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足元ばかり見つめたままひたすら歩かされ、着いたところはオレンジ色の屋根をかぶったあの建物だった。
中庭越しに眺めるばかりではわからなかったが、平屋でどっしりした構えの建物だ。柱や扉に無駄な装飾は一切なく、土に接する部分から苔むして、古いお寺のようだとヤヨイは思った。
正面玄関らしい扉の前には、一塊の石を削り出した階段が数段あり、大きく庇が張り出している。その下は色がくすんだ木の板が敷かれ、ウッドデッキのポーチ、といえばいえるだろうか。屋内に窓が少ないのか建具の影が濃く、そこに立つと目が慣れるまで少し時間がかかった。
裏庭のほうからは、馴染みのある金属音が不協和音を奏で響いている。そっと王子の横顔を盗み見ると、厳しい表情のままだった。
「近衛の宿舎だ」
やっぱり、とヤヨイは重いため息をついた。
ヒロにあれほど近寄ってはいけない、と言いつけられた人々の巣窟に足を踏み入れている。けれどその言いつけ自体、いまだに有効なのかもちょっと不明だ。
促されるまま、日曜大工の手作り品みたいな木のベンチに腰を下ろし、寒くもないのに二の腕をさする。気まずいのもそうだが、やはり抑えきれない苛立ちが、小さな仕草に滲み出てしまう。
ふと王子に気取られたかな、と端正な立ち姿に目を向ける。グレイヴはポーチの手すりにもたれ、腕組みをして城館のほうを睨んでいた。
あたりまえだが朝と同じ紺色の制服。その胸元の銀のボタンに髪をとられたのは、つい数時間前のことなのだ。
さわさわと秋風にそよぐその腰まで届く長い髪を見ていたら、性懲りもなく胸が高鳴るのと同時に、彼の兄を思い出して急に腹が立ってきた。
よく考えたら、ジェイルは随分と好き勝手言ってくれたように思う。
確かに不満も不平も口にしなかった。ろくに質問や抗議もしなかった。
けれど、なにも言わないならそれでいいだろう、というのもあんまりではないのか。唯々諾々と流されるおまえが悪い、ときっぱり言い切られてしまったわけだが、これだけコロコロと環境も状況もかわる中でいちいち主張を通していくのは、相当の胆力と自我の強さが必要だ。
(そうだよ……主張するって、ほんと疲れる)
ヤヨイはそんな風に、たったいま置かれている状況に対して言い訳を試みた。
実際にはただ目の前に迫った問題を放り投げただけで――あまつさえ、その核となる人に追っかけられた挙句捕獲されて、気まずい思いを味わっているわけだが。
冷静に振り返れば言い返したいことも多々ある。ただ、ジェイルの言いたかったことだけは忘れないようにしようと思った。ヤヨイが内側に向かって閉じていたのは本当で、彼に指摘されなければ自覚のしようもなかったのだから。
自分の内面にずけずけと踏み込んでこられるのは、正直不快感のほうが勝る。それでも、彼はとても大切なことを教えてくれたのだ。
ようやく地に足がついた、とヤヨイが肩の力を抜いた瞬間、見計らったようなタイミングで王子の硬い声が降ってきた。
「どこへ、行くつもりだった」
なぜ逃げた、とは言わなかった。頼りなく揺れた語尾に、それを口にすることができなかったのだと悟る。
誤解させてしまっただろうか。いや、確実にさせただろう。悲しませるつもりはなかったのに。
途端に沈鬱な心地に叩き落され、ヤヨイは懸命に言葉を探す。探しながら、ああ、本当にどこへ行くつもりだったのだろうと少しだけ途方に暮れた。なんの利害もしがらみもなく、ただ逃げるために逃げたヤヨイを受け入れてくれるところなんて、ただのひとつもありはしなかったのに。
元いた世界にあったもの、永遠に失ってしまった人たちの面影が去来しそうになり、あわてて意識をそらす。いまだけは、思い出してはいけないとわかっていたから。
「べ、別に、どこでも……ただ……」
しどろもどろになりながら、膝の上で手を握りしめた。指先が青く染まっていて、それがなんだか未熟で取るに足らない存在の証みたいで、ひどく惨めだった。
そんな自分の姿を曝しているのが、よりにもよってグレイヴ王子だということも切ない。いや、彼だからこその気鬱なのだろうか。堂々巡りになりそうだった。
「ジルの――陛下のおっしゃったことは、ひとまず忘れてくれ」
「え?」
かわらず硬い声に、ヤヨイは意味を図りかねて顔を上げた。マネキンのように同じ姿勢でいる王子からは、声と同じくらい硬質の気配が放たれている。
この人に会ったらどんな恥ずかしい思いをするものか、と恐れていただけに、どうやら難しい話になりそうだと拍子抜けした。その分だけ気が楽になり、ヤヨイは縮こまっていた気持ちを緩めた。
チャリ、と腰から吊った剣を支える鎖が鳴り、王子が手すりにもたれたまま、長い脚を交差させて組む。こちらに向き直った王子の強い視線を、試練のように正面から受け止めた。
「過去、『外』の人間が王族と縁を結んだことはない。俺は、おまえたちが自由意志で自分の相手から王族を除外していたと思いたいし、そうあるべきだと思う」
「……意味が、よく……」
無意識に首を振りながらおそるおそる口にすると、王子は痛みをこらえるように目を眇め、苦しげに唇をかんで黙した。
王様の部屋の前での別れ際、真っ赤に染まったあの無防備な顔とあまりにちがう表情に、ヤヨイは衝撃を受けて言葉をなくした。同時に、王様が彼になにか、とても背負いきれないほど大きななにかを持たせたのだと察した。
王子はヤヨイを好きだと言ってくれた。
王様は、王子にヤヨイと結婚しろと言った。
なのになぜ、これほど苦渋に満ちた表情をするのだろう。
ちり、と、深いところがかすかに音を立てた。なにかとても大切なもののすべてが違いすぎて、永遠にわかりあえない予感のようなものが、ぷくりぷくりと浮かび上がってくる。
――やはりダメだ。このままでは、絶対にダメだ。
なにかをどうにかしなくては、不幸になる。暗い確信が、ヤヨイの中に生まれたばかりの甘い痺れを払拭した。
せっかくジェイルが開いてくれた扉が、閉じていくのが見える。そしてまた、ここではないどこかへ、なにも悩まなくてすむところへ行きたいという漠然とした欲求に支配されていった。
不規則に周囲の空気をふるわせていた金属音が、不意にやんだ。
それを待っていたように、グレイヴがもたれていた手すりをはなれて、ヤヨイの隣に腰を下ろす。ひと一人分のスペースを空けた王子が遠くて、もう胸いっぱいに吸い込んだ香りも思い出せない。
「……期限はある。陛下のご下命に背くことはできないからだ。だが俺は、おまえを追いつめたくない」
ぽつりぽつりと、膝に肘をついて軽く手を組み、足元を見つめて王子は言った。
「陛下の命令で、国の思惑に左右された結婚なんかに、おまえを利用したくない。そんな風にして、おまえを手に入れたいわけじゃない」
ああ夢じゃなかったんだな、と、冷えていく心を持て余しながら、ヤヨイは淡々とその言葉を聞いた。少なくとも、好きだと叫んでくれたあのとき、王子はただ自分の気持ちに忠実でいたのだ。
「俺は、おまえが好きだ。そこから……始めたいんだ」
ヤヨイは中庭をぼんやりと眺めて王子の顔を見なかった。王子も、ヤヨイに目を向けはしなかった。
確かにぴったりと合わさったはずのものが、大きくずれていくのがわかる。
いまはやめて。もう言わないで。受け取り方のわからないものを、それ以上押しつけないで。
息をつめ、強張った頬に流れた涙を王子は見ていなかった。
「次の春まで、猶予を得た。俺に、おまえを口説く機会を与えてくれないか」
それは、そんな風に、すがるように口にしていい言葉だろうか。
王子の声は苦悩と困惑に彩られて、とても愛を訴えているようには聞こえない。春にはだれかの都合どおり、辺境の領地へ夫婦として赴くことになる。その事実だけを突きつけられたような気がした。
ただ、ヤヨイだけを求めてほしかった。それがゆるされなかったから苦しんでいるというのなら、せめて情熱だけを捧げてほしかった。
ぽろ、ぽろ、と涙がこぼれる。
感情の昂ぶりも嗚咽もともなわないそれに、王子は気づいてくれない。ヤヨイも、気づいてほしいとは思えなかった。
だが沈黙が雄弁に語る。王子は目線を下げたまま、広い肩に緊張を漲らせた。
「……俺と結婚するのは、嫌か?」
低く甘い声が、やわらかい場所にそっと刃物を突き立てる。
ヤヨイは悩むふりして両手で顔を覆い、名まえのない涙を拭った。
「一つだけ、教えてほしい」
唇をこじ開けることすらできないヤヨイをどう思ったのか、王子は大きく顔をそむけて声をふるわせる。もう離れていかないでと、理不尽な慟哭が咽喉元までせり上がって、消えた。
「一番大きな気持ちはなんだ? 王への反発か、怒りか――俺への、嫌悪か?」
膝に置いた手を、ぎゅっと握りしめる。真っ先に胸を染めたのは、そのどれでもない想いだったから。
黙ったまま、こちらに向けられた紺色のリボンの結び目を見つめる。
視線に感づいたか、リボンがぎこちなく動いて見えなくなる。
ヤヨイを斜めに見上げた緊張で淡く翳っていた紺色の瞳が、みるみるうちに色を増してとろけていった。
面映そうに唇の端を上げ、グレイヴは目を伏せる。そしてぽん、とヤヨイの頭に手を置いて、髪に指をからめながらそっと引いた。
「……それなら、いい」
そのまま目をそらし、立ち上がって姿勢のいい後ろ姿をヤヨイに見せた。雑事を片づけてくる、と笑みを含んだ声で告げ、長い脚を踏み出してポーチを下りていく。
迷いのない足取りを見送りながら、ヤヨイは静かに混乱し続けていた。
自分は一体、どんな顔を見せたのだろう。いまここに鏡があったなら――。
(……絶対、見ないよ……)
そんな複雑で理解不能なものなんて、見たくなかった。
拍手小話、追加してます。
以前からあるものの後ろなので面倒ですが、お時間があれば是非。