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とにかく今夜の宿を確保したい、それだけを目標に歩き続けた甲斐あって、太陽が地平線に触れるより早い時間に次の宿場へとたどり着いた。ゲランによれば、ここがランドボルグを核とした国王の直轄領内における、スウェンバック方面最後の宿場だという。
森の縁に沿って歩いていたら、カーブを曲がったところで突然視界が開けた。鬱蒼と茂る木々で見晴らしも悪く、立ち上る煙も見えなかったから、ヤヨイにはまるで忽然とそこに町が表れたように見えた。
距離にしておよそ五百メートルほど先に、不規則に建ち並ぶ家々が望める。白い壁に焦げ茶色の屋根、窓枠。『落下地点』の集落と同じ様式だった。緑の野原の中に一筋の道が走り、こんもりとした森を背負った町に向かって伸びているという風景は、ここに暮らし始めて五ヶ月近くが経つヤヨイでも感動を覚えた。
これまでの宿場や集落より格段に戸数が多く、ランドボルグのように整然としていない。電線も街灯も、アスファルトに白く書かれた「止まれ」の字もない景色を、いま初めて懐かしいと感じる。
「はぁ……なんか、思ったより大きい町だね」
近づくにつれ、円形の広場やその真ん中に建つ教会のような建物まではっきりと見えてくる。もちろん、行き交う人々の様子も。
「直轄領と他では、なにを納めるにも税率がちがうからな。ランドボルグは年中どっかしら工事してるせいで、賦役が多い。強制的に男手を徴収する代わりに、ってとこか」
地方領でももちろん土木工事はあるのだが、そこは国王陛下のご温情らしい。いずれにせよ、そういう事情で直轄領外周にあたる町は、流れ込んできて住みつく人が後を断たないとゲランは言った。
「ふぅん……。引越しってそんな簡単にできるんだ」
徐々に大きくなる町並みに目を丸くしながら何気なくつぶやくと、ゲランはリュックを背負いなおしてくすっと笑った。
「いや、ンなわけない。どんな小さい村だって、戸籍は村長ががっちり管理してるし、領主の許可がなければ移動はできないぜ。生まれたての赤ん坊にだって人頭税がかかるからな、勝手に移動されちゃあ困るだろうよ」
「人頭……?」
「そうだ。結婚にも離婚にも税がかかるし、家一軒に六人以上で住めばまた税がかかる。どんな事情があったって、二十一を過ぎて独身でいても、子どもを持たなくても税がかかる。だから人買いや人攫いも商売が成り立つし、逃げ出した村人を連れ戻して領主に引き渡すのを生業とする奴らもいる。実際、堂々とそれを仕切ってる連中もいた」
ヤヨイは思わず足をとめ、まじまじとゲランの横顔を見上げた。気づいて立ち止まるゲランの薄いグレーの瞳は、どこかやりきれない色を浮かべてヤヨイを見ていた。
「……どうした?」
「どう、って――」
このとき受けた衝撃を、どう表現すればいいのだろう。
ヤヨイにとって税金は、せいぜいが買い物をするときに払う数パーセントの消費税くらいしか身近なものではない。常識として住民税だの車税だのを知ってはいるが――。
(一人でいる自由も、ないの……)
ぎこちなくゲランから目をそらし、重くなった足を踏み出す。
元いた場所でも、人買いや人攫いといったら、食い詰めた親が娘を売るとか、そういう話は聞いたことがある。「花いちもんめ」は人買いの歌だと聞いたこともあった。
「あの、どうして……人を、買ったり……」
子どもを売ったり、とは言えず、嫌な鼓動を刻み始める心臓を服の上からおさえた。
「そもそも家一軒に五人まで、つうのは、家の傷みが増すからだ。家は村の財産だから、ガキに荒らされちゃ困るって法なんだろうな。四人目の子どもが生まれた家は、一人を選んで出さなきゃならないだろ。年かさの息子は働き手として残すが、娘なら嫁の来手のない男に売る。赤ん坊に買い手がつけば、子どものない夫婦に売れるだろう。人買いが必要な数の商品を仕入れられなければ、そこらから盗んでくる。とにかく連れて行けば売れるまで預かる場所、っつうのがあったからな」
ゲランは淡々と語ったが、それだけに、子どもの売り買いが日常的なものなのだと響く。
ヤヨイはゲランが、あえて娘の売られる先を限定して口にしたことに気づいていた。
ランドボルグはいわゆる「都会」だし、ヤヨイだって年端もいかぬ子どもではない。おじいちゃんの家で居候を始めた最初の日、ゼロンは城内のある区域には近づかないように、とよくよくヤヨイに言い聞かせた。「若い娘のいくところじゃない」という理由で。
貧しい家の娘がたどる末路は――。
想像の限界を超えた世界はぼんやりと、だが確実にヤヨイの胸を押しつぶした。一度は身を投じることも考えたことがある世界だったからだ。
うつむいたヤヨイの頭に、ぽんと大きな手が載った。
「村長や町長だって、鬼じゃない。徴税官が巡回してくるまでにどうにかできれば、四人目が生まれたことには目をつぶってくれる。でなくたって、かみさんの腹が膨れてくりゃあわかるからな。その間に、旦那は我が子の引き取り先を探すのさ」
できるだけいい家に、苦労のない、幸せになれそうな家にと願いを込めて。
ゲランは気遣わしげな声で言ったが、なんの慰めにもならない。そしてヤヨイに、できることもすべきことも、なにもなかった。
サッカー場ほどの広さに開けた町の広場には、いかにも旅人といったファッションの人々が七割。あとは彼らを相手に商売をする露店商や、旅宿の呼び込みが目立った。特に広場の中心に建つ、珍しい煉瓦造りの建物の周りにはその姿が多く見られた。
それが一見してなんらかの宗教施設とわかったのは、外壁を飾る大小の印象的な彫刻のためだ。簡略化された太陽の中に、逆さの星を描いた模様。店の看板ならもっと、職種をはっきりと表すマークであるはずだし、大きいばかりで使い勝手の悪そうな建物は、いかにも商売には不向きだった。
広場に面した家々の窓からは、小ぶりのハンギングボールが下がっている。寄せ植えにされているのはパンジーに似た赤い花が多く、その中に紫色のアジサイのような花が混ざっていた。玄関先には大きな素焼きの壷が置かれ、なぜかススキがもっさりと生けられている。
足元にまとわりつく野良猫を気にしながら、ヤヨイはきょろきょろとあたりを見回した。なにもかもがめずらしく、おもしろい。
『落下地点』の集落には店などなかったし、ランドボルグでは城と家を往復するだけだった。朝早く市場に顔を出すことはあっても、こんなふうに昼日中、特別急ぎでもなく露店を冷やかしたのは初めてだ。
店舗を構えているのは、仕立て屋や靴屋など、じっくりと商売をする業種。対して露店は食べ物屋が多く、干し果物をのせた小さな焼き菓子、炙ったハムをはさんだパンなどが香ばしい匂いで客の足をとめている。
食料品そのものを商う人も多く、中でも枝で編んだ籠に兎をみっちりと詰めた上にまな板を置き、ナイフを突き立てている店を見かけたときには絶句した。通りに背を向けて作業していた主人が振り返り、その前掛けが凄惨な色に染まっていて――これ以上新鮮な食材はない、とヤヨイは青ざめて顔をそむけた。
生々しいばかりでもない。
色とりどりのリボンだけを並べている店、女性用の下着をどーんと広げて商う店、大小様々な金属の輪ばかりを箱に入れて売っている店など、見ているだけで楽しいところもあった。
興味深く数歩進んでは立ち止まることを繰り返すヤヨイの横で、しばらく黙ってつきあってくれたゲランがのんびりと言った。
「この先で森が途切れるから、そっからしばらくは平野のただ中を進むしかない。数日分の食料とか……おまえはもうちっと分厚い外套を仕入れたほうがいいな」
宿場がなければ、せいぜい農家の納屋でも借りるしかない。旅の初めに聞かされていたことが、ついに現実になるのだ。野宿は既に経験済みだが、納屋で眠るというのはどんな感じだろう。
臭かったりかゆかったりしそうだ、と憂鬱になりつつ、ヤヨイは客寄せの声に引き寄せられてふらふらと露店に歩み寄る。ちょうど古着が竿にかけられていたので、早速その中から赤土で染めた羊毛のコートを一着買った。
「さて、夕飯にもまだ早いな。宿をとったら、湯でも買うか?」
コートを着込みながら、小間物屋の店先で木製のアクセサリーを見つめていたヤヨイは、その言葉で振り返った。
「湯を買う? お風呂!?」
「あ、ああ」
あまりの勢いに気圧されたゲランがのけぞるのもかまわず、ヤヨイは顔を輝かせる。
「買う! いっぱい買って! お風呂入りたい!」
「いっぱいっておまえ、泳ぐつもりかよ」
ぷっと噴き出しながらも、ゲランは軽くうなずいて顎をしゃくる。
「じゃあ、湯殿のデカい宿をとらなきゃな。神殿前で探してみろよ」
ゲランが示すほうには、太陽と星の紋章が刻まれた建物があった。確かに宿の呼び込みも多く見受けられたが、神殿というのは――あの神殿だろうか。
そういえば、いままで一度もこの国で宗教に触れたことがない。自分が無宗教だから気にならなかったが、クラシカルな世界=神様の支配下、というイメージもある。朝な夕なに祈りを捧げ、誰も彼もが敬虔な信徒であるべし、というような。
ヤヨイは素直に歩き出しながら、その建物を輪郭から細部まで観察した。神殿といわれて真っ先に思い浮かぶのは、かの有名なパルテノン神殿だろう。だがそこにあるのは、どちらかといえばヨーロッパの田舎町にひっそりと佇んでいそうな、素朴な風情の教会に見える。
「あそこには、どんな神様がいるの?」
祀る、という単語がわからず幼稚な言葉を使って尋ねると、ゲランは片眉を上げ、せせら笑うように鼻を鳴らした。
「いまはもういない。随分前に、アサヌマが追い払ったからな」
「え?」
ヤヨイは足を止め、ゲランを振り仰いだ。アサヌマと神様、それに追い払うという言葉がつながらない。だが歩みを止めないゲランの背中が、それ以上の詮索を許さなかった。
「えっと……じゃあ、お風呂の大きい宿、探してみる」
釈然としないながらも、ひとり言のようにつぶやいて、ヤヨイは呼び込みがたむろするあたりへ向かった。
比較的安全であると判断した町では、ゲランはヤヨイに自分で宿を見つけてみろと言った。ランドボルグとスウェンバックを結ぶルートに常宿はいくつもあるが、大抵が大部屋のみだったり、屋根があるだけマシという程度で、とてもヤヨイが安眠できるものではないからだという。
いい経験だと、ヤヨイはその指示にうなずいた。
男女二人連れであること、ベッドが二つある個室を希望すること、夕食と朝食をしっかり出してほしいことなどの条件を提示し、料金の折衝をする。これで二度目になるが最初は相当足元を見られたらしく、ゲランの一声で半額以下に値切れたときは落ち込んだ。
(あっちに悪気があるわけじゃないし……『外』の人は王様のポケットを共有してると思われてる節があったし……わたしが慣れてなかったからいけないんだ)
今度こそ、と気合を入れ、ヤヨイは広場の真ん中へ突撃を開始した。




