兵役も必然的に長期化だ。軍娼を抱えても数が足りないし、下っ端まで順番が回らないのが常識。っつう事情で最初は仕方なしにやってみて、味を占めるんだろうな。だが、ただでさえ戦で大量に死んでるっつうのに、いっくら悦くたって男同士じゃ――」
「もももももういい!」
肩に載っていた腕を叩き落し、ヤヨイは首をすくめて両手で頬をおさえた。
それってBL? そういうやつ? 頭の中に、本屋の棚が思い浮かぶ。
男性向けの成人雑誌や書籍は男性社員やパートのおばさんが担当してくれたが、いわゆるライトノベルのコーナーはヤヨイも普通に扱った。女性向けのコーナーも同様だ。やけに露出の高い男性が並ぶ華やかな色使いの表紙や、あからさまなタイトルを思い出せば目眩がした。
仕事、仕事と言い聞かせて頑張ったが、こんなところで無防備に聞かされると狼狽がとまらない。
しかしふっと、ジェイルやグレイヴではなく、なぜかゼロンやガルムで想像して――想像力の限界地点までだが――、うっと息が詰まった。
「…………」
現実はそんなに美しいものではない。
赤くなったり青くなったりしていると、ゲランは明らかに笑いを噛み殺した様子で咳払いをした。そしてわざとらしく硬い調子で続ける。
「終戦当時は初婚の平均年齢が十五歳くらいだった。若くて子どもをたくさん産めそうな女を確保できるっていうのが男の甲斐性だったし、王族は率先してそれを示さなきゃならないから必ず若い花嫁を迎えたんだ。で、減った人口を増やすためにも、男に耽溺してはならないっつう法律ができた。まあ、いまは表向き戦もないし平和だから、ちょっと遊ぶくらいなら罰せられることもないけどな」
庶民ならな、と、ゲランは締めくくった。
妙なところで切ってしまいました。
along更新済みです。(7月21日)
そのときジェイルがなにを思っていたか。
知らなくても問題なしですが、お時間のあるときにでもご一読いただければ。