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「っていうのはまぁ、僕の個人的な意見で」
突如ヒトがかわったように明るく言い放つジェイルに、ヤヨイはワンテンポ遅れて反応した。
ぎこちなく涙をぬぐいながら、金色の髪がかしげた首に添って流れる様を見つめる。
ジェイルはあぐらをかいた膝に肘を置き、頬杖をついた。
「残念だけど、この際君たちの気持ちを斟酌している時間はないんだ。コトが済んでから、ゆっくり二人で解決してよ。見たでしょ? 転がり出てきたおじさんたちの顔ぶれ」
そう言われても、ヤヨイにとってはほんのり顔を覚えているだけの人たちだ。温水洋一なんかは印象的だけど、他の人たちは少し似ている別人がいたら間違えるだろう。
しかしヤヨイの戸惑いなど最初から気にかける様子もなく、ジェイルはクッションを抱えてあぐらをかいた。
「あれみんな、この国を実質的に動かしてる重臣だよ。なに話し合ってたんだか兄上もいらっしゃったし、あそこで陛下がああおっしゃった以上、君はもうグレイヴのお嫁さん確定ってことだね」
「え……?」
「君の国では年齢的に少し早いみたいだけど、悪い話じゃないはずだよ。まず完璧な居場所ができる。それから生涯を通して寄り添ってくれる相手ができる。面倒なことは全部グレイヴに押しつけちゃえばいい。アルガンダワは辺境だけど実入りのいい土地だから、ランドボルグにいるより豪勢な暮らしができるよ」
豪勢な暮らし、というのがどういうものか咄嗟に想像がつかず、ヤヨイはビラビラドレスと骨付き肉を思い浮かべた。いやいやちがう、と次に出てきたのは飴玉のようなダイヤがついた指輪やネックレス。我ながらいかんともしがたい貧困な発想に、状況も忘れてうんざりした。
落ち着け、と念じながら額をおさえて考える。頭に浮かんだのは、安心感のあるモンゴロイド系の顔立ちだった。
そう、ヒロだ。
とにかくまずヒロに相談しなくてはならない。
どう甘く見積もっても、ヤヨイの処理能力を超えたなにかが起きている。できることなら休みをもらって、『落下地点』に彼を訪ねたい。
王様や偉い人がなにをしたいかなど知る由もないが、これくらいの希望はきっと叶えてくれるだろう。もしかしたら、話によってはヒロが抗議してくれるかもしれない。
飽和した思考を棚上げする方向で結論づけようとしたとき、不意にジェイルが口を開いた。
「僕ね、君のそういうところが嫌い」
「……え?」
自分のことで手一杯だったヤヨイは、ジェイルがなにを言ったのかよくわかなかった。瞳も声も、さっきと同じトーンを保っている。
だが目で意味を問うても応えず、ジェイルはヤヨイの頬に残った涙を掌でぬぐい、囁くように続けた。
「だから君はお馬鹿さんだって言うの。僕はだれ? 文官の長がなにする人かわかってる? 僕、君からなにも質問されたことがないんだけど。なんで書庫に配置されたか、なんで急に異動になったか、なんでグレイヴを挑発してまで告白させたか。知りたくないの? 時を逸したらなにも知ることができなくなっちゃうんだよ? なぁんにも言わないから、勝手に話を進められちゃうんだ。君の意思はどこにあるの?」
ヤヨイは言葉に詰まった。質問の全部が理解できなかったからだ。
オージェルムで仕事をするのに必要なこと、十分な知識や能力はもちろん、働き口を見つけるツテだって持っていない。だからヒロに言われるまま書庫で働き始めたし、上からの指示だと納得して雑用係への異動も受け入れた。グレイヴのことに関しては――完全に言ってることが意味不明だ。挑発して? 告白させた?
いずれにせよ、どれもヤヨイの意思が介在する余地も主張する必要もない。だからヤヨイは、ジェイルが話を続けるのを待った。しかし彼は頬から手をはなし、忌々しげなため息をついた。
「君っていつもそうだよね」
平坦な声に、ヤヨイは周囲の空気が冷えたように感じた。ジェイルは青緑色の瞳を冷たく光らせ、ゆっくりと腕組みをして顎を上げた。
「君のそういうところが、嫌いなの」
ヤヨイは目を瞠った。いつものようなお遊びの意地悪ではなく、汚いものを見るような眼差し。なぜそんな眼で見られ、そんなことを言われなくてならないのか、ヤヨイはわからなかった。
(そういうところってなに? 一生懸命、真面目に考えて、頑張っているのに!)
ヤヨイはこれまで、人に好かれる努力もしてこなかったが、嫌われるようなこともした覚えがない。淡々と学業に勤しみ、仕事をこなしていく毎日の中で、そのスタンスが人間関係に支障をきたしたこともない。
こんなふうに、責めるような眼で見られなきゃならないいわれは、ないはずだ。
理不尽な宣告に対する憤りで、緩んでいた涙腺から涙が浮かぶ。唇をかんで深呼吸を繰り返し、平静を装って顔をそむけた。
だがジェイルは、声を大きくしてなおも言い募った。
「ほら、それ。あのさぁ、ヤヨイ。僕はいまなにしてる? 君の前に座って、君の顔を見て、君に話してるんだけど、知ってた? 知ってたらこっち向いてなんか言いなよね。君がひとの顔色うかがってなんか考えるのは自由だけどさ、勝手に結論出さないでくれる?それとも君の憶測はすべて正解だとでも思ってるの?」
「そ、そんなこと思ってない!」
「じゃあどうして黙ってるの? ここの常識もろくにない君に、おまえの考えてることはこのあたりか、って顔される僕がどれだけ不愉快かわかる? なにをどう解釈してどう感じたかも言ってくれない君と、どうやってわかりあえって言うのさ!」
最後は怒声だった。ヤヨイは目を見開いたまま凍りつき、ただジェイルの、怒りと興奮で上気した顔を見つめる。
余計なことを言わないよう心がけていた、ただそれだけなのに。自分で考えて、できる範囲のことを精一杯こなしていく、それが従順で使える使用人だと思っていたから。
でも確かに、本当にそれが正しかったかどうかなんて――相手がどう受け取るかなんて、考えたこともない。
とにかく誤解を解かなくてはと、ヤヨイは冷たくなった指先を握りしめ、うつむきながらも口を開いた。
「あ……あの、わたし――」
「それやめて。あの、ってやつ。すごい迷惑って言われてるみたいで腹が立つ」
「あ……め、迷惑だなんて、言ってない……ッ」
言い返した拍子に目尻からぼろぼろと涙が落ち、あっという間に顎先から滴った。手の甲でそれをぬぐうヤヨイに、ジェイルは厳しい口調で続ける。
「なんで泣いてるの? 君を理解しようとして失敗してる僕が、泣くほどおかしい?」
「ち、ちが……ッ!」
「じゃあ、どうして、泣いてるの?」
一語一語切るような問いが迫ってきて、知らないと怒鳴りたくなった。ヤヨイのほうこそ、どうして突然そんなことを言われなきゃならないのか聞きたいくらいだ。
なにか言わなくては、でもなにを言えばいいかわからない。
いたたまれなくなって、ヤヨイの涙は堰を切ったようにあふれ続け、鼻の奥が腫れ上った。顎のふるえがとまらない。服の袖で目元をおさえ洟をすするヤヨイの耳に、ジェイルの短いため息が聞こえた。
「……ねえ。僕、君になんて言った?」
「き、きらい、って――」
「うん、なにが?」
残酷な質問だった。ヤヨイはこらえきれず、くしゃっと顔を歪めてしゃくり上げた。
「わたし、が……っ」
抑えていた嗚咽がもれる。勝手に咽喉が開いて、声が流れ出していくようだった。呼吸のたびに気管が痙攣して、頭が痛くなってくる。
膝を抱えて顔を伏せるヤヨイの頭を、ジェイルは掌でぽんと叩いた。
「ほらごらんよ、間違ってる。そういうところが嫌い、って言ったんだよ」
ぽんぽんと手を弾ませながら、「なんか怒鳴っちゃった。ごめんね」と照れくさそうに言う声は、いつものジェイルのものだった。
「あのねぇ、ヤヨイ。僕らは君がなぁんにもわかってないってこと、知ってるよ。でもそれで不都合だったら、自分でそう言ってよこすだろうって思ってる。命令するほうはね、される側の気持ちなんかいちいち考えないんだ。嫌だったらそう言わなきゃ。だけど君は一度だって自分の考えや不満を口にしなかった、だからこんなことになったんでしょう?」
耳が痛かった。きっとそのとおりなのだろう。
ふと、ジェイルがヤヨイをからかって怒らせるのは、自分の言葉でなにかを語らせようとしていたからかもしれない、と思った。
それを裏付けるように、ジェイルはゆっくりと続ける。
「君たちは自分のことを話すのが苦手だよね。それもわかるけど……不満も、感謝も愛情も、差し出すことを覚えなきゃ、受け取ることもできないんだよ。価値観がちがう、常識がちがう、って最初から壁を作ってたら始まらない。意思の疎通って、話し合ったりケンカしたりして図っていくものじゃないのかな」
促すように顎先にかかった指が頤をなで、ヤヨイは気力を振り絞って言葉を紡いだ。
「だ、って……うまく言えない……わかってもらえないのも、まちがうのも、拒んで嫌われるのも、怖い――!」
「確かに流されてれば嫌われないけど、だれも君のことを大事にはしてくれないよ? 言葉が足りないならさぁ、手で触れて目を見てごらん。きっといろんなことが、それだけでわかりあえるんだよ」
ジェイルは広げた腕でヤヨイを優しく抱きしめて、切りそろえた前髪に顎をすり寄せた。甘い香りを胸に吸い込みながら、ほのかに同じ香りをさせた人を思い出す。
以前にもこうされたことがある。書庫で、母を想って気づかぬうちに泣いていたヤヨイを、グレイヴが同じように慰めてくれた。確かにあのとき、彼の優しさを過たずに受け取っていた。
――君が好きなんだよ。可愛くて仕方がないんだ。
ジェイルの言葉が、乾いた布に水をこぼしたように染み込んでいく。グレイヴは不器用で口下手だけれど、ちゃんと愛情の示し方を知っていたのだ。
いつもまっすぐにヤヨイを見つめ、頬に触れ、掌に口づけたのは、言葉にできないものを差し出してくれていたからなのだ。
大切なものを与えてくれようとしていたのに、見ない振りをしようとした。自分が傷つくのが嫌で、彼を傷つけるところだった。
あの崖の向こうを思い出す。
ipodをくれたバイト仲間の女子大生は、ヤヨイを哀れむことで優越感を味わっているのだと思っていた。
ビール券を握らせて逃げるように走り去った同級生は、貧しいヤヨイに施しをしたのだと思っていた。
本当にそうだったのだろうか?
ヤヨイは自分が二人に向けた表情を、思い出すことすらできない。
なぜそうしてくれたのか、問いただしてみればよかった。そうすることができていたなら、あの場所でヤヨイはひとりぼっちではなかったのかもしれない。不安だとかうらやましいとか、もっと素直に弱音を吐いていたら、自分の場所を受け入れることができていたのかもしれない。
グレイヴはヤヨイが築いた壁を、越えようとしてくれた。
ジェイルはその壁を、築くべきではないと言った。
「…………」
激しい波を立てた心が、緩やかに落ち着いていく。涙もとまり、乱れていた呼吸が正常に戻っていった。
それを見計らったように、ジェイルが腕をといた。
「さて」
いつもと同じ明るい声で言って、ジェイルがそっと身体を離す。赤くなった鼻を手で隠して顔を上げると、ジェイルは笑顔を浮かべていた。
「感想は?」
「……恥ずかしい。殿下ひどい」
「うん」
「びっくりした。殿下こわい。でも……色々わかった、気がする」
「うん。よかったね、ヤヨイ。とりあえず、グレイヴに会える?」
ヤヨイは一つ深呼吸をして、大きくうなずいた。蓋の閉まりきらなかった箱は、もう手に取る必要がない。
そして心からの感謝と親愛を込めて、もう一度ジェイルの胸に頬をうずめた。
ジェイルは拒むことなくヤヨイを抱きしめ、前髪をかきわけて額にひとつキスをした。
どうにか続きを、と思って勢いで書き上げました。
なんかもう、なんか・・・とにかく明るい展開に持って行きたかったんデス。
拍手小話、三話上げました。
展開的にお気に召さない場合がありますので、初回ページをお読みになって、
閲覧するかどうかご判断下さい。
なにかもう、色々といっぱいいっぱいでした。