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over again  作者: れもすけ
序章
2/48

2

プロローグの2~4をまとめました。

長くなっていますが、内容は同じです。



 だれか、洋画を観てる。

 ヤヨイは覚醒前のぼんやりした頭でそう思った。

 両親の仕事がうまくいっていたころは、日曜日の午後九時といえば親子三人でテレビの洋画を観た。二年前にテレビを売ってからは、家の中は静かだ。

 ゆっくりと瞼を開ける。

 壁だ。木の。木目。横向きで寝ていたせいか、下敷きにした右肩が痛い。枕を使っていないから、首もぎしぎしする。

 仰向けになると、焦げ茶に塗った木で白い漆喰の地に格子を描く天井が目に入った。随分とおしゃれな寝室だ。


 ――だれの?


 硬直した。即座に起き上がるだけの勇気はなかった。

 ただ息を殺し、心臓が嫌な音を立てるのを聞きながら、目玉だけ動かして部屋の様子を探る。

 漆喰の壁は下半分が焦げ茶の木材、床も同じ。半開きになった窓は小さめで、パッチワークのカーテンが揺れている。

 ベッドのすぐ横に置かれたテーブルの上には、陶器の水差しとカップ。黄色い花が活けられた白い一輪挿し。かじりかけの青リンゴ。

 ドアの横には背の低いタンスが置かれ、見覚えのある服が置かれている。置いてあるというより、広げて干してあるようだ。

 おそるおそる、布団の中で手を動かした。あちこちが筋肉痛のような痛みをうったえるが、気にしている場合ではない。

案の定、一糸まとわぬ全裸だった。

「――――」

 思考が停止する。窓の外からは緑の匂いを含んだぬるい風がゆったりと入り込んで頬をなで、小鳥の鳴き声が聞こえている。テレビの洋画だと思ったのは、人の話し声だ。

(ど、どうして……なに? なんで?)

 ヤヨイは必死で記憶をたぐった。


 昨日は公園の茂みで目を覚まし、すぐあそこへ向かった。補導や自殺防止のボランティアに捕まらないよう、十分気をつけて、無事に――無事にというのもおかしいが、とにかく計画を実行したはずだ。

 暗闇の向こうに浮かび上がる海を、この目で確かに見た。真っ黒な海の上を、とぎれとぎれのミシンの縫い目のように波が寄せてくるのを、万感の思いで見つめた。かぎ慣れない潮の匂いや、松林のざわめきもはっきりと覚えている。

 自殺の名所として有名なところだった。その崖から飛び降りると、滅多に遺体は上がらないと。

 悲惨な死体を見つける人も気の毒だし、身寄りのない自分の葬式を出したり火葬にする行政にも迷惑だ、と思って選んだ場所だった。

(――失敗、した……?)

 全身を覆う痛みは、海面に叩きつけられた衝撃によるものか。しかしあの高さから落ちて、果たして打ち身程度ですむものだろうか。

 混乱する頭を抱え、ヤヨイはそっと身体を起こした。もぞもぞと手足を動かしてみるが、やはり骨折などの重傷を負っている様子はない。布団だと思ったものはパッチワークのベッドカバーで、今日の気温に素肌でまとうのは悪くない気分だった。

 慎重にそれを身体に巻きつけ、ベッドを下りる。


 細く開いたドアから部屋の外をうかがうと、狭い廊下が伸びていた。その先の部屋で、数人の男女がなにか話している。だが聞き取れない。日本語ではないのだ。夢うつつで洋画だと思い込んだのは、だからか。

 声をかけるべきだろうか。でもなんと言って? 

「すみません、起きました」。……なにかちがう。

「おはようございます、ここはどこですか?」。……いや、そもそも言葉が通じないのだから、声をかけても意味がないのではないか。


 なにを考えるべきかわからず真っ白になったとき、不意に窓の外から大きな声が聞こえた。

 驚いて振り返ると、金髪の若い男性がニコニコしながらなにか話しかけてきた。窓の縁に上半身を乗り上げ、麦藁帽子のつばを押し上げて笑っている。

 英語でないことはわかった。

 とりあえず敵意もなさそうだ。

 だが全裸に布を巻いただけの若い女に、遠慮なくしゃべり続けている彼の意図がわからなかった。時折やけに大声を出すのが、不気味で仕方ない。

 どん、と背中にドアがあたり、悲鳴が上がった。それが自分の口から出たと気づくのに、数秒かかった。

「あ、ごめん。そこにいると思わなくて」

「い、いえ、すみません」

 頭を下げながら後じさり、固まった。――日本語だ。


 あわててドアの陰から出ると、黒髪で安心感のある日本人顔の男性が立っていた。少し困ったような顔で、ヤヨイを見下ろしている。

「大丈夫? っていうのもヘンか。えっと、どこか痛い?」

「あ、身体中が筋肉痛みたいで。……あの……?」

 落ちそうになるベッドカバーを胸元でおさえ、部屋の中を見回すと、彼は大きく息をついてうなずいた。

「とにかく服を着て、お茶でも飲もう。俺は田中幸弘、ここの家主」

「田中、さん……。あ、佐々木弥生です」

 やっぱり失敗したのだ。ヤヨイは胃のあたりが重くなるのを感じた。きっと彼はあのあたりを巡回しているボランティアで、この後は警察に連れて行かれる。事情を聞かれ、家に帰れと諭されるだろう。


 田中は窓の外の青年と、なにか言葉を交わしている。ヤヨイを見ながら微笑んだりうなずいたりしているのは、気を失っていた若い女が、無事に目を覚ましたことを喜んでいるふうだ。

 他人事のように二人を見つめているうちに、なんだか自分が滑稽に思えてくる。

 あんなに注意して決行した自殺に失敗し、見知らぬ人の家で素っ裸になっている。たまらなく惨めで、いますぐ電車に乗って家に帰りたくなった。

 帰る家など、もうないというのに。

 うつむいたヤヨイの肩に、遠慮がちな指先が触れた。

 目に涙がにじみ、ふるえる唇をかんで見上げると、田中はひどく悲しげな顔で微笑んでいた。

「うん、わかってる。……君、あそこから飛び降りたんだろう? 俺もだよ」

 ああ、この人も生き残った口なのか。

 ヤヨイは嗚咽がもれそうになるのを必死でこらえ、細く息を吐き出した。






 着替えを用意する、と言って部屋を出た田中は、金髪の女性を伴って戻ってきた。

 透き通った薄青い目をしたその女性は、とてもクラシカルな服を着ていた。ボタンのない白いパフスリーブのブラウスに臙脂色のスカート。白いエプロン。よく見るとスカートの裾はチロリアンテープのようなもので飾られている。

 さっぱり意味のわからない言葉で、それでもにこやかになにか言って彼女が差し出したのも、同じデザインの服だった。スカートの色は明るい緑だ。下着がないということを身振り手振りで訴えると、タンスの上からヤヨイのスポーツブラとショーツを持ってきた。


 生乾きで気持ち悪かったが、他人の前でいつまでも裸ではいられない。当然のように着替えを見守る彼女に辟易としながら、仕方なくそれを身につけた。

 洗ってくれたのだろうか。正直、下着を見ず知らずの人に洗われていい気はしない。

 そう思ったところで、洗濯物が乾ききらないだけの時間、気を失っていたのだと気づいた。外の陽気を考えたら、それほど長い時間ではなかっただろう。


 服にはボタンどころかホックやファスナーもついてはいなかった。ブラウスの襟もスカートも、紐でとめるようにできている。ヤヨイがスカートを履いていると、女性は歌うようになにか言いつつ、ブラウスの紐を結んでくれた。

 ヒロ、と彼女が大声で呼ぶと、すぐに田中がドアを開けた。廊下で待っていたようだ。

 ジャジャーン、とでも言いそうな仕草で彼女がヤヨイを披露すると、彼はにっこり笑って大きくうなずいた。

「うん、似合う」

 それはお世辞だったのだろうが、男性にほめられたのは初めてだ。ヤヨイはなんとなく気恥ずかしくて、口の中でもごもごとお礼を言った。






「なにから話せばいいのかな」

 女性が仕度してくれたお茶のカップを手に、田中はためらうようにつぶやいた。

 テーブルにあった青リンゴは彼のもので、ヤヨイに付き添っているときに食べていたのだそうだ。いまは一輪挿しとともに、テーブルの端に寄せられている。

「ヤヨイ、って呼んでいいかな。ここの連中は、敬称なんて高尚なもの知らないから」

 浮かべた苦笑いには、ここの連中、という人たちへの親しみが込められていた。自分のこともヒロと呼んでほしいという申し出に、ヤヨイはぎこちなくうなずいた。

 沈黙を紛らわすために、お茶に口をつけた。黄緑色で草の匂いがする。

 カップの縁からヒロの顔を盗み見た。少し年上……二十代後半くらいだろうか。そう思って尋ねると、彼は首を振って笑った。

「今年、三十二になるよ」

 驚いた。ヤヨイより十五歳も年上だ。

 思わずそう口にすると、ヒロははにかんだ笑みを見せた。

「健康的な生活してるからかな、あんまり老けないのかも。そうかぁ、ヤヨイは十七歳かぁ」

 なぜか感心したように首を振り、それからそっと、小さく尋ねた。

「事情、聞いてもいいかな」

 きた――。


 覚悟はしていた。ヤヨイは観念して目を閉じ、カップをテーブルに戻して、ため息とともに語った。

「……もう何年も、あの、お金のことで……両親はたいへんな思いをしてたんです。お父さんが不動産関係の会社をやっていて、お母さんは事務を……」

 どういう理由で借金を背負ったのかはわからない。

 家にテレビや新聞がなくとも、世間が不況であることは知っていた。そのせいで仕事がうまくいかなかったのかもしれないし、大きなお金の動く業界だから、どこかで失敗したのかもしれない。

 とにかくヤヨイが中学に上がると同時に家計は苦しくなり、住んでいた大きな一軒家も車も手放した。

 高校には父方の祖母が行かせてくれた。随分と仕事の援助もしてくれたようだが、その祖母も亡くなり、遺産はすべて借金の返済にあてたらしい。

「わたしもバイトしたり……してたんですけど、全然助けにはならなくて」

 そうだ、助けになんかちっともなれなかった。高校生が稼げる額などたかが知れていたし、せいぜい光熱費と、少しの食費にあてられる程度だ。テレビもストーブもないアパートの一室はいつも静まり返って、時折来訪者が鳴らすベルを、両親はひどく恐れていた。最後まで、恐れていた。


 いつか大人になってたくさん稼いで、暖かい部屋で美味しいものを食べさせてあげよう。そう思っていたのに。

「……四日、前に……火事で、アパートが全焼したんです。全部燃えて、ほんとになんにも、なくなっちゃって……」

 アルバイト先で知らせを聞いたヤヨイは、ドラッグストアのエプロンをつけたまま駆け出した。家が近づくにつれ大きくなる消防車のサイレン、野次馬の無責任なはしゃぎ声。携帯で動画を撮る学生は、ご丁寧にナレーションまで入れていた。

 両親は救急車の陰から、呆然と火を見つめていた。それからなにを話したのか、ヤヨイはよく覚えていない。


 気がついたら夜が明けていて、火の消えたアパートの駐車場の隅に座り込んでいて、両親の姿はなかった。

 それから三十分もしないうちに、警察官がやって来て――。

「……始発に、飛び込んだんです」

 顎がふるえた。

「ふ、二人で一緒に、手をつないでたって――」

 失火だった。電気代を節約するために、両親は二人だけでいるとき蝋燭を使った。そのまま居眠りをしたと、消防の事情聴取で話したらしい。

「なにも言ってくれなかった、わたしどうすればいいかわからなくて! お、お葬式ってどうやって出すのか、そんなお金あるのか、アパートは弁償するのか、今日はどこで眠ればいいのか、学校は行けるのか、借金はどうなるのかって――悲しいって思うより先に、お金の心配ばっかりしてた……!」


 だれかになにか言われる前に、逃げ出した。

 隣町まで歩いて、公園で寝起きした。

 死のうと思ったのは、一昨日の朝。公民館のパソコンであの崖へのルートを調べ、そして――。

「……将来のことも不安だったけど、自分はもうダメだって思って。両親が死んだのに、い、遺体は見せられないってお巡りさんに言われて、ほっとするような娘は生きる価値なんかないでしょう? だから、だから……」

 涙は少し、ほろっとだけこぼれた。みっともなく大泣きすると思ってたのに。

 黙って聞いていたヒロは、なにも言わずに頭をなでてくれた。

 慰めも、同情もない。でも非難もしなかった。まだ死にたいか、とも聞かなかった。

 ヒロは無言のまま頭をなで続けてくれて、ヤヨイも声を殺して、ほろほろと涙を流し続けた。






 泣くだけ泣いたら、眠くなった。

 ヒロに促されるままベッドに入ると、墜落するように眠った。そして気がついたら翌日の昼過ぎだという、このあきれるほどの暢気さはなんだろう。状況はなにもかわらないのに、肩の荷を下ろしたような気になっていた。


 言葉の通じない人がひっきりなしに訪れては、にこやかに話しかけて去って行く。

 中にはカタコトの日本語で「おはよう」や「元気ですか」と言ってくれる人や、「可愛いです」などとお愛想を言う人もいた。外国からの出稼ぎ労働者だろうか。

 童話の挿絵のような服装や外の景色は現実感がなくて、自分が自殺に失敗した人間だということを忘れてしまいそうだ。電線のない空は広くて、観光地にありがちな異国風のテーマパークにでもいるのかもしれないと思った。


 死のうとしていたのに。そのためにすべきことは、ちゃんとやり遂げたはずなのに。

 ここ数日のことが、本当に起きたことなのかどうかよくわからない。現実感がなくて、家に帰れば両親が出迎えてくれる気さえする。ただそこに至る道のりがどうしても想像できなかった。

 三日目の朝、用意された食事に手をつけながらぼんやりと茶色く透き通ったスープを見つめた。ニンジンとジャガイモ、ソーセージのスープはとても美味しい。薄い味噌汁と梅干おにぎりに慣れた口には、少々味が濃いくらいだ。


「ヤヨイ、食べ終わったら少し話そうか」

 テーブルの向こうでパンをちぎりつつ、ヒロがうかがうような調子で尋ねた。ヤヨイはうなずき、首をかしげる。

「ジェナも一緒に?」

 あの金髪の女性は、ジェナといってヒロの奥さんだそうだ。国際結婚、すごい、とわけもなく興奮したのは昨日の夜。

「いや、彼女はちょっと外に出てるから。大丈夫、怖いことはないよ」

 気遣う笑顔。ヒロは最初から一度も、ヤヨイになにか強要したりプレッシャーを与えるようなことはしなかった。すぐさま警察か保護施設にでも引き渡されると思っていたのに、そんな素振りもない。とても意外で、少しうれしかった。


 食事のすんだ食器を下げに立った後、ヒロは二冊のノートを持って食卓に戻ってきた。

 厚みのあるものと、薄いもの。並べられた表紙には、アルファベットに似た文字でいくつかの単語が書かれていた。ロシア語とか、ギリシャ語だろうか。ヤヨイは無意識に、そこから意味のある言葉を読み取ろうとしていた。

「なんて説明しようか、いっぱい考えたんだけどね……」

 表紙の単語を指でなぞり、ヒロは小さくつぶやいた。

「ありのまま話すしかないのかな、と思うんだ。それで、君だけじゃないってことを、少しでもわかってもらえたら」

 泣き出しそうな目をするヒロに、ヤヨイは戸惑うばかりだ。大人の男性がそんな顔をするのを見たのは初めてだし、彼はいつも快活で、楽しそうにしていたから。

 死ぬことに失敗して、それを乗り越えて、新しい人生を屈託なく歩んでいる。そう見えたのは、表面だけのことだったのだろうか。

「これから話すことを、よく聞いてほしい。そしてできれば、それを受け入れ、ここでの暮らしを楽しんでほしいと思う」

 なんと返事をしてよいかわからず、息を飲んだ。

 ヒロはヤヨイの内心を見透かすようにうなずき、ゆっくりと語り出した。






 俺がここへ来たのは十二年前。大学生で、自殺の理由は失恋、笑っちゃうだろ? いまはなんであんなに思い詰めたのか、我ながら不思議だよ。

 自分が割りと簡単にここになじんだせいかな。リセットしたんだから、もう戻る資格なんかないって思ったせいか……俺は、ここで生きる意味を、こうして後から来た人間をいたわって……希望、っていうのかな。そういうものを与えてあげることに、見出そうって決めたわけよ。

 元の生活とここでは大きなギャップがあって、なじむのはたいへんだと思う。言葉も通じないし、生活習慣や食事もちがうし。

 なにより――自分を、信じきれなくなってしまうんだ。

 夢を見てるんじゃないか、頭がおかしくなったんじゃないか、やっぱり自分は死んだんじゃないか……そういう、晴らしきれない疑いみたいなものを、ずっと抱えていかなくちゃならない。

 どこで折り合いをつけるかは、自分で決めるしかないんだよ。


 この家は、保護された人を研究する機関が用意したものだ。右も左もわからない人の、受け皿っていうのかね。そういうところ。俺が管理人になったのは六年前で、それ以前は日本語が話せる人はいなかったんだ。

 いまは研究者の中に日本語が達者な奴もいるけど、遠慮してもらってる。やっぱあからさまなガイジンにいきなり来られたら、緊張するかなって思って。へんな先入観とか与えられたくないし。

 もちろん、別の場所で暮らしてる日本人はいるよ。少ないけど……。

 こっちの暮らしに適応するために、まず俺が窓口になってさ。言葉やいろんなこと、教えてあげられたらって思って。辺鄙なところでさ、なんにもない田舎暮らしなんだけど。ジェナはそれを理解してくれて、結婚したんだ。

 ヤヨイもたくさんの人と触れ合って、いい人を見つけるといいよ。だれかの存在は、生きていくためには不可欠なんだって思うから。これ、俺の経験談ね。

 そのために、まず言葉を勉強しなくちゃならない。めんどくさいかもしれないけど、頑張ってほしい。すべての土台だからさ。


 言葉。英語じゃないの、わかった?

 フランス語でもドイツ語でもない。

 オージェルム公用語、っていうんだ。聞いたことないだろ。大丈夫、それ普通。テストには出ないよ。……うん、わかる。質問は後でまとめて答えるよ。

 この国の一般的な言葉で、これだけ覚えてれば国中どこに行っても通じる。地方によって訛りがあったり、下町の言い回しなんかもあるけど……耳が慣れればわかるから。

 このノートは辞書。厚いほうは、ずっと昔にやって来た人たちから伝わってるもの。薄いほうは、俺たちみたいな現代っ子が新しく作ったもの。『ちょー』とか『○○的に』とか、オトナが嫌がりそうな言葉が満載だ。やっぱ微妙なニュアンスって大事じゃん? あ、『ビミョー』も書いたな、俺。

 ルーズリーフみたいに、どんどんページを増やせるようにしたんだ。初めのうちは、付箋が欲しいって悶絶した。紙は粗悪だけど、ペンはいいよ。だれかが万年筆の仕組みを伝えたらしく、ちょっと出せば買える。

 ヤヨイにあげるから、役立ててほしい。


 よかったら今日の午後にでも、研究所の連中に会ってくれないかな。いや、何人かは窓から覗いたりお見舞いにも来たけど、ちゃんとね。俺たちのことを崇拝しちゃってて、ちょっとノリはおかしいけど、無害だから。

 話を聞かせてやって、新しいことを教えてやると喜ぶよ。なんでもいいんだ、コギャル用語とか、流行のファッションとか。――え、コギャルってもういないの? ヤマンバは? え、絶滅? うわー……いまマジで時の流れを感じた……。ね、おやまゆうえんちってまだある? あ、知らない……そっか……。


 ……あぁそうね。落ち込んでる場合じゃないよね。

 えっと……これ先に言うと憂鬱かなって思ったんだけど、やっぱり言っておかないとな。

 研究所に行った後、その……王様にも会ってほしいんだけど、大丈夫? いやいや、かまえることないから。俺たちが特殊な状況だってちゃんとわかってるし、なんかやらかしても無礼者ーッとかって怒ったりもしない。逆に喜ばれるかもよ。うん、王様。頭おかしいんじゃなくて。


 ここではさ、俺たち、ほんと好意的に見られてるから。中には……まぁ、嫌なやつもいるけど。それは常識の範囲内だよ。絶滅危惧種を見るような、っていうか、そういう感じ。

手放しで大事にされてる、とは言いがたいけど、都合よく解釈してさ、自分で快適な環境にしていくんだ。

 

 ここには、君を縛るものはなにもない。

 すべて、君の自由にしていいんだ。

 

 ここはオージェルム王国。

 ――俺たちが住んでいた場所とは、ちがう世界なんだ。



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