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グレイヴが腰に下げた剣まで室内に消える寸前、四十代と思しき騎士がドアの陰からヤヨイに目礼をした。王様の近衛で顔見知りの、ちょっとイーサン・ホークっぽいと思っていた人だ。つられて会釈を返すヤヨイの前で、分厚いドアはパタンと閉じた。
そして廊下は、静けさを取り戻した。
「――っででで殿下! ジェイル殿下ッ!! わたしなんか、ものすごい勢いで放置されてる感じなんですけど!!」
さすがに大声を出す気になれなくて、ヤヨイはジェイルに足早に歩み寄った。説明を求める! と見上げたジェイルは、気の抜けた顔でヤヨイを見ていた。
「君には本当に振り回されるよ、ヤヨイ」
「そ、それはわたしのセリフでしょッ!? なんなんですかいまの、王様はなにを――」
「まぁ落ち着きなって。思ったよりずっと早かったけど、来るべきものが来たってことだよ。とにかく戻ろう……話はそれから」
重苦しい息をつき、ジェイルは寄りかかっていた壁から身を起こす。さらっと流れる髪の陰になった顔色の悪さに、ヤヨイはぎくっとした。
彼が楽しそうにヤヨイをいびり倒していたのは、ほんの二十分ばかり前のことだ。くるくると表情をかえる王子。いまはどこかくたびれてぼんやりとして、全然冴えないのに綺麗で、きっとこれが素顔だと思った。それ以上、話しかけることはできなかった。
背を向けて歩み去ろうとするジェイルの足元で、ぐしゃっと嫌な音がする。ジェイルは見向きもしなかったけれど、ヤヨイはかがんでそれを拾った。
リユースすることすら不可能な状態の、哀れな紙束。たくさんの靴底に踏まれ、くしゃくしゃになって、それはなんだか自分の姿みたいで。
「…………」
ヤヨイはいままでに感じたことのない、切ないのでも寂しいのでもない感情にとらわれた。
ジェイルの執務室は広い。日常使われる家具らしきものは机と椅子だけだが、窓辺には三畳ほどのサイズがある赤い絨毯が敷かれていて、それでも足元は邪魔にならない。壁一面に据えつけられた本棚には、紙の山が無造作に詰め込まれている。ところどころに地名か家名を書きつけたものが挟まって、ペラペラと揺れていた。
ヤヨイは促されるまま、絨毯の上に靴を脱いで座り込んだ。ジェイルは硬い革靴のまま、窓の下の壁に背をつけて座っている。なんとなく持ち帰った書類の皺を伸ばしていると、ジェイルがふぅっと軽く息をついた。
「朝っぱらから疲れたよ。君とつきあうと寿命が縮む。グレイヴが早死にしたら間違いなく君のせいだね」
「ちょ、意味がわかりません! こんなにおとなしく真面目に働いてるのに、わたしのほうこそ死にそうなんですけど!?」
ここぞとばかりに反論を試みるが、ジェイルがじとっと半目で見ているのと目が合ってあっさりあきらめた。わきまえろ、思い出せ、と地に足のつかない自分を叱咤する。
この人はご主人サマでわたしは下僕――そのままでの意味で。無念なことに――、お給料をいただくからには、言いたいことを言ってはいけない時もある。ヤヨイはぎゅっと唇に力を入れ、カピカピの梅干のようにすぼめた。
だが頭で理解していても、できないことはあるのだ。いや、たとえ己を滅して雇い主の命令に諾々と従うばかりの人生でも、言わねばならない時もある。
そしてそれは、いまだ。
「あのっ!」
勢いよく口を開いたら、ンパッと間の抜けた音がした。ジェイルは妙な顔をしたが、ヤヨイはめげずに言葉を続けた。
「これ、書き直したほうがいいですか? あんまり汚れてはいないけど、グシャグシャだし破れてるところもあるし、このまま王様に渡したら失礼ですよね?」
ジェイルはヤヨイが突き出した書類を見て、もっと妙な顔をした。驚くのとも怒るのともちがう。だれかに「ツチノコ捕まえたからお鍋で食べよう!」と言われたら、ヤヨイもこんな顔になるかもしれない。
しばしの沈黙をはさんで、ジェイルは絨毯と毛先を絡めあう金髪を揺らして首を振った。
「……ちょっと君さ、もっと他に言うことがあるんじゃないの? 盛大な愛の告白を受けた感想は?」
「え、あい――?」
「あれ、もしかしたら下層まで響き渡ったかもよ? 騎士団って発声の訓練もするんだ、不審者はまず怒鳴りつけて竦ませる、っていう原始的な作戦のために」
確かに竦み上がった。あんな大声を頭の上から浴びせられて、確実に一回は脈が跳んだ。グレイヴの声が残響になって、ヤヨイが好きだとリフレイン――。
「――ッ!!」
ドム、と音がしたかと思った。心臓が三倍くらいに膨れ上がって、三倍速で三倍の血液を景気よく送り出す。ヤヨイは自分が真っ赤になった瞬間を見た。書類を持つ手の指の先が太陽にかざしたように赤くなっている。血が身体の上のほうに集まったからか、急に足が痺れたような気がした。
――好き!? 好きって――好きッ!?
カタカタと手がふるえ、ついに目の前まで絨毯と同じ色になった。ちがう、紙束を放り投げて床に突っ伏していた。酸素は肺から出て行くばっかりで、咽喉から先に入っていかない。
グレイヴ王子が、ヤヨイを好きだと叫んだ。あれが夢でないのなら、グレイヴ王子はヤヨイを好きだということで――そんなわけない、と否定しきれない自分に自分で驚いた。心あたりがないわけでもないからだ。
けれど頭をブンブン振って、ヤヨイは摩擦で熱くなった額を絨毯にこすりつけたまま言った。
「で、でもあれは人としてッ! きっと人として嫌いじゃないって意味で!!」
「はぁ? ちょっと、君のどこに人として好きになれる余地があるって言うのさ。君の取り柄はね、ちっちゃくて珍しい女の子ってことだけだよ」
随分な言われようである。しかし反論もできないところが切ない。ヤヨイは力みまくっていた肩をがっくり落とした。ヨガでもやっているような格好だ。便秘に効きそうなポーズだ。顔を見られなくてすむから悪くないが、いい加減呼吸困難になりそうだ。
「……けど、あの状況じゃ……ああでも言わなきゃ、イヤな奴じゃないですか……」
のろのろと手を着いて起き上がると、ボサボサになった髪が顔にかかった。それを直しもせずにうつむいていたら、伸びてきた手が丁寧に梳いてくれた。ぎこくなちく前髪を扱う手を思い出し、秋の匂いが鼻の奥で香った。
クリアになっていく視界の中に青緑色の瞳があって、そこにヤヨイが映っている。きっとよく見たらその顔には、ヤヨイが大好きな魔法の呪文が書かれているのだ。
ふと、涙が出てきた。しぼんで青ざめた胸の奥から滲むように、冷たい涙が湧いてくる。
慣れた痛みだった。心の中に小さな箱を用意して、そこに全部詰めてしまう。キラキラしたものやふわふわしたもの、明るい未来や――甘い夢も。
その蓋を閉じるときは、いつもちょっとだけ痛いのだ。でもちゃんと自分で鍵をして、魔法の呪文で封印できる。「こんなの、最初から欲しくなかったもん」。
あとは埃をかぶった頃に取り出して、そんなこともあったなぁと懐かしむだけ。
もしかしたらいつだって、ほんのちょっと手を伸ばすだけでよかったのかもしれない。
けれど五年もの間あきらめ続けてきたヤヨイには、もうそれを試してみるだけの勇気が残っていなかった。ヤヨイは欲張りだから、くれるなら全部ほしい。一つだけ、一度だけ、一瞬だけ――それじゃ我慢ができないから。手に入れた途端に取り上げられたら、きっと悲しくて死んでしまうから。
――でも、うれしかった。
涙は穏やかに湧き続け、やがて心に還元しきれなかった分だけこぼれた。小鼻の脇を流れたそれが唇を少し濡らして、そこからヤヨイの中に還りたがった。その想いの名まえを知っているけど、言葉にするのが怖かった。
ヤヨイはただじっと、ジェイルの瞳を見つめた。そこに浮かぶ表情は読み取れず、瞬きすると、もう一筋だけ涙が流れた。
「……あの子が嫌いだって言うならそれでも仕方ないけど。なかったことにするのは、可哀想だよ?」
恋は独りじゃできないんだ。あたためるにも、壊してしまうにも。
高く澄んだ声が、静かに言った。