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(濃い一日だ……いま何時だろう)
おなかもいっぱいだし、規則正しい生活をしているヤヨイは軽い眠気を感じていた。午後九時を回ったくらいだろうか。日の入りとともに一日を終えるこの国では、すでに深夜といってよい時間帯だ。
傍目には非常に奇妙な光景だろう、と鈍い痛みを訴える頭で思った。
ヤヨイも王子も椅子の背もたれを左にして、「進行方向はあちら!」とばかりに前後になって座っている。王子は妙にびしっと背筋を伸ばしているし、ヤヨイは逆に完全な猫背だ。
いささかならず乱暴な手つきでチョコレートブラウンの髪を梳いていると、幾筋かが指の股にくんと引っかかった。小さく声が上がったのを聞き、肩越しに顔を覗き込んで、
「すみません、痛かったですか?」
と尋ねてみるも、痛いに決まってるのに王子は無言で首を振った。
いつまでも食堂に陣取っていたのでは使用人が帰れない、と王子は自分の部屋へヤヨイを招こうとしてくれたのだが、まったくもって申し訳ないが居残っていただきます、と言い張った。ガルム室長の言いつけは、既にヤヨイの中で絶対だ。
帰れない使用人はここにもいるぞと声を大にして主張したいところではあるものの、せっかく改善された関係に配慮した。
王子は直接の保護者ではなくとも、そこに連なる人の機嫌を損ねるのは得策ではない。いまヤヨイの生活基盤を支えているのは、日本国憲法に保障された権利ではないし、ヤヨイのために闘ってくれる弁護士も人権委員会も存在しないのである。
しかし夜更けの書庫。見ようによってはムーディな部屋の中で、年頃の男女が二人きり。多少の警戒心を持って臨むのは乙女の常識であって、決して王子様を軽んじているわけではない。
なによりあらためて髪に触れるという行為が親密なものに思えてきて、どうにもヤヨイを気まずくさせた。
だからあえてそういうことは考えないようにしているのに、時折こちらを振り向く王子の視線が、いまワタシタチは妙な関係になりつつあるのですヨと言っているようで落ち着かない。
黙っているとそれこそ妙な空気が充満しそうで、ヤヨイはわざと素っ気ない言葉を吐いた。
「動かないで下さい、せっかく梳いたのにまたからんじゃうじゃないですか」
「あ、ああ……すまない」
戸惑う返事になぜか激しく動揺し、しかし平静を装って長い髪に手を入れる。今日もつるつるとした手触りは健在で、「シャンプーはなにを使ってますか」とベタなことを聞きたくなった。
「……髪、綺麗ですね」
かわりにあたりさわりのない感想など述べる。少しうつむいていた王子が大きく振り返ろうとするので、いつぞやのように頬をはさんで前を向かせた。
「……焦げた木材みたいだろ」
ヤヨイは思わずぶはっと噴き出した。すごい表現だ、チョコレート色よりよほどいい。
「おまえが笑うのも無理はない。王家の直系男子の髪はみんな金色だ」
すねた声音に、ヤヨイは自分の推察が的外れではなかったと確信を強めた。
容姿のコンプレックスというのはおそろしい。これだけのイケメンに女嫌いを偽装させるのだから。ここは一発、多少のフォローをしてやるに吝かでない。
どうしたものかとしばし考え、ヤヨイは三つ編を結いながらぼそぼそと言った。
「わたしのいたところではみんな、わざわざこういう色に染めてました。いいじゃないですか、金髪は老けて見えるしこのほうが天使の輪が映えますよ。天然とは思えないほどストレートだし、つやつやツルツルのキューティクルばっちりで」
言いながら惨めになってきた。さすがに慰めてほしいのは自分のほうじゃないかと思う。嫌いだって言うのなら、なんでこんなに長く伸ばしているのだろう。
ヤヨイのフォローをどう受け取ったのか――もしかしたら単語の数々が理解不能だったかもしれないけれど――、王子は黙り込んでいた。やがて毛先まで編んだヤヨイが、そういえばリボンは、と尋ねようとしたとき、小さな問いを向けられる。
「……おまえは、この髪が好きか」
その響きは一般論を求めてはいなかった。
三つ編がほどけないように毛先を握り、
「好きか嫌いかなら、好きです」
そう答えた。もし自分が染めるなら茶色だ、金髪は日本人に合わないから、という根拠に基づいて。
「そうか」
つぶやく語尾が笑っていた。喜んでいる。
多少なりとも人の役に立ったならよかった。
ヤヨイもほんのり胸があったまる心地を味わいながら、ところでリボンを、と口を開きかけたとき、消え入りそうな声で王子が問うてきた。
「ガルムよりも……?」
瞬間、手の中の髪をぎゅーっと引っ張ってしまった。
「いたたたっ!」
悲鳴を上げる王子は腕を前に伸ばしてバランスをとろうとしていたが、急に身体の力を抜いてそのまま仰向けにヤヨイの膝に倒れこんできた。思いがけない重みにまた驚いて、ヤヨイは手を放した。掌に汗が滲んだ。
「おまえなぁ……」
じとっと睨むように眇められた目は、だがどこか切なげで。
「だ、だって」
滅茶苦茶に跳ねる心臓の音はうるさかったが、ヤヨイは下からまっすぐに向けられる視線に気圧されて沈黙した。人生初の膝枕にうろたえる気持ちも消え去った。
人の目を見る癖があるのは、自分だけじゃない。
とくん、と鳴ったのを最後に、心臓は暴れるのをやめた。
蝋燭の火でオレンジ色に深みを増した紺色が、水面のように揺れている。ヤヨイは無意識のまま、操られたように乱れた前髪がかかる額に触れた。縛めを失ったチョコレート色の髪はぱらりとほどけ、重力に導かれて座面の縁から力なく垂れ下がった。
見つめ合っても互いに硬直していたこれまでと、なにがちがうのだろう。
ヤヨイは陽に焼けた顔の輪郭をたどるように、そっと指をすべらせた。王子の目は強い意思を持って、けれどなにも語らずになにかを訴えている。
人差し指に指輪をはめた王子の手が、ヤヨイの手をつかまえる。
ゴツゴツした大きな手に隠されて、自分の手が子どものように小さく見えた。
掌に頬ずりして愛おしげに唇を寄せられ、吐息の熱さとやわらかな感触に爪の先からささやかな痺れが広がった。
王子は目を閉じ、掌に口づけたまま、ヤヨイ、と音もなくつぶやいた。
息をするのも忘れて見入っていると、羽扇子みたいな睫毛がふるえて、深い黒に染まった紺色の瞳が、ヤヨイを、つかまえようと――。
「帰ります」
前触れもなく腰を浮かせたヤヨイの膝から、三郎王子の頭が落ちた。
「わっ!」
「あ、ごめんなさいっ!」
謝ったときにはもう、ヤヨイは部屋の真ん中まで走っていた。身体を起こした王子の顔を見ず、あたふたと頭を下げる。
「今日はごちそうさまでした、ではごきげんよう!」
「ちょ、ちょっと待て! 急にどう――家まで送るから!」
追いすがる声を背中で受けて、飛びついたドアを開けながら首を振った。
「けっこうです、走って帰ります、来ないで下さいぃ!」
「ヤヨ――」
思い切り開けたドアを力いっぱい閉め、廊下を全力で駆け出した。ランタンを持って壁に寄りかかっていた給仕の少年が、目と口をまん丸にしていた。
(なんか、まずかった気がするっていまの……っ!!)
頭の中でわあわあ騒ぐ自分をどうにかなだめすかして、闇雲に走り回った挙句警備隊に捕まって職務質問をされてから、ヤヨイはようやく通用門から外へ出た。
ほてった顔は夜風に晒してもまだ熱く、掌に残った感触を思い出すたび叫びたくなって、近所迷惑だから叫ぶかわりに下り坂を全力疾走した。
街灯もなく静まり返った暗い道を爆走する自分の足音はどこか遠く、ずっとずっと後ろから追いかけてくるようだった。
この人はなにがしたいのだろう、意味わからん、ヘンな人。と思ってた。
オージェルム人のスキンシップは過剰でついていかれん、とも思ってた。
もっと近づいたこともある。広い胸のあたたかさや、ほのかな香水の香りも知ってる。
でもあのとき――空気、が。
「――はああぁぁぁぁっ!!」
こらえきれずについに叫ぶと、近くで犬がギャンギャン吠えた。
頭の中で目を閉じた王子の姿がチラチラする。本棚に揺れるオレンジ色の光、縁のぼやけた影。忘れられる気がしなかった。だってそこは、よりにもよって自分の職場で。
――ああもうどうしよう、平気な顔して仕事なんかできない!!
ヤヨイは自分が世界一小心者に思えて自己嫌悪に陥ったが、そんな心配はする必要がなかった。
翌朝寝不足のまま出勤したヤヨイにガルム室長が差し出したのは、ジェイル王子付の雑用係を申し付ける、と記された異動命令書だった。