表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
over again  作者: れもすけ
第六章
31/48

3

「はー、気持ちよかった……」

 ホカホカと湯気を立てる身体をベッドに投げ出して、ヤヨイはうっとりと目を閉じた。

 調理用ストーブの灰と廃油で作った石けんの使い心地は、ぬるつきが残るようでいまひとつ――いや、いまみっつくらいだったが、とにかくも頭のてっぺんから足の先まで汚れを落とし、浅いながらも湯船に浸かれて満足だ。


 ランドボルグですら、一般家庭に湯殿などない。大抵は下着を替えるだけか、身体を拭いて済ませる程度。数日から週に一度、湯屋で汚れを落とせばいいほうだろう。

 本当なら毎日でもお風呂には入りたいところだが、贅沢なことであるという以上に、おじいちゃんの家からは湯屋が遠い。終業後、帰宅しておばあちゃんの手伝いをし、就寝前に風呂を使おうと思えば深夜になってしまう。当然、ヤヨイをあずかるおじいちゃんが許可などするはずもない。おばあちゃんに付き添ってもらい、散歩がてら数日に一度が精一杯だった。


 旅をしていると汗と埃で普段よりずっと汚れるが、大きな旅籠は必ず湯殿があるし、こうして湯を使う機会も増えてまたよし。

 洗濯と兼用の石けんは借り物だったので、明日は携帯用に香料を入れた石けんを買おう、と心に決めたあたりで、うつ伏せたヤヨイの瞼が下りてくる。鉛のように重い身体を受け止めるマットレスは、藁ではなく羊毛を詰めた豪華品だ。やや埃っぽく羊のにおいがとりきれないきらいはあるものの、チクチクしないし硬くない。

(足……マッサージして、薬塗っておかなきゃ……)

 今日の疲れを少しでも取り除いておかなければ、明日以降に差し支える。無残につぶれたマメの手当てもしておきたいし、髪もまだ乾いていない。


 気力だけでなんとか眠り込まずにはいるが、身体を起こすには至らない。睫毛でかすむほど狭くなった視界に、ゆらゆらと揺れる蝋燭の明かりに浮かぶ無人のベッドがあった。

 ゲランはまだ、階下で酒を飲んでいるのだろう。もしかしたら、給仕にあたっていた女性のだれかとどこかに行ったのかもしれない。女性たちがもんぺでなはくスカートで、しかもこちらの常識にあるまじき丈の裾から、白い脚を覗かせていた理由はもうわかる。


 ふっくらとした可愛らしいあの人か、それとも背が高くて美人系のあの人かもしれない。頭の中で、偶然を装ってゲランの身体に触れていく女性たちの顔を思い浮かべる。

 上背があって逞しく、がっしりとした男らしい容貌のゲランは意外なほどよくモテた。人懐こい笑みも、もの慣れた仕草も、鼻の利く女性を引き寄せるに十分らしい。こんなふうにヤヨイが一人で眠りにつくのも、森で休んだ夜を除けば毎度のことだ。


 確かに、どこか書記室のガルム室長と似通う雰囲気を漂わせるゲランは、ヤヨイから見ても魅力的だと思う。携えた大剣を見ただけでも膂力のほどはうかがえるし、長い脚をゆったりと組んで酒盃を傾ける姿は、大型の獣のようでそばにいるだけで胸がざわつく。普段ろくでもないことばかり言ってヤヨイの鉄拳制裁を食らう彼を知っていてさえ、蝋燭のか細い光に照らされる横顔にはどきりとするのだ。


 早く早くとなにかに急かされながら、朝のヤヨイは張り切って最初の一歩を踏み出す。ゲランに遅いと文句を言っていられるのも精々が昼まで。次第に薄いグレーの瞳が肩越しに距離を測るようになり、夕方にはさりげなく手を差し伸べてくれるようになる。その頃にはもう気づかぬ間に蓄積した疲労が全身を苛んで、なんだかいろんな感情が胸に渦巻いていっぱいいっぱいで――罪悪感や恐怖や後悔、自分がこの世で一番情けない人間にちがいないとか、生きててごめんなさいとか、負の意識に取り込まれるヤヨイは涙をこらえて重くだるい足を引きずっているのだ。


 軽い冗談や他愛のない世間話でヤヨイの気をうまくそらして、広い背におぶってくれたり、軽々と抱えて歩いてくれるゲラン。夕日に朱色を帯びて煌く濃い蜂蜜色の髪を頬に感じる視点は怖いほど高く、束のような筋肉がしなやかに動くのを薄いシャツ越しに何度も確かめた。

 思えばこれほど他人に、しかも男性に身を預けきることなどいままでなかった。グレイヴ王子は発作的にヤヨイを抱きしめることがあったけれど、ヤヨイから抱きしめ返したことはない。


 ヤヨイはベッドにめり込みそうな身体をひねって仰向けになり、腕を上げて輪をつくった。目を閉じ、硬い布地の感触を思い出しながら、その紺色の制服に腕を添わせたときのことを振り返る。

(やっぱり……ゲランより、腰が細かった、かな)

 ちゃんと腕を回したわけではなかったが、剣を吊った太い革のベルトがウェストマークになって、実際の寸法にかなり近い見た目だったはずだ。


 ゲランの身体は、触れて不自然でないところは、もうほとんど触れてしまった。おぶわれれば首にしがみつくし、水場で足元の悪いところは抱き上げられもした。二関節分は大きな手を握って歩いたり、ふざけて腕にぶら下がったこともある。よく考えたら、肩を支えられて腰につかまっている後ろ姿は恋人同士のように見えたかもしれない。

 なにもかも上書きされてしまったみたいに、こうして抱きしめられたときのことを再現してみようとしても、もう王子の体格を思い出すことすら難しくなっていた。


(これって――どうなんだろう)

 ぱたりと力なく腕を下ろし、壁を向いて寝返りをうつ。

 なにがちがうのだろう。どうして無遠慮なゲランの手を不快に感じないどころか、気が抜けたような安心感まで覚えてしまうのか。

 同じ部屋で眠っても危機感を抱かないのは、ゲランが国王に熱烈な忠誠を誓っていると言った、その言葉を信じているだけなのだろうか。それとも――。


「…………」

 ヤヨイは横を向いたまま膝を引き寄せ、丸くなってぐりぐりとシーツにこめかみを押し当てた。

 眠ろう。疲れているから、どうしようもないことを考えるのだ。アサヌマさんのもとまであと十日ほどは歩くのだから、いずれまた正常な頭で気持ちを整理する時間も持てる。

 遠のきかけた睡魔の尻尾をなんとかつかまえ、ヤヨイはかき混ぜたゼリーのようにどろりとした眠りに落ちていった。






 翌朝、宿の木戸が開閉する大きな音に夢から醒めた。

 うすら寒い、と上掛けを引き上げると、脚が膝まで露になっていることに気づく。どうした加減か、上掛けの縦と横を入れ違えていたらしく、自分の寝相の悪さにひっそりと腹が立った。

 仕方なく起きることにしたヤヨイは、もそもそと身体を起こしてぎょっとした。

 露になっていたのは膝どころか太腿まで、そしてほったらかしで寝てしまったはずの足には布が巻かれ、手当てをした跡があった。


 咄嗟に隣のベッドを見やると、固く閉ざした鎧戸の隙間から差し込む光の中で、ゲランは仰向けで静かに眠っていた。その枕元には鞘から抜いた剣が立てかけてあり、膏薬の残った木の椀が転がっている。

「……起こせばいいのに」

 意識のない状態で足にさわられたことも、気づかずに寝こけていたことも恥ずかしい。理不尽なことをつぶやきながらも、足の裏が随分と楽になっているのはわかった。


 表からは人の話し声が大らかに聞こえてくる。そう朝も早いというわけではなさそうだ。鎧戸を開けてゲランの起床を促すべきか、と一瞬だけ迷って、やめた。

 ベッドに腰かけて、手を伸ばせば届くところにある寝顔に見入った。

 薄いグレーの瞳が隠れ、厚めの唇がうっすらと開いていて。ヤヨイの後に湯を使った折にあたったのだろう、いつもの無精髭は姿を消している。

 こうして見ると、面差しでいうならガルム室長よりもロアード殿下に似ている。似ているといえば、人の都合におかまいなしなところは、ジェイル殿下にも。


 ふと、恋しい、と思った。だれがということではなく、目まぐるしかったランドボルグでの日々そのものが。十日足らずのことだったなんて、いまでも信じられない。そう考えれば、『落下地点』でヒロと別れてから、まだ二週間ほどしか経っていないのだ。

 ここが職場だ、と書庫の扉を開かれたときは、こんな状況に――こんな気持ちになるなんて、想像もしなかったのに。人生は本当に、本当にわからない。


 ヤヨイは運命、という言葉が嫌いだ。いかに自分の意志や力でどうにもならない事態に陥ったとしても、それは偶然や他のだれかの思惑や、行動の結果が巡り巡って降りかかっただけのこと。なんでもかんでも運命のせいにして、あるいはありがたがっていたのでは、自らの足で歩くことがバカらしくなってしまう。

 恋愛だってそうだ。運命の出会い、なんていうけれど、出会わない人とは恋などできない。畢竟、顔見知りの中から好みのタイプを、有体にいえば「好きになれそう」な人を無意識に選別しているに過ぎないのだ。


 我ながら夢もロマンもありゃしない、と思いながら、ゲランの顔に手を伸ばした。高い鼻梁を超えて頬に落ちた蜂蜜色の髪の一筋を、そっと払う。くすぐったかったのか、開いていた唇がむっと閉じられ、瞼がふるえてから上がり、鈍い銀色の瞳が焦点を結んでいつもの色にかわった。


「……おはよう」

 顔を覗き込んでいたというのにうろたえた様子もなく、ゲランはかすれた声でうめいた。

「おはよ。窓、開けるよ?」

 一応トーンを落として断ると、両手で顔をこすったゲランが首を振った。

「もうちっと……眩しい」

 要領を得ないそれは、目が慣れるまで待ってくれという意味だろう。立ち上がりかけたヤヨイは、うなずいて座りなおした。


「昨夜……遅かったの?」

 さりげなさを装って問いかけると、おもむろにゲランが起き上がった。腹筋でもするような動きは、少しも力が入っているようには見えない。折りたたんだ肘を伸ばして欠伸をし、ふるふると頭を振る。

「風呂上がりに一杯飲んで、すぐ戻った。やっぱり宿のほうがいいだろ、納屋より。今日は昨日より歩かなきゃなんないぞ」


 多少強行軍にはなるが、行って行けない距離ではないところに小さな村があるのを思い出した。そう眠気を含んでぼんやりとした声で発する響きを聞きながら、ヤヨイは笑った。

「じゃあしっかりご飯食べて、早く出なくちゃ。窓開けるからね!」

 手当てされた足の裏で木の床を踏み、窓辺に歩み寄る。

 昨夜ゲランは、どこにも行かなかった。だれにも触れずに戻ってきて、ヤヨイの足に薬を塗ってくれた。その事実は思いのほか、ヤヨイの心を軽くした。


 だが重い鎧戸をいっぱいに押し開いて朝日を浴びながら、ヤヨイは自分が自分に嘘をついていることを思い知る。それはいつも忘れた頃に、こうして何気ない日常の隙間から冷たい手を伸ばして、ヤヨイの足首をつかむのだ。


 窓の外、小さなドングリを鈴生りにした大樹の根元には、刃物の研ぎ屋が店開きの準備をしていた。早いうちの出立を考えているのであろう旅人が、一言二言かわして道具を預けていく。研ぎ屋が受け取ったそれは地面に広げた布の上に、大切に横たえられた。


 ――剣。飾り気のない柄、長方形の無骨な鍔、頑丈そうな革の鞘。


「……っ」

 不意に、笑いがこみ上げてきた。

 なにあれ。なんなの、これ。

 同じものがゲランの枕元にもあったというのに。不意に襲った暗い情動には、嫌というほど覚えがあった。

『落下地点』で、ランドボルグで、馴染みのないものや習慣に触れたとき、知らない単語に戸惑うとき、おまえは『外』の者だからと、なんの他意もなく言われたとき。


「どうした。なんかおもしろいもんでもあったか」

 背後で衣擦れの音を立てていたゲランが、訝しげな声を上げる。ヤヨイは窓のほうを向いたまま、片手を振って誤魔化した。


 運命という言葉に、一番すがりたいのはヤヨイだ。説明のつかない現実を考えることに疲れて、流されてしまいたくなって。

 ヒロはそれを口にしなかった。

 アサヌマさんは、他のひとたちは、どうやって心を鎮める方法を見つけたのだろう。

 どうしたら、いつになったら、この薄氷を踏んでいるような――気を抜いたら引きずり込まれる闇に立っているような恐怖から、逃れることができるのだろうか。


 ここで生きてもいいと、それはちっとも不自然なことではないのだと、言ってほしい。主張しても、我がままを言っても、恋をしても、かまわないのだとだれかに――。


「……着替え、終わった? わたしおなかすいちゃたよ」

 とん、と窓枠に手をつき、言った声に違和感はない。

 ゲランがのんびりと返事をするのを聞きながら、ヤヨイは唇をかみしめていた。




※ 拍手に簡単アンケートをつけてみました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ