1
兄弟がいたらよかったのに、といつも思っていた。
兄弟がいなくてよかったな、といつも思っていた。
台所の手元灯だけつけて、靴箱に寄りかかって両親の帰りを待っているとき。
みんなヤヨイが食べていいのよ、と小さなケーキで誕生日を祝ってもらうとき。
兄弟がいたら、寂しさも苦しさも分け合えただろうに。
兄弟がいたら、両親の愛情も幸福な気持ちも、分け合わなきゃいけないのかな。
まるで知らない風景を思い描くように、その想像は薄っぺらで、色もにおいも、あたたかみもなかった。
でもいまは思う。
兄弟は多分、たくさんいるほうがいい。
寂しや苦しさだけじゃなく、両親の愛情や幸福な気持ちもちゃんと分け合える。兄弟の数だけ誕生日がやってきて、そのたびにみんなで心からおめでとうと祝うのだ。
生まれてきてくれて、ありがとう、と。
手をつなぐよりも確かな、そういうのを絆と呼ぶのだろう。
両親とのそれは千切れてしまって、けれどいつかきっと、その先に新しい糸が結ばれる。
1
その人は、ヤヨイを胸に抱き込もうとするかのようにそば近く、並べた椅子にゆったりと腰を下ろして机に頬杖をつき、線の細い中性的な美貌に気だるげな表情を浮かべている。
窓からの陽射しに透ける淡い金色の髪は、さらりと流れるたびに花のような香りをふりまいた。神秘的な青緑色の瞳は重たげな睫毛に縁取られ、白い頬は絹糸のごとき髪と相まってハレーションを起こす。やんわりとすぼめられた唇はつややかな桜色。
空気に溶け出してしまいそうな儚い印象なのに、彼のまとう鮮やかな黒が室内をぴんと張り詰めさせて。
「ねえ……ヤヨイ?」
楽園を渡る風に舞う妖精のような指先が、ヤヨイの切りそろえた前髪をそっともてあそんだ。
「初めて会ったときからずっと思ってたんだけど」
耳に吐息を吹きかけるような囁きにのる声は透きとおり、どんな言葉を紡いでも美しい歌へとかえて
しまうような気がした。
「その頭、本当にちゃんと中身が入ってるの?」
ど、どんな言葉を、紡いで、も……。
「何度同じ失敗をしたら気がすむのかな、綴りがちがうってば。字も汚いし、絵でも描いてるの? 絞め殺すよ?」
前言撤回。
張り詰めてるのはヤヨイの神経だし、いくら綺麗な話し声でも、罵り言葉は絶対に歌になんぞなりゃしない。
ジェイルはぷるぷると拳をふるわせるヤヨイの椅子の背に腕をかけ、耳たぶを人差し指で掬うようにして口を寄せる。
「ちょっとヤヨイ、聞いてるの? 耳までお馬鹿さんなの?」
「わかってますよ、いま真剣なんですから話しかけないで下さい!」
怒りにまかせてぐっと万年筆を握った瞬間、インクがドバっと噴き出して、机に広げた紙いっぱいに青い池が広がった。
「ああもうほらーッ! ジェイル殿下のせいですからね!!」
口では強気なことを言いつつも、恐ろしくて顔を上げることができない。
さっきから真横に陣取ってヤヨイの手元をじっと見ている王子様――まさにキラキラ王子様、性悪だけど!――は、きっと釣り上げたばかりのマグロも瞬間冷凍にできそうな眼でヤヨイを見ているにちがいないのだ。
「えー、僕のせいぃ? 君がドジでトンマで間抜けだからでしょー?」
平たい調子で幼稚な悪口を並べ立てた後、ジェイルは腕組みをしてふんと鼻で笑った。
(がまん……がまんよやよい。がまんってこういうときつかうことばだよ。しんとうめっきゃくすればひもまたすずしいよ)
精一杯怒りを抑えて自分に言い聞かせるが、問題は無心になれるほど修行を積んでいないというこの事実。
「あーあ、紙きれ一枚だってタダじゃないんだよねー。あ、一枚じゃないか、君がダメにしたのって。なになに、山羊の餌にでもするつもり? 肥らせて食べようって魂胆?」
これだけあれば豚より肥えるね、なんて天使のように清らかな笑顔で言われた日には、いかに雇われ人根性が本能まで染みついたヤヨイだってキレるのだ。
「だからうるさいんですよジェイル殿下ッ!! 朝っぱらから耳元でチクチクチクチク、雑巾縫ってんじゃないんですよ!! シントーメッキャクしそこなって焼死しそうですよ!!」
しかし両の拳を机に打ちつけて怒鳴っても、書類の山が崩れただけで天使の顔から笑みは消えたりしなかった。
「なぁにそれ、言ってることが意味不明だよ。アホの子みたいにわめいてないで少し冷静になったら? 無駄に元気が余ってるなら、陛下のところに書類持ってってよ」
それくらいしか能がないんだからさ、と言って、ジェイルは目を細める。それでもまだ慈悲深いお坊さんみたいに見えるのだから、これほどひどい話はない。詐欺だ。顔面詐欺だ。
ヤヨイは顎まで吸い込みそうなほど唇をかみしめ、咽喉の奥に力を込めてうなった。
「――ッ、――っ!!」
「ん? なに? 言いたいことは、しっかりはっきり。君いくつだっけ、六つくらい?」
と、耳に手をあてて聞き返す素振りの憎らしいことといったらない。
ヤヨイは先ほどの「アホの子みたい」な騒ぎが、ほんのちょいギレの産物だったことを知った。
『うるっさいって言ってんのがわかんないのかこの姑王子っ! 綺麗な顔してりゃあなに言っても許されると思ったら大間違いなんだから! あんたに赤い血は流れてない、絶対毒! フグ並の猛毒が詰まってんのよその頭ン中まで!! ふざけんじゃないっつーの、やってられるかっ! 大体ヤギに紙なんかやったら腸閉塞で死んじゃうわよ、って天然成分百パーセントならいいんだっけ!? とにかく、あんたなんかからビタ一文だって受け取らないからいますぐわたしを書記室に戻してよ! ガルム室長に会いたいわよ、あんたなんかいくら美人だって室長には絶対かなわないんだから、そこんとこ覚えておきなさいよッ!!』
背後で椅子がガターンと倒れた。
左手を腰にあて、右手をびしっとジェイルの鼻っ面に突きつけて、ヤヨイは言った。人生初の超怒声を発し、積もり積もった不満をついにぶちまけてやった。
日本語で。
見たかこれがブチギレだ! とばかりに、はーはーと肩で息をつきながら眦を吊り上げるヤヨイを、ジェイルはぽかんと見上げている。青緑色の目はまん丸、桜色の唇は半開き、上向いたせいで前髪が流れて額が丸出しになって、でもやっぱり綺麗だから腹が立つ。
ジェイルは夢から覚めたように瞬きし、突き出された指をそっと握った。
「ヤヨイ……」
戸惑ったように眉を下げ、悲しげに首を振る。
その心細そうな顔を見て、ヤヨイは我に返った。いくら相手が毒吐き王子でも、さすがに失礼だった。
だがもうやらかしたことは仕方がないし、どうせ日本語だからわかるはずもない。クビは覚悟せざるをえないが、仮にも王子に向かって言いたい放題言ったことはバレないだろう。
「ごめん……僕には理解できないよ」
案の定、ジェイルはか細い声でそう言った。
内心冷や汗ダクダクになりながらも、ほっと一安心したヤヨイは、だが次の瞬間凍りつく。
『君の男の趣味、最悪すぎて』
あ、チョウチョが飛んでる。
夢の世界に逃避しかけたヤヨイを、ジェイルは無理やり現実に引っ張り戻した。そこで彼が弟より上手なのは、凶悪な声音も視線の圧力も必要としないところ。
麗しの王子はただ黙って優雅に、つかまえたヤヨイの指先に舌を這わせた。
――あったかい。やわらかい。そして濡れてる。
「な――ななな、な、な」
「あれ、読み書きだけじゃなくてしゃべるほうもダメになっちゃった? 君ってほんと、ランドボルグ一書記室に向かない人材だね」
「に、にほにほ、にほほほ」
「あはは、おもしろい響き! どんなときの笑い方? あぁ、わかった。綺麗で美人でうるさい姑王子の毒に痺れてメロメロです――って、うっとりなときかな」
そしてジェイルは、にぃ、と猫のように目を細めて笑った。
「なん、なんで――」
ジェイルの真珠のような歯が、ヤヨイの爪をかり、とかんだ。それでもヤヨイは、呆然と見つめるばかりで動けなかった。
「愛すべき親父殿の『外』趣味が、他者の追随を許さない域だって知らない?」
「き、キヨシ――?」
混乱するあまり恐れ多くも国王陛下の御名を呼び捨てる。くはっと笑ったジェイルが、指先にキスをしてから手をはなした。
「そう、キヨシ。あの方は昔、アサヌマから『外』の言葉を習ってね。会話がしたくて、僕と兄上に習得を厳命されたんだよ。残念だったね、本人の前で堂々と悪口が言えなくて」
ああ神様、あなたの御使いは素晴らしく綺麗でそして笑顔が黒すぎます。あとアサヌマさん、嫌いになっていいですか。
「そ……そう……」
ヤヨイはもうなんだかぐったりと疲れきって、のろのろと脚を動かした。スースーする指先はなにも考えずにスカートで拭いた。
激昂した反動なのか、ヤヨイの中はからっぽだ。振りまくって栓を開けた炭酸飲料はおもしろいように噴き出すけれど、その分だけ中身は減っているのだ。
腹を立てると怒鳴りたくなり、怒鳴りつけるとやり返される。学習した。うん、収穫はあった。
足元に倒れている、ジェイルのものに比べて格段に粗末な椅子を起こして鼻をすする。
「……陛下のところに、行ってきます……」
うつむいたままぼそっと告げ、もう一度鼻をすすってから、滲む涙を拳でぬぐった。これが最後の仕事かもしれない、せめてきっちりやり遂げよう、王様に会うのもこれきりか。などと思ったら卒業式の日の朝のように悲しくなった。
ジェイルの執務室付に異動になって早三日。いや、まだ三日。いやいや、やっぱりもう三日。
性悪王子の繊細な唇からあふれる罵倒は留まるところを知らず、馬に書かせたほうがまだマシだと書類を突き返され、中途半端な敬語は耳障りだと口をふさがれ、「ヤヨイと書いてお馬鹿さんと読む」とまで言われ。書庫に戻りたいです、紙に書名を記す作業くらいしかできないんです、と訴えたら一瞥もくれず無視された。
それでも泣かずに耐えたのは、実際馬のほうが優秀な気がしたからだ。そしてパワハラも給料のうちだと割り切っていたからだ。でも、もう無理。どっちみちクビ。……本当に首を斬られたらどうしよう、とおなじみのひんやり感がうなじを襲う。
ヤヨイはジェイルの顔を見ないようにしながら、王様の部屋行きの書類を手にとった。そっと視線だけ巡らせて、窓辺で自己主張する赤いあンちくしょうを盗み見る。
せめて一度、あのふかふかそうな絨毯に寝そべってみたかった。そして部屋の主がそうするように、身体を丸めて惰眠を貪ってみたかった。
総重量を考えたら上を見ずには歩けないこの巨大な石造りの王宮の中で、あの絨毯だけがヤヨイを優しく受け止めてくれそうだったのに。そう、きっと畳と同じくらい。
――さようなら、ふかふか絨毯。さようなら、夢の床でゴロゴロ生活。
紙の束を抱えてとぼとぼと歩き出すヤヨイの背が、ぽんと軽く叩かれた。
鎖骨に顎を埋めるようにして顔を向けると、ジェイルが困ったように眉尻を下げている。目が合うとそのまま小さく微笑み、そっと伸ばした手でヤヨイの頬を――。
ぶにぃ、とつねった。
「そんな顔を人様に晒すつもり?」
ぷっと嘲笑ったジェイルのおかげで、消滅しかけた闘争本能に火がついた。
「はいはいはいはい、そんな顔ですーいーまーせーんーッ! 生憎と本日は殿下みたいな麗しの顔を切らしておりまして!!」
「あはは、まるで普段は在庫があるみたいな言い方だね」
ヤヨイは手の中の紙を思い切り床に叩きつけた。ヤヨイの頭に、学習機能はついていなかった。
「もうやだッ!! もーぉイヤだ!! これが給料のうちなら安すぎる! 言いたいことがあるならはっきり言ってよ、姑王子! ネチネチネチネチ水飴練ってんじゃないんだか――」
「ここ」
「へ?」
目の前が赤くなるほど興奮するあまり、平然と遮られたヤヨイは間の抜けた声を上げた。ジェイルは涼しい顔で自分の下瞼を指差している。
「目のとこ。インクがべったりついてるよ?」
「あ、さっき手でこすったから」
と、すっかり毒気を抜かれて握り拳に目を落としかけ、ヤヨイは気絶しそうになった。
――もしかしてそんな顔って。
「あ、あら……?」
おそるおそる、上目でジェイルを見やる。弟王子よりわずかに背の低いジェイルだが、それでもそうして見上げるのはたいへんだった。
ヤヨイの怯えと気まずさを察したように、ジェイルはくすっと笑う。ヤヨイが初めて見る、子どもに向けるようななんの裏もない笑みだった。
「目、閉じて?」
片方だけ閉じていられるほど顔面を鍛えていないヤヨイは、戸惑いつつもおとなしく両目を閉じた。
かすかな衣擦れが聞こえ、やわらかな布が右の下瞼にあてられる。ジェイルの髪と同じ香りがした。
ふっ、と吐息が頬をかすめて、心臓がとんと跳ねた。見えないけれどすぐそばに、妖精みたいに綺麗な顔がある。この三日で慣れたはずなのに、距離感がつかめないだけでひどく緊張した。
こうして感じてみると、触れる指先は少し硬くてかさついている。
グレイヴとはちがう女性的な顔立ちで、でもやはり男の人なのだ。ジェイルは最初から意地悪で嫌味な奴だったから意識したことすらなかった。急にニキビの後が気になり始めて仕方ない。
目の下を少し強くこすられて顔を動かすと、大きな手が首筋をつかむように添えられた。
「こら、動いちゃダメでしょ」
甘く咎める声とともに、さらりとした髪が耳に落ちかかる。きゅっと心臓をつねられたように息苦しくなり、背中がぞくぞくした。顔が熱くて咽喉の奥がかゆくなったような気がする。みっともなくふるえるのを気づかれたくなくて、ぎゅっと唇に力を入れた。
「あれ――」
不意にジェイルが不審げな声を上げ、ヤヨイはあわてて目を開けた。
覆いかぶさるように覗き込む顔が、想像以上の近距離にあってぎょっとする。それから彼が浮かべる真剣な表情に息を飲んだ。ヤヨイの目元を見つめる眼差しはレントゲンに影を見つけたお医者さんのように深刻で、ヤヨイは急に不安になった。
が。
「これインクかと思ったら隈だった。ちょっと、寝不足はお肌の敵って知らないの? それとも気にしないほどおばさんなの?」
ヤヨイは偉業を成し遂げた。天使の顎にグーパンチ。
そして気づいたら部屋を飛び出していた。
(辞めてやる、ええ辞めてやりますとも! 王様のところに書類を運んで、ハイサヨウナラ、だっ!!)
本物の首が飛ぶ可能性はきれいに忘れて、ヤヨイは頭から湯気を噴いた。
あの作り物めいた顔面を形成するためのDNAは、AGTCじゃなくてAKUMAで構成されてるにちがいない! 疲れる。本当に疲れる。おばあちゃんにドライフルーツたっぷりのケーキを焼いてもらおう、それに蜂蜜をかけて丸かじりだ!
と豪快に大口を開けるところまで想像して、気持ち悪くなった。……やっぱりプリンにしてもらおう。甘さ控えめで。
プリンといえば――舌の上によみがえった味に、沸騰した頭が瞬時に冷える。
昨日のおやつは美味しかった。書庫から異動になって唯一よかったことが、あのプリンを食べられたことだ。正直、ここであんなに美味しいプリンが食べられるとは思っていなかった。つるっとなめらかでほんのり甘くて、謎のハーブのにおいがする。
また食べたいな、厨房の人に聞けば作り方を教えてくれるだろうか。と場所もわからない厨房の様子を思い浮かべる。作るのはもちろんおばあちゃんだけど、お願いすれば大丈夫。多分。
もうすっかり絶品プリンを食べる気になって浮かれていると、廊下の先に見知った姿を発見してドキっとする。
紺色の膝丈の上着。腰に下げた剣。グレイヴだ。観音開きのドアの前で、小さな窓から外を見ている。
どうやら脚は王様の部屋までの道のりを覚えていたらしい。一日に百回も往復させられるのだから、当然か。
少し端正な立ち姿を見ていたくて、歩く速度を緩めて足音を忍ばせた。
もう二度と会いたくない、とも思うし、こうして顔を見るとドキドキして落ち着かないのに、決して嫌な気分ではないから不思議だ。ジェイルの毒が脳みそまで回っているのかもしれない。
さっきまで拝んでいたのと正反対、シャープで凛々しい横顔。グレイヴは背中で手を組んで、背筋を伸ばして立っている。中に入れるのは王様の近衛だけだから、ロアード王子が出てくるまではずっとそうしているのだろう。
番犬だ。犬っぽいとは思ったけれど、本物だ。
ぷっと笑ったら、こちらを向いた。さっきより強く、ドキっとした。
「ヤヨイ」
目を細めてはにかんだ笑みを浮かべるグレイヴの声は明るい。場所が場所なので音量は抑えめだが、ヤヨイの元までちゃんと聞こえた。
オセロの駒みたいに白と黒を行ったり来たりする姑にいびり倒され、ボロボロになったヤヨイは、普通の笑顔にほっとして彼に駆け寄った。
「おはようございます、王子。王様――じゃなかった、陛下に配達です」
するとグレイヴはヤヨイの手元に目を向け、それから眉を上げて首をかしげた。
そのときようやく、ヤヨイは書類を床に叩きつけたことを思い出した。