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ぼんやりしていたヤヨイはいつの間にか指先をかんでいて、身を乗り出したジェイルにそれを制されていた。手の先をたどって視線を動かすと、咎めるような目で見つめられている。
ジェイルの背後、どっしりと暗い石壁に開いた窓からは薄い青の空、大きな鳥がゆったりと翼をひらめかせるのが見えた。
「……ヤヨイ?」
「ヒロってどういう人ですか」
思考回路を経由せず、唐突な言葉が口をついた。数秒たって、どうしてそんなことを言ったのだろうと首をひねった。ジェイルも眉を跳ね上げ、ぱちぱちと目をしばたかせている。
しかしどうせ訊いたのだからと、ヤヨイは続けた。
「アサヌマさんは? オージェルムの人たちから見て、どんな存在なんでしょうか」
「ヤヨイ――」
言ったきり口を閉ざしたジェイルは、いままで見せたことがない表情を浮かべていた。それが見覚えのある、同情に似ている気がして、ヤヨイは自分の手を取り返して胸に抱えた。きつくかんで歯型のついた指が、じくじくと痛い。
「わたしがなにも知ろうとしないって言ったの、殿下じゃないですか」
責めるつもりはなかったが、不快感が口調ににじんだ。一瞬ひやりとしてジェイルの顔色をうかがうも、気分を害した様子はなかった。
わずかに眇めた目でヤヨイを見つめた後、ジェイルは息をついて壁に寄りかかった。
「ヒロとアサヌマ、ね。悪いけど、僕は一般論を語れないよ」
立場上、と肩をすくめ、立てた片膝を胸に引き寄せる。
「ヒロは頭のいい男だね。舞台に上がった役者の立ち位置を見極めるのが、とても上手い。時々、僕らのすることすべてが彼に先読みされているんじゃないか、と思うことがあるよ。それこそ脚本のある芝居のように」
ヤヨイは目を瞠った。頭のいい男、という表現が、ヤヨイの知っているヒロ――田中幸弘という人物にまったく結びつかなかったからだ。それをまた、ジェイルのように絵に描いたような怜悧な王子が言ったのだから、呆気にもとられる。
決してヒロが愚かだとか、おバカだとかいうわけではないが、親切で陽気で人あたりのいい好青年という印象しかない。
唖然とするヤヨイにおもしろそうな笑みを見せ、ジェイルは抱えた膝に頬を寄せた。
「『外』の人たちが、僕の知らない常識で生きてきたというのは、こういうことかなって――昔、思ったよ。親父殿が執心するのもむべなるかな。……彼にはなにか、確固たる信念のようなものがある。大怪我を負って発見されたとき彼は二十歳だったけれど、自分の置かれた状況を分析するのも、その結果を受け入れるのも早かった。最初から自分の価値を高く見積もることに臆さない、どこか図々しいところもあった」
自分はいま二十二歳だが、当時の彼と同じだけの胆力は持ち得ないだろう。そう続けて、ジェイルは片眉を上げる。
「…………」
なんともいえない沈黙がただよい、ヤヨイの中でヒロのプロフィールが高速で書き換えられていく。備考がついた、というべきか。
まったく横顔とはよくいったもの、こちらに見えないあちら側は、まったく別の顔だったのだ。
黙り込んだヤヨイから異論も質問もないことを見てとり、ジェイルは皮肉げに続ける。
「もちろん、彼でも読み違えることはあるよ。アサヌマは経験不足だと言っていたけど、ヒロはものすごい自信家の上に独断専行も甚だしいからね、性格の問題もあるんじゃないかな」
「自信家――ヒロが?」
「そう。だから他人の気持ちに鈍い。そして読み違え、最後には周りまで巻き込んで全員が大火傷をする」
なにか思い出すことでもあるのか、くすくすと咽喉を鳴らすジェイルは、どこか自嘲的にも見える。
ヤヨイはますます困惑が深まって、本当に同じ人を念頭に置いて話をしているのか、怪しみ始めていた。
ヒロが他人の気持ちに鈍いだなんて、ひとつ屋根の下に暮らした四ヶ月の間一度も感じたことがない。いつだってヤヨイの心情を思い遣り、ジェナや研究所の学者にも細やかな気遣いを見せていた。集落の住人にも同様だ。
ごく自然に周囲にとけ込みながら、決して国王の寵を笠に着るような態度をとることもない。だからヤヨイも、このでたらめな状況にあって、必要以上に萎縮せずにすんだのだ。ヤヨイにとってヒロは、この世界の先輩として、これ上ない手本となっていた。
「その点、アサヌマはさすがだよね」
新しい情報を処理しきれず今にもフリーズしそうなヤヨイを置き去りに、ジェイルは一転心から楽しげに目元を細めた。
「相手が満足するまで存分にしゃべらせて、いちいちお説ごもっとも、ってうなずいてるんだよ。こっちはろくな反論もないから、やっつけたと思って安心するじゃない。でも世間話なんかしてるうちにさ、気がついたら、いつの間にか、アサヌマが最初に決めたとおりになってるんだ。どこで形勢が逆転したのかもわからない」
顔を上げたジェイルは大仰に肩をすくめ、唇をとがらせた。
ヤヨイのまだ見ぬアサヌマに、この王子は勝てたためしがないのだろう。また些細なことで勝負を挑み、返り討ちにあうのを楽しんでもいたにちがいない。
青緑色の瞳は、昔を懐かしむ人に特有の、とろりとした色を浮かべていた。
(そっか……うん。そう、なんだ……)
ヤヨイは意図せず口にした質問で、思いのほか大きな収穫を得た。ことあるごとにジェイルの言う「居場所」の意味が、ほんの少しわかったように思う。
長所も短所もさらけ出し、決しておもねることなく受け入れてもらう努力をして。駆け引きもあるだろう、計算高くなければ乗り越えられない局面もあっていい。けれど誠実であることを忘れなかったから、ヒロもアサヌマも、地に足のついた人生を手に入れたのだ。
穏やかな沈黙に身をゆだねるジェイルを前に、ヤヨイの胸はざわざわと波立ち始めている。だが表面上変化のないヤヨイは彼にそれを悟らせず、静かに話を聞いていた。
「ここで幸せをつかんだ『外』の人は、たくさんいるよ。ヒロもジェナと結婚して少し落ち着いたし、独身でもアサヌマはちゃんと自分の居場所を確保してる。……ミツエは、命を終わらせる道を選んでしまったけど」
白皙の頬に、かすかに苦いものが刻まれる。ヤヨイはぴくりと反応し、前髪の間から探るようにしてジェイルの横顔を見つめた。
「思えば短い時間だった。でも……ガルムとは、心から愛し合ってた。彼と一緒に、日に日に明るさを取り戻していくミツエは本当に綺麗で、いやらしい思惑なんかなくたって、もっと喜ばせて、もっと幸せにしてあげたいと――」
ジェイルの声は不自然に途切れ、顔を上げるヤヨイに、彼はゆるゆると首を振ってみせた。いまさらだと、飲み込んだ言葉が聞こえた。
やはり、ガルム室長とナガヤマさんは恋人関係にあったのだ。朝の会話で聞きかじったことを確認できて、ヤヨイはほっと小さく息をつく。
憧れの人の過去を耳にすれば動揺も一入だが、それよりも、亡くなったことだけしか知らなかったナガヤマさんが、ちゃんと生きて幸福で、恋愛もしていたことが嬉しかった。
あんなふうに優しい顔で、思い出を語ってもらえるのがうらやましかった。
知らず口元に浮かべていた微笑に、ジェイルは同じに見えてまったく異なる笑みを見せてうなずいた。
「……アサヌマに会うといいよ。いまはスウェンバックの叔父上のところにいるけど、君とグレイヴのことを聞いたら飛んでくるだろう。君の聞きたいことを話してくれるだろうし、力になってくれる」
心臓がずくんと疼いた。
アサヌマに会う。会って話をする。
なぜかそうすることが、ひどく大切で必要なことのように感じた。
「スウェンバックって、遠いんですか」
自分の鼓動が、隣の人のもののように切れ切れに響く。内心では頭痛すら伴う動悸に狼狽しているのに、口からするすると出ていく声は妙に平坦だった。
「叔父上っていうのは、殿下の」
「そうだよ。親父殿の弟で、スウェンバックの城主。あそこはねぇ……遠くもないけど、時期が悪い。いま城の大改装中で、アサヌマがつきっきりで監督してるんだ。ま、君たちの話は特別だから、呼べばすぐにでも来てくれるよ」
首をかしげるジェイルは、どこか取り繕うような、誤魔化すような物言いをした。そしてややわざとらしく、身を乗り出してヤヨイにおねだりをした。
「ね、ヤヨイ。髪を結ってよ、これ食べるのに邪魔だから」
細く長い指が、目の前に並ぶ皿を指す。
確かに開け放した窓からは絶え間なくゆるい風が吹き込んで、金色の髪を巻き上げている。ジェイルは口の端にまとわりつくそれを、ひっきりなしにのけていた。
ヤヨイは食事のとき、髪が落ちかかるのが嫌いだ。だらしがないし、汚らしくも見える。だから軽くうなずいて、壁から離れるジェイルの背後に座りなおした。
「引っ張っちゃったら、すみません」
「いいよ、別に」
耳の後ろにふれられ、ジェイルがくすぐったそうに小さな笑い声を上げる。脇腹をさわったら爆笑するんじゃなかろうか、とうずうずしつつも、ヤヨイはおとなしく手櫛で髪を梳いた。
書記室をお払い箱にされたときには、こんなにしみじみと、この王子と話し込む羽目になるとは思わなかった。しかも同じ日に二度も。どちらかというと、立て板に水のお説教を拝聴するばかりなのだが、不思議とうんざりもしなかった。
軽い反発を覚えたことは、まぁ、なかったことにしてもいいだろう。
そんなことをつらつらと考え、ほつれのなくなった髪に指を入れる。
いつかの夜そうしたように、髪を三つの束に分けていてささやかな違和感を覚えた。なんだろう、と確かめるように掌でそっと表面をなでる。
(……あぁ、髪が細いんだ。あと、意外とぱさついてる……)
比較対象のことは考えないまま、やっぱり美人は得だと拙速に結論づけた。色味が淡くて本人の顔が派手だから、髪の毛も麗しく見えていたらしい。
実際、多少髪が傷んでいようと、ジェイルの美しさは損なわれない。彼の内面が強く気高いことを、その瞳がはっきりと映し出しているからだ。
ただ、彼の頬に散った薄いそばかすを発見したときと同じくらい、ほっとした。それがひどく後ろ向きの安堵であることを、ヤヨイは自覚していなかった。
金色の髪を指先で弄びながら、つるつるとすべらかな感触の強い髪に、もう一度無心でふれたいと思う。
(でも、その前に――)
アサヌマに、会わなくては。
一度くっきりと胸に浮かびあがったそれは、怖ろしい勢いでヤヨイの中を満たしていく。
アサヌマさん。
会いたい。
会わなくちゃ、いけない。
――いますぐに。
「――っ」
ぞくり、と背筋に悪寒のようなものが走った。
それはきっと武者震いだと、自分に言い聞かせた。




