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午後の進行を部下に任せてきた、と告げてポーチの下から手を差し伸べる王子は、笑顔だった。晴れやかとは言いがたいものの、先ほどまで滲ませていた悲壮感はどこにもない。
ベンチから腰を上げて歩み寄りつつ、ヤヨイは彼の手をとらなかった。好奇心丸出しのギャラリーに横目で見られながら、初めて心を明け渡そうと――少なくとも、そうできるかもと淡い期待をした人と手をつなぐのは抵抗がある。
なにより遠く離れてしまった彼に、触れてはいけない気がした。
それでも失礼にならない程度、友人よりはやや親密な距離に並んだ。
「……昼、食いはぐれたろう。ジルがなにか用意しているはずだから」
思うところはあるだろうに、王子はさりげなく手を引っ込める。ヤヨイの内側で起きたことを知らないから、恥ずかしがっていると思ったのかもしれない。
緩めた歩調で規則正しく脚を運ぶ王子は、時折様子をうかがうようにしてヤヨイを見つめる。視線を合わせるのが怖くて、ずっと下を向いていた。
――王子は、殿下のことをジルって呼ぶんだ。
そんなどうでもいい発見にささやかな喜びを覚える自分もまた、遠く感じる。まるでスカートの裾、ふくらはぎのあたりにくっついた、鳥の羽のように頼りない感覚。
間違いなくそこにある。けれどふとした瞬間、そよ風に吹かれても飛んでいってしまいそうなくらい、弱々しかった。
「ちょっと待ってて、って僕、君に言わなかったっけ?」
部屋に戻るなり、腕組みしたジェイルに上から睨み下ろされた。
綺麗なカーブを描く眉を跳ね上げる顔は、心安らぐ観賞物ではなかったが、覚悟したほどの冷ややかさは見当たらない。どれだけひどく怒られるかとびくびくしていたヤヨイは、いっそ拍子抜けする。
「いままで僕が君に出した指示の中で、一番簡単だったと思うんだけど。なに? 僕を試してるの? どこまで簡潔かつ理解可能な指示を出せるか? 悪いけどあとは『立て』とか『座れ』とか、犬の仔に出す程度の命令しか残ってないよ? しかもなんだか君には遂行不可能なように思えてきたし」
「ちょ、ひどっ!」
そのまま、気色ばむヤヨイの襟首をひっつかんでズルズルと引きずり出すのだから、まさに犬の仔扱いだ。
「かみつく前に、ご飯食べれば?」
ぽいっと放り出された赤い絨毯の上には、白い布が敷かれている。そこに並ぶものを見て、ヤヨイは声を上げた。
「うわ、すごーい! ――ってこれ、ご飯、ですか?」
眉を寄せて訝るヤヨイの横から絨毯に上がったジェイルは、さっさと白い陶器の皿に自分の食べたいものを取り分け始める。
「食べられるもので、ちゃんと活力源になればご飯でしょ?」
それが『外』でいうところの栄養補助食品や、ハイカロリーのプロテインバーなどに相当するなら、推奨はできないまでもそう言えないこともない。
しかしこれはどうだろう、とヤヨイは戸惑いが勝ちすぎて固まってしまった。
なにしろジェイルが嬉々として口に運ぶ、あるいは運ぼうとしているもののすべてが、いわゆるお菓子だったからだ。
ロマおばあちゃんもびっくり。砂糖に蜂蜜、果物の風味を移したシロップ、練乳などなど。タルトにケーキ、パイもあるが、そのどれもがぱっと見で正体不明なほど、この城でそろう限りのありとあらゆる甘味料をかぶっていた。
「殿下、これ、これって――全部でいくらですか」
口をついて出たのは、言おうとしていたこととは別の質問だった。
きょとんと青緑色の目を瞠ったジェイルは、そのまま床の上へ視線を落として右から左へ動かした。
「……君の給料で換算するなら、一月分?」
「ぶはっ」
胃袋を直撃する事実に、ヤヨイは目を回した。調味料や香辛料が高価なことは知っていたが、砂糖やその親戚の値段は想像以上に破格だったらしい。
自分の給料が日本円でいくらにあたるか知らないし、こちらのものの相場にも詳しいわけではない。だが仮にも成人とみなされたヤヨイが、要職につく彼の下で稼ぐ給金は決して安くはないはずだ。よしんばコンビニのアルバイト程度だったとしても、一度の食事に費やしてよい金額ではない。ましてお菓子で。
なんという浪費。そして価値観の相違。
驚きを通り越してあきれ返るヤヨイをよそに、ジェイルは大喜びで美味しそうに食べている。大口を開けても崩れない美貌に、口元を汚す砂糖が妙に似合っていた。
自分で肩掛けに改造した布袋には弁当が入っているが、とにかくはお相伴に預かるべきと判断する。
しかし、最も困窮したときには、一週間納豆と白米だけを食べ続けたこともあるヤヨイだ。布袋の中の手作り弁当、納豆ご飯、そして名も知らぬお菓子を並列に論じることに複雑な感慨を抱いた。
「……いただきます」
ため息も出ないと思いつつ、自分の皿にカステラのようなスポンジを一切れ載せる。てっぺんにはザラメではなく、砕いたピスタチオに似たなにかが張りついていた。
「殿下、もしかしてお昼はいつもお菓子を食べてたんですか?」
細く優雅な曲線を描くフォークでケーキを細切れにしつつ、頬にまとわりつくおくれ毛を指先で払うジェイルに皮肉を見舞う。おばあちゃん特性弁当を持参するヤヨイと異なり、ジェイルは上層のどこだかにある食堂で昼食をとるのが常だ。
だが唇のクリームをなめとりながら、ジェイルは悪びれもせずうなずいた。
「僕、主食がこれだもん」
「は?」
「別に普通の食事が嫌いなわけじゃないから、出されればなんでも食べるけど、特に理由がなければ大体こんな感じ」
あっけらかんとした声に唖然とし、ヤヨイは軋む首を巡らせて、大量のお菓子を見下ろした。ヤヨイなど見ているだけで胸焼けがするというのに、毎日毎食饗されるとしたら、それは紛れもない拷問だ。ゴージャスで贅沢で、緩慢な処刑だ。
ふと頭の隅に浮かんだ、銀盆に載った小さな粒は、無理やり記憶の彼方に押し流す。あんなものの比ではない。
「…………」
多くは言うまい、とあきらめにも似た心地でスポンジケーキを口に運ぶ。なにから採るのか知らないが、こちらの砂糖は茶色っぽくてグラニュー糖より甘くない。そのかわり樹液を煮詰めたシロップや蜂蜜は咽喉が焼けるほどなのだが、このケーキはシンプルな割りにやや「お高い」代物だったようだ。
行儀悪く細い脚で胡坐をかくジェイルを横目に、ヤヨイは平気、大丈夫、と自分に言い聞かせていた。
ヤヨイとジェイルの間に厳然と横たわる溝は、重苦しい背景を伴わない個人的な問題だ。なんにでもマヨネーズをかける人や、ポテトチップスを白米にかけて食べる人に感じるのと同じ距離感。目玉焼きの調味料はなにが好きかという質問で、軽い論争を招いた経験はだれしもあるだろう。
生活レベルや文化、常識を共有していてさえ、容易に起こりうること。
だとすればやはり、近衛騎士の宿舎で感じたあの果てしなく冷ややかな隔たりは、詰めるのが困難な距離を示していたのだ。
ずん、と重くなった胃がヤヨイに存在を主張する。精神にかかったストレスの度合いを如実に示す痛みに、ヤヨイはフォークを伏せて皿を置いた。
ヤヨイが一体なにを考えて打ち沈んだか、その原因を知っているくせに、ジェイルはことさらに明るく尋ねる。
「ところでグレイヴは? 一緒に食べると思ってた」
言いつけに背いたお仕置きか、とむくれる気力も湧かないままに、ヤヨイはぽつりと答えた。
「なんか……行くところがある、って言ってました。午後のお仕事は部下の人に任せたみたいですけど」
部屋の前まで送ってくれた後、王子はチョコレートブラウンの髪をひるがえして下層へと降りていった。まともに目も見られなかったけれど、あのときはどうしていいかわからなかったのだ。
食べ物を切り刻んだ末に大方を残すというマナー違反を犯した皿を、見るともなしにぼんやり見つめる。全体的に白と茶色でまとめられたそれが、ふと、随分と『外』のものに似ていると気づいた。
もともとどんな味や形状の伝統があったか知らないが、現にヤヨイがとったものはカステラに見た目も味もよく似ている。ジェイルが頬ばっているのはどう見てもシュークリームだし、その皿にはアップルパイが載っている。
一度だけ食べたチョコレートもおばあちゃんのパンケーキも、粉っぽかったりやけにどっしりと重かったりしたけれど、お菓子作り初心者の作品みたいに素朴だった。それは単に素材が――たとえば砂糖ひとつとってもそうだし、ベーキングパウダーとかイーストとか、そもそもあるのかわからないけど、そういうものが――きっと『外』の基準に満たなかったからだ。いや、似て非なるものを工夫した結果か。
これも『外』趣味の一環かな、と見ているだけで胸焼けを起こすヤヨイに、ジェイルが首をかしげて言った。
「ねえ、グレイヴに怒られたの?」
唐突な質問に、それはもちろん、と即答しようとして思いとどまる。
あれは、怒っていたのだろうか。
上機嫌と対極にあったことは確かだが、一概に怒りのカテゴリーにくくれる雰囲気でもなく――。
(あれ……? 怒ってる人って、どんな風だっけ……)
無意識に指先のインク汚れをこすりながら、ヤヨイはうつむいた。
怒る。怒る。怒る。
単語だけがふわふわと頭の中いっぱいに浮かんで、肝心の情景が出てこない。
多少もやもやと歯がゆくはなったが、まあいいか、と無駄な努力をあきらめる。
トラブルを避けて何事にも我関せずを貫いた日常が近すぎて、真っ向から浴びせられる怒気を思い出せないのだろう。そう思った。
なにかおかしいな、とは感じるが、違和感というにはあまりに輪郭のぼやけた感覚だ。卵の薄皮越しに、カメラのファインダーを覗いたような気分。
それよりも、インクの汚れがちっとも落ちないことのほうが気がかりだった。
不意に、こんな汚れた手を出していいものか、と、決して庶民の口には入らない食べ物に畏怖を覚える。
『外』ではコンビニで一切れいくらで買えてしまうありふれたそれも、こちらでは大層高級な贅沢品だ。それこそ給料をつぎ込まなくては食べられないほど。いかにヤヨイの常識とそぐわなくとも、もっと感動して驚喜して、ありがたくいただくべきではなかったか。
それにこれはきっと、『外』から来た同胞が頑張った証だ。
思えばお城で出される料理やお菓子が、『外』のものにあまりにも似ている、それも当然のことだった。
ここに来るひとたちは、別に特殊技能を備えた選ばれしその道のプロではない。なにか知恵を授けてくれ、と突然言われても、応えることは難しい。ヤヨイ自身がそうだったように。
アサヌマやヒロばかりが話題になるのは、彼らがトクベツだからだ。
そうでなかった人たちは、生きるために――あるいは喜んでもらう、重宝がってもらうために、こちらと異なりつつ自分にできる精一杯を提供したにちがいない。
おそらく衣食住に関わるごく身近なことなら、あまり悩まずに教授することができたのだろう。特にはっきりちがいのわかる和食には、味噌や醤油が必須だがここでは手に入らない。となれば、潤沢な資金を活かして知る限りの菓子類を伝える、というのは想像以上に有効な手段だったことだろう。
現代人の知識と記憶で再現したお菓子は、きっともともとあったそれを駆逐したのだ。
(ちょっと尋常じゃないよね、『外』趣味って)
そんなことをつらつらと考えていると、そっと手首をつかまれて我に返った。