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からっぽの自分の両手を見下ろし、ヤヨイは自分のドジっぷりに驚いたり羞恥を覚える前に感心した。こんな、絵に描いたような間抜けな失敗を実際にするなんて!
よほど頭に血が上っていたのだ、こんな自分は初めて見た。
今日の運勢は大凶。きっと『外』で放送されるどの局の星占いも、うお座のA型は最下位だったにちがいない。
はぁ、と息をついて、うつむいたままグレイヴに頭を下げる。顔を見る勇気も見せる元気ない。消沈して踵を返そうとしたとき、グレイヴが小さく声を上げた。
「ジェイル」
天敵の名を聞いたヤヨイは、電光石火で振り返った。そこにはいまにも階段を上りきろうとする、ジェイルの姿があった。ヤヨイが床に叩きつけた書類を眺めながらスタスタと歩いている。正直うらやましい。ヤヨイは足元を見ずに歩いたり階段を上り下りするのが、苦手だった。絶対に段を踏み外す。
王の間の前で立ち尽くすヤヨイに気づいてジェイルが顔を上げ、ヤヨイは背筋を伸ばした。自らのろくでもない偉業のせいで、書類の陰になったあの細い顎が歪んでいたらどうしよう。
だがジェイルの視線は、迫り来る怒涛の嫌味に備えて緊張を高めるヤヨイの上を素通りし、グレイヴの前でとまった。
「あれ、兄上が来てるの?」
軽く目を瞠り、大きくて立派なドアを見やる。王の間ではいま、ジェイルの知らない会見がもたれているようだ、とヤヨイは察した。腕を組んで片脚に体重をのせるグレイヴも、訝しげな顔に見えた。
「そう……兄上、が……」
そしてジェイルはしばし、おそらくは数分、とても難しい顔で黙り込んだ。細い眉を寄せ、唇を一文字に引き結び、長い睫毛で瞳を半ば覆い隠して。いままで見た中で、その顔が一番綺麗だと思った。
ヤヨイは朝から仕出かした一連の粗相を忘れ、ジェイルの顔に見入ったまま美術の教科書を思い出していた。
なんとやらいう画家が描いた、なんとか夫人というタイトルの絵。青い薄闇を背景に、果物籠の載ったテーブルに頬杖をつく女性の横顔は、静かで無表情なのにとても物憂げだった。いまのジェイルは見るからに険しい顔つきだけれど、その女性と共通するなにかを感じた。
作者とタイトルがするっと出てこないあたりカッコ悪い、などと漠然とした自己批判をする。
淡い金髪で飾られたジェイルの白い横顔は、外界のすべてを遮断していた。騎士たちに無視されるのとはちがういたたまれなさ、咳払い一つできない空気がただよっている。
なんとなくグレイヴを見やると、厳しい目元を緩めて微笑んでくれた。あの夜以来、心なしか視線が優しい。ヤヨイはぱっと目をそらし、熱くなった顔に手をぱたぱたさせて風を送った。
だからイヤなのに――場所柄もわきまえず舞い上がる心臓をひっつかんで、往復ビンタしてやりたくなった。
それで本体が死んだって知るもんか、毒食らわば皿までだ! ってそれは意味がちがう。とにかくちょっと笑いかけてくれたくらいでドキドキするとか、急にカッコよく見えてくるとか、そういうことは幻想なのだからして断固たる態度で己を律していかねばならないのだ! 自分の脳内底なし沼で溺死とか、想像するだにバカバカしくって泣けてくる。
――本当に、泣けてくる。
悶々と愚にもつかないことを考えるあまり、周囲に注意が向いていなかった。急に二の腕をつかんで引っ張られ、一瞬空中に放り出されたような浮遊感を覚える。落ちる、とありえない悲鳴を上げる前に、黒い文官服がヤヨイの頬に押しつけられていた。
むせかえるような花の香り。ヤヨイを胸に抱きとめてきつく背中に腕を回したのは、ジェイルだ。男同士で肩でも組んでいるように、だが肩甲骨の上を通って肩口をおさえる手は、やけに力強い。ヤヨイは首をすくめたような格好になっていた。
「僕、中に入れないから。これグレイヴから渡しておいて、陛下に」
上半身を動かせないヤヨイの目の前で、紙束が右から左へ通過する。しかし胸に書類を押しつけられたグレイヴは、それを受け取らずに鋭く舌打ちした。
「……離れろ」
近い、と吐き捨てるように言って、グレイヴはジェイルの顔面に手を伸ばす。それをボクサーのような動きでよけながら、ジェイルはふふんと鼻で笑った。
「仕事中はいつもこれくらいくっついてるよ。ね、ヤヨイ?」
そんなわけはない。こんなにぎゅうぎゅうに腕を固められたらペンを握るのも一苦労だ。下校中のバカップルだってもう少しパーソナルスペースをとっている。
だが最初で最後の反転攻撃が締まらない結果に終わったヤヨイは、ジェイルを押しのけたり、言い返すことがためらわれた。小さな窓から空を見やりつつ、曖昧にうなずく。
「はあ、まあ……そうですねぇ……」
突然、グレイヴがジェイルの手を跳ねのけた。王様宛の書類はまたしても床に舞い落ちる。
「なぜそんなに密着する必要がある! まともに仕事ができるようには見えないぞ!」
「いいんだよ、ヤヨイの仕事は僕の疲れを癒してくれることだもの」
ねー? などと頭の上で言われても、そんな話は初耳だ。雑用係の概念が自分と異なるのか、はたまたヤヨイが雑用係を訳し間違えているのか。それにしたって精神的サンドバッグになるのが本業だったという衝撃的な事実に声も出ない。
「手をはなせジェイル、冗談が過ぎるぞ!」
踏み出すグレイヴのブーツが書類を踏み躙る。あ、と思ったヤヨイがそれを知らせる前に、ジェイルが弟に応戦した。
「冗談じゃないよ、兄上も多少のことには目をつぶるって言ってたし。それにね、グレイヴ。ヤヨイは特定の部署に所属してるわけじゃない、いまは僕の個人的な召使なの。僕がどうしようと――」
言葉を切ったジェイルは、包帯でグルグルにされたミイラのように動けないヤヨイの顎を、くっと指先で上向けた。
「僕の自由、なんだよ」
青緑色の瞳が、輝きを増す。桜色の唇が三日月のように弧を描き、すっと上から降りてきて――頬に触れた。
「……ッ!?」
「ジェイル!!」
膝枕などものともしない驚愕に浸る間もなく、ものすごい力で肘をつかんで引っ張られ、ヤヨイはグレイヴの胸に鼻から突っ込んだ。足の下でグシャっと哀しげな音を立てたもののことは考えたくない。
厚地の上着は見た目よりゴワゴワして鼻の頭が痛かったし、前髪に銀ボタンがからんでグレイヴが動くたびに束で引っこ抜かれそうな恐怖を感じた。
窓辺で風にさらされていた上着からは秋の匂いがして、背中と肩に巻きついた腕はあたたかい。ヤヨイは溶岩が流れたように熱くなる身体に慄きながら、ぎゅっと目を閉じた。
グレイヴがヤヨイをジェイルから隠すように立ち位置をかえ、胸に触れた耳からじかに彼の声が響く。
「ヤヨイの異動にどんな事情があったにせよ、おまえがすることに間違いはないと思っていた。だがそういう思惑だったなら話は別だ!」
「そういうって? 僕がヤヨイに手をつけるとか? あぁ、『外』の女性にはオージェルムの男を虜にするなにかがあるみたいだし、試してみるのも悪くなかったね」
「おまえッ!」
ヤヨイをおいて交わされる言葉は、どこか他人事のようだった。この体勢に気絶しそうなほどドキドキしても不安がないのは、代わりに怒ってくれるグレイヴの手が、大切なものを護るように頭を抱えてくれているからかもしれない。
ヤヨイはふるえる両手を持ち上げて、グレイヴの上着をつかんだ。右手がちょうど腰の剣に触れ、硬い革の感触になぜかひどく安心した。
庖丁より巨大な刃物がそこにあり、グレイヴがちょっと気まぐれを起こしたら簡単に殺されてしまう。けれどヤヨイは、きっとそんなことにはならないと信じていた。
呼吸を整えるグレイヴの胸が、大きく上下した。心を決めたように、グレイヴは静かに話し出す。
「……この件に関して、おまえを見損なっていた。『外』がどうこうってことじゃなく、これ以上ヤヨイをおまえの元には置いておけない。やはり俺が――」
「自分で面倒を見る?」
遮るジェイルの声は、感心している風にも、嘲笑っている風にも聞こえた。ヤヨイは最大限前髪に配慮しつつ頭を動かし、ジェイルのほうに顔を向けた。
ジェイルは胸元にこぼれ落ちる淡い金髪を背に払い、顎を上げて見下すような目でグレイヴを見ていた。
「へえ、できるの? 騎士団が怖くてこそこそ隠れないと会えないくせに? ガルムはミツエを愛するのに仲間の白い眼なんておかまいなしだったけどね」
ヤヨイは息を飲んだ。
ミツエ――それはオージェルム女性の意識改革をし、布ナプキンを世に広め、アサヌマ式もんぺを改良したナガヤマさんの名まえだ。なぜいまナガヤマさん、そしてガルム室長の名が出るのだろう。
ヤヨイは眼差しに疑問をのせて送ったが、ジェイルは目が合ったにも関わらず受け取り拒否した。
「ああそうか、君がヤヨイにそこまでしてあげる義理はなかったんだっけ。精々書庫に押しかけたり食事を運ばせるくらいのことしかできないんだ。立派だね、バレバレの『外』趣味を隠して王族の義務を果たす君も、君の気持ちを知っててないものにする騎士団も。頭が下がる、僕にはできない」
「……ジェイル?」
どこか焦燥のような苛立ちを含む兄の言葉に、グレイヴは探るような声を上げた。だがジェイルは、両手を広げ、目を閉じ、舞台俳優のような仕草で演説を続ける。
「わかる、君が寂しい人間を放っておけない、篤志あるデキた奴だってこと僕はわかってる。けどね、だからこそこのごろ思うんだ。君、本当は『外』なんかどうでもいいんじゃない? 騎士団の手前があるからってわけじゃなく、別に『外』のことになんか興味ないんだよ。もちろん、ヤヨイについてもね」
思わずグレイブを見上げた。前髪のせいで中途半端に顔を傾け、それでも表情を確かめずにはいられなかった。
虚を衝かれたのも一瞬、グレイヴの紺色の瞳はたちまち怒気に染まり、剣呑に眇められる。相当に心外だったらしい、と察して、ヤヨイは安堵した。
兄弟の顔を交互に見れば、二人とも凶悪なムードにぴったりの凶悪な目つきで睨み合っている。一人っ子のヤヨイは兄弟ゲンカなど見たことがないし、事なかれ主義者にトラブル回避のスキルは必須だ。
ヤヨイはなす術もなくおろおろと、にわかに発生した緊張が膨れ上がっていく様を見守った。
「……おまえ、さっきからなにが言いたい」
「君はすごいねってこと。ただ王家の方針だから仕方なく彼らを厚遇してさ、テキトーに好意がある振りしてたんでしょ? 僕もうっかり君が『外』趣味なんだと信じてた」
「ジェイル、なにを言い出す!? 俺は昔からずっと『外』について学んできたし、ヒロもアサヌマも尊敬してる! おまえはそれを知ってるはずじゃないか!」
「じゃあどうして堂々と『外』が好きだって言わないの? 騎士団の石頭が怖くて、一体どれだけの人間が『外』の人々を遠巻きにしてると思うのさ。王族で太子の近衛騎士で、無茶の利く若い君が率先して橋渡しをしなくて他のだれにできるって? もういいよ、だからヤヨイを僕にちょうだい」
「それとこれとは話が別だ! 第一、おまえこそ『外』に関心などないだろうがッ!」
「失敬だな、僕はヤヨイと『外』の言葉で会話ができるよ? 余計なお世話、騎士団と向き合う覚悟もない、ましてヤヨイのことなんか好きでもない、そんな君に――」
その瞬間、グレイヴがヤヨイを抱く腕に力を込めた。後頭部を砕かれそうなほどつかまれ、背骨が折れそうなほどきしみ、ヤヨイは小さく悲鳴を上げた。お相撲さんの抱き枕だってもう少しソフトに抱かれてるはずだ、内臓破裂で死んじゃう! と本気で花畑の幻が見えかけた、そのとき。
「それ以上の侮辱は赦さん! 俺はヤヨイが好きだッ!!」
「やっと出たよ」
ぱん、と掌を打ち合わせたジェイルの顔からは、つい一拍前まで浮かべていた凶悪な表情が消えている。きれいさっぱり、まるでお面を脱いだように――じゃあ、いままではかぶってた? いつから、なんのために?
ヤヨイは呆気にとられ、ぽかんと口を開けた。
完全においてきぼりになっていた。