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おじいちゃんとおばあちゃんには、自分で手紙を書いた。
『 今日はお城に泊まります、明日の終業時間には帰ります。殿下のお世話になるので、心配しないで下さい 』
それだけの文を書くのにひどく手こずったのは、鎮まらない鼓動が指先をふるえさせ、何度も紙の上にインクの水たまりを作ったからだ。
でもちゃんと書き上げて、『ヤヨイより』と署名して、ジェイルに預けた。警備隊士に託されたそれは、古強者の大先輩の家に間違いなく配達されることだろう。
ヤヨイは広い机に肘をつき、組んだ手で顎を支えた。高熱を出したようにぼうっとする反面、自分のどこかが凍りついていく気がした。それがいいことなのかそうでないのか、判断できない。
じゃあちょっと待っててね、とだけ言って上司が部屋を後にしてから、どれだけの時間がたっただろう。
カラーン、カラーンと軽い鐘の音がかすかに聞こえ、昼休みの始まりを告げる。じくじくと膿んだような疼きが全身をつつみ、考えすぎるあまりヤヨイの頭は次第に真っ白になっていった。そして散漫だった思考が徐々に収斂し、ひとつひとつ浮かび上がっていく。
生まれ育った場所。
不思議な湖。
ヒロ、ジェナ、ガルムやルーヴェン、ゼロン、ここで知り合った大勢の人たち。
しかしなにを思い浮かべても、最後にはあのチョコレートブラウンのつややかな髪をした人に行き着いてしまう。そうするとこめかみが痛むほど赤面してしまい、目を回しながらそれをかき消すのだ。そんなことを繰り返しているのだから、短時間で神経が擦り切れるのも無理はなかった。
「…………」
組んだ手に額を押し当てると、うっすらと汗ばんでいた。
じき、ここへ来る。どんな顔で迎えればいいのだろう。
気づけばまた、懲りずに彼のことを考えていた。
出会いから今朝ほどまでに見た表情が、パラパラと脳裏をよぎっていく。音も匂いもない記憶の断片。笑ったり怒ったり赤くなったり、ぶっきらぼうなくせに感情の豊かな人だった。
あれだけ間近でつぶさに観察したというのに、よくわからないという印象が一番強い。けれど、それだけでもなかった。
(そうか……わたしが王子の顔を見てたってことは、王子もわたしを見てたんだ)
粗末な椅子の上で放心していたヤヨイは、その事実に思い至った瞬間唐突に決意した。
――よし。逃げよう。
悪魔のような上司にこき使われたおかげで、たった数日の内にヤヨイはランドボルグ城に随分と詳しくなっていた。
それはなにも、いわゆる間取り上の単純な事情だけではない。この時間はどこに近衛騎士が出没するか、上層警備にあたる騎士の巡回ルートはどうなっているか、警備隊士はどうか。そして彼らが放浪する自分を見つけたら、どういう行動をとるか。
ヒロが言ったように、確かに下層は子どもが棒投げをしに来ていたり、裸馬がホールを闊歩していたり、老人が日向ぼっこをしていたり、あまつさえ石の床に薪を組んで干し果物を炙っていたりと、仮にも国王の居城とは思えないほど混沌としている。
しかしその分、さりげなくかなりの人数が警戒にあたっていると、いまならわかる。そして彼らの目を盗んで城下へ出るのは難しい。
ヤヨイはすったもんだでヨレヨレになった衣服をきちんと伸ばし、髪を手櫛で整え、深呼吸をしてからそっと廊下へ出た。コソコソするほうがよほど怪しいからだ。
事実、勤務中ですから、という顔で堂々と下層まで下りることには成功した。一度近衛騎士とすれちがったときは色々な意味で緊張したが、少なくとも彼はヤヨイが「逃走中」であるとは思わないだろうし、思ったところで即座に注進には及ばないはず。
警備のポイントを知っていれば、そこを避けて通るまで。
どこかふわふわと現実感のない心地のまま、本館をやや大回りして裏口へ向かう。警備隊の詰所が見え始めたところで、通用門が危険かもしれないとようやく気がついた。
(……でも正門には騎士が立ってる……警備隊士は上層に来ないし、わたしを探せって命令されてないかもしれないか)
ぼやっとした頭で想像する。敵前逃亡を図ったヤヨイを捕獲せんと指揮を執るのはジェイルだ。彼は自分の指示を無視されたり、完璧に遂行されないことをひどく嫌う。待っていろと言いおいたはずのヤヨイが消えていたら、それはもう鬼のように――。
「――っ」
ぶる、と背筋をふるわせて、ヤヨイはせかされるように歩き出した。
大丈夫、いつもどおりに振る舞えばいい。おじいちゃんたちに、手紙を出したのに帰宅が早いと訝られたら、早引けだとにっこりするべし。頑張れわたし。
だが明後日の方向に前向きなヤヨイは、表面上冷静に見えてもやはりかなり混乱していたのだ。
まずなぜ逃げ出すのか。逃げ出してどうするのか。一体なにから逃げ出したのか。それら根本的な一切を思考から排除して疑問を抱かないなど、平素のヤヨイにはありえない。その証拠に、背後から叩きつけられたかと思うほどの怒声が聞こえた瞬間、考えるより先に脚が勝手に駆け出していた。
「待てッ!!」
空気がふるえるような大声だった。
詰所から何事かと泡を食った様子で――実際食べかけの菜っ葉を口の端からはみ出させて――警備隊士がまろび出る。その横をひゅんっと走り抜け、通用口の扉を体当たりの勢いで押し開いた。
追跡者がだれかなど、振り向いて確認するまでもない。
不審者はまず怒鳴りつけて萎縮させる、その原始的で荒々しい作戦は近衛騎士というどこか雅やかな職種に不似合いだ、でもちょっと落差に萌える、などと普段なら絶対考えないようなことを脳の表層が過ぎていく。
いまならちょっとした記録が出せるだろう速度での猛ダッシュだった。剥き出しの土の地面は走りにくいし、昼休みだったためそこら中に人がいる。
衆目の集まる中、服の裾をからげて走る『外』の娘、それを追う近衛騎士の制服をまとった王子。
(スキャンダルだ、ゴシップ紙の一面だ! あ、そんなものないか)
他人事のように思考が乖離し始めて、脳が酸欠になりつつあると悟った。気道がふさがり、頭痛がしてきた。それでも的確に木立を、唖然とする人々を避けていたが、逃走劇は通用門の手前であっけなく幕を閉じた。
「ヤヨイッ!」
「ぅはあっ!?」
背後から伸びた腕が腰をさらい、勢いで両足が浮く。ただならぬ気配に反射的に槍を構えたのであろう警備隊士が、門柱の前で目を丸くしていた。顔見知りの隊士の「何事?」と問う視線に返す言葉を、随分と長いこと考えていたような気がした。
だがそれは一瞬だったのだろう。
たくましい腕に抱き取られてバランスを崩し、そのまま地面に引き倒された。したたか打ちつけた尻に悲鳴を上げ、舌をかまなくてよかったと心底安堵する。
束の間とまった心臓が再度激動を始めるとともに、肺胞を浚い尽くして吐き出された空気を求めて咽喉が開いた。
「待てというのに!」
頭上から降ってくる声は理性的とは言いがたいものの、呼吸は平常だ。さすがは日がな一日鉄の塊を腰に下げ、直立不動を貫く職業。加えて警護の時間外は、あのオレンジ色の屋根の向こうで鍛錬を惜しまないのだから、彼が見かけ以上に頑健なことも納得だ。
「っ……も、はしれな……」
くやしまぎれに言い返すが、情けないほど目の前がチカチカしている。せわしなく呼吸を繰り返し、乾いた咽喉が引き攣れて大きくむせ返った。
ぐったりと広い胸に寄りかかったまま、目を閉じる。瞼を焼く陽光や食事を作る竃の匂いなどがやけにリアルで、ヤヨイはやっと、現在の状況を飲み込み始めた。
いつの間にか警備隊士は姿を消し、門の向こうで野次馬を追い払う声が聞こえた。
「え……っと……?」
ちょうどよい高さの肘掛けにおいた腕の肩口で、額に浮いた汗をぬぐう。
「うわっ!」
こんな青空の下、地べたに座って肘掛けがあると思った自分はバカだ。それはヤヨイの身体に巻きついたグレイヴの腕だった。
あわてて手をついてそこから這い出し、はっと周囲を見回した。遠巻きながらも、たくさんの目がこちらを注視しているのがわかったからだ。
(ちょっとこれ、どうしよう……!)
中途半端な四つんばいで固まったヤヨイの腕が、力強くぐいと引き上げられる。よろけながらも萎えそうになる脚をどうにか踏ん張って立ち上がり、顎が鎖骨にめり込む勢いでうつむいた。
視界には地面と自分が履いたスカート、それから紺色の上着と白いズボン、焦げ茶色のブーツ。そのつま先が来た方向に向くのを見て、鳩尾が冷えた。
腕をとられて引かれるまま脚を動かし、なんて考えなしなことをしたのだろう、と苦い悔恨がこみ上げる。
逃げたところでどうなることでもなかったのだ。なにか政治とか、そういう大事な問題が関わっていたのだろうに。きっといろんな人に迷惑をかけてあきれられたにちがいない。
唐突な過度の運動で跳ね回っていた心臓は、重苦しい沈黙で不安と緊張を訴えていた。
お久しぶりでございます。
どうにかこうにか更新にこぎつけました。
なんとか上げた、というだけなので、後でなおさなくちゃ・・・。




