5
終業の鐘が鳴るよりはるかに早い時刻、ヤヨイは家に向かって坂の大路を下っていた。
時計を見たわけではないから正確ではないが、多分三時ごろだろう。おやつの習慣はないが、夕食の仕度にかかる直前でもあり、玄関先や店の軒先で一息入れるご婦人の姿をちらほら見かけた。屋根をかけたため池のそばで野菜を洗ったり、大鍋に水を汲んでいる人もいる。
甘味を思う様口にできない代わりに、甘みのある煙草を喫むのは、男女に関係がない。細く薄い煙があちこちに立ち上り、ほどなく消えていく。
ヤヨイがこの街に来て一番驚いたことは、実は城の威容でもその有様でもない。ランドボルグは配排水事情にこそ、目を見張るものがあった。
奥様方が井戸端会議をする傍らには、井戸ではなく給水のための池がある。銅のパイプを伝って、城の外を流れる川から水をくみ上げて水車をいくつも経由させて運び、溜めているのだ。
各家庭から出る生活排水は、トイレの汚水を押し流しながら別のラインを通って、城外の畑へと流される。現代っ子であるヤヨイにはちょっと微妙だが、良質の肥料になるのだという。
そのため農作に向かない工業排水を出すところ、たとえば革製品や鍛冶屋などの工房は一つの区域に集められており、専用の系統を使って水を処理している。
ここで重要なことは、そう、ランドボルグ城が総水洗トイレ完備であるということだ。
『落下地点』ではいわゆるぽっとん便所に甘んじていたヤヨイだが、イゼおじいちゃんが居を構える住宅街でさえ、トイレに困ったことがない。これは感動モノだった。
これも人呼んで「インフラの鬼」、アサヌマ氏の仕事だ。
聞けばオージェルム国内の主だった城――ランドボルグは言うに及ばず、ドランヴァイル、ファルジートなど、いわゆる大公領の城も、この二十年ほどでほぼ同じだけの配排水系統を整備しているという。
その中でスウェンバック城だけが遅れをとっており、ようやく先年から工事に着手しているのだそうだ。アサヌマ現場監督が詰めているというのは、そういう事情からだった。
「それひとつとっても、功績は後世まで語り継がれるだろう……」
背中に回した手を組んで、ヤヨイはふらふらと脚を動かす。我がことのように誇らしげだったジェイルの瞳が、その言葉とともに何度も頭の中に甦る。
ヤヨイにとっては水洗トイレ万歳、くらいの喜びだが、実は排水設備の敷設には公衆衛生の観点からこそ評価すべきなのだとジェイルは言った。
伝染病を予防できる可能性が、飛躍的に上がったからだ。
二十一世紀の日本人は、思いのほか伝染病への耐性が低い。先人が持ち前の勤勉さと情熱でもってそれらを駆逐し、厚生も充実していたから予防接種の恩恵にも与れた。世界的に見ても異常なほど除菌や滅菌に固執し、清潔を心がける日本人は、かえって他愛のない雑菌にも弱く重症化しやすくなっているのだ。
つまりいまのヤヨイは風邪だのインフルエンザだのではなく、結核や赤痢、天然痘に狂犬病、それから謎の風土病に罹患する危険に常に曝されているのである。
あらためて色々なことに落ち込んでしまう。
自分が思いもつかぬ危険と隣り合わせだったこと。
それをあらかじめ防ぐ策をとった人がいること。
その策は普段、人々を暮らしやすくすることで決して自己主張しない方法であったこと。
そうした人が、同じ国の出身であったこと。
その人が、常識の通じないこの場所でそんな大工事を認めさせるほど、大きな力を持っていること。
「……はぁ……っ」
朝持ち出したままの弁当箱のせいか、肩から斜めにかけた布袋がずっしりと重い。
ジェイルには具合が悪くなったと嘘をついて早退させてもらったが、あながち嘘ともいえなくなってきている。
実際胃はきりきり痛むし重いし、高熱を出したように頭がぼわんとしている。それでいてじりじりと焦げるような衝動が間断なく襲いかかり、ゆっくり座っていることもできない。
いてもたってもいられず、とにかくなにか行動を起こしたかった。
ジェイルは、明日にはヒロが登城するからね、と言ったが、ヤヨイはそれを歓迎できなくなっていた。
自信家で、独断専行の甚だしい、頭のいい男。
ヒロに会ったら終わってしまう。なぜか強く、そう思った。
玄関ではなく庭口から家に帰ったヤヨイの姿を見て、ロマおばあちゃんは「あら」と声を上げて目を丸くした。
「まあまあ、おかえりなさい、ヤヨイ。どうしたの? 明日の夕方に帰るって手紙をもらったばかりよ」
勝手口に椅子を出して芋の皮を剥いていたおばあちゃんは、前掛けで手を拭きながら腰を上げた。
「ただいま、おばあちゃん。……なんか、具合が悪くなっちゃって、それで、休ませてもらおうと思ってたんだけど、少しよくなったから、帰ってきたんだ」
まるっきりの嘘でもないが、本当のことでもない。
アウトラインのはっきりしない話をしながら、ヤヨイは自分がどんどん卑小な人間になっていくのを悲しく思った。
シワシワですべすべした手をヤヨイの頬にあて、眉を下げて顔を覗き込むおばあちゃんは本当に心配そうだ。チェスをしに広場に出かけているおじいちゃんを呼び戻す、と言い張る声は、どこか緊迫している。
「いいの、大丈夫。横になれば治っちゃうよ」
申し訳ない気持ちで顔色が悪くなり、おばあちゃんはヤヨイの仮病を信じた。
「そう? じゃあ少し眠って。なにか食べやすいものを作っておくわ」
言いながらも、おばあちゃんは手を休めない。居間の揺り椅子にヤヨイを座らせると、果物を漬けた蜂蜜をお湯割りにするために、鉄のヤカンを調理用ストーブにかけた。
目をつぶっても必要な調理器具を探り当てられそうなほど、おばあちゃんの動きはよどみない。小さな背中で前掛けのリボンが揺れていて、それを見ていたら、ここが自分の家ではないことを痛切に感じた。
ヤヨイは猛烈にいたたまれなくなり、布袋から弁当箱を取り出しながら立ち上がった。
「おばあちゃん、飲み物もいいよ、おなかすいてないし……ごめんね、お弁当食べられなくて」
起きたら食べるから、と言い添えて差し出したそれを、おばあちゃんは慈愛に満ちた笑顔で受け取った。
「気にしなくていいの。おじいさんもよく、お弁当をそのまま持って帰ってきたものよ。お仕事してれば、食べられないようなこともあるわ。さあ、あたたかいスープを用意しておくから、ゆっくり眠って」
「……ごめんね」
ヤヨイはおばあちゃんの手元から目をそらし、居間の奥にある階段を睨んだ。
早くそこへ行きたい。それを駆け上がって自分の部屋に――。
――自分の、なんて、どこにもなにもありはしないじゃないか。
揺り椅子の足元に投げ出していた布袋を引っつかみ、ヤヨイは足早に階段へ向かった。
おばあちゃんが着ているワンピースは、ヤヨイにくれたものと同じ花柄の布だった。
一睡もできないまま夜を過ごしたヤヨイは、日の出前の薄暗い部屋で書き物机に向かっていた。
ふるえる手で手紙を書くのは二度目だ、そう思うと罪悪感に襲われる。
おじいちゃんたちに結婚の話をできないまま、これから自分がしようとすることを理解してもらうことは難しいだろう。わかっていてなお、身のうちを灼く焦燥に抗うことができなかった。
『 浅沼さんに会いに行きます。必ず元気に戻ります。心配しないで下さい。少しだけ待って下さい 』
たどたどしい文章だが、ヤヨイはそれを日本語で書いた。置手紙があれば、まず読んでから対策を講じるはず。追うにせよ追わないにせよ。だがこの手紙を最初に読むのはおそらくジェイルで、それまでは時間稼ぎができるだろう。
母国語だというのに、木の枝で硬い地面に書いたよりまだ汚い線がのたうつ紙に、ヤヨイは真冬のアパートを思い出す。暖房器具のない部屋で勉強をしていると、かじかんだ手で書く文字はこんなふうに無様だった。
それでもセーターやコートを着込み、息を吹きかけていれば指先は温まった。いまは、どうやってひっきりなしに襲う寒さを追い払えばいいのか、わからない。
ヒロを介して給付されたお金を、ブーツの中に押し込んだ。その上から足を入れ、違和感に眉をひそめる。
まだ本格的な冬までは遠いこともあり、防寒着の類は持っていないけれど――なんとかなるだろう。
褐色はごくありきたりでも、やはりヤヨイほど黒い髪の人はいない。そばで見れば顔立ちでそれと知れても、遠目には誤魔化せるだろうと髪を結って帽子の中に押し込んだ。
乱れたベッドを綺麗に整え、布袋を肩からかけ、ドアの近くで室内を見渡す。
そうだ、手紙は枕元に置こう。思いついて机に歩み寄り、それからちょっと悩んで、一文を書き加えた。だれと宛てなくても、わかってほしいと願いながら。
『 ありがとう 』