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他人と関わるのは面倒くさい。
話を合わせるところから始める必要があるのに、情報収集の手段はない。宿題への不満と先生の悪口だけでは、真の友情は築けない。顔色をうかがってまでトモダチになっていただきたいとも思わない。
朝起きてから夜眠るまで、自分が貧しい家の子だと感じながら生きていた。同情も侮蔑も受け流せるほど人間ができていなかったので、様々な感情を持て余して疲れてしまった。一人でいるのが楽だった。
必死で働く両親の所得は決して低くなかったはずだが、家賃や学費などの必要経費を除き、ギリギリまで借金の返済に回していた。自己破産すればいいのに、と言ったら、悲しそうな顔をさせてしまった。
アルバイトの給料は好きにしなさい、とお母さんは言うけれど、だからって好きにできるほど神経が図太いわけもなく。家計に入れると言い張って、申し訳なさそうな顔をさせてしまった。
学校だけでなく家にいてさえ、人と関わることが億劫になってしまっていた。
だからどうしたかというとつまり、事なかれ主義を貫いてきたヤヨイの人生において、これほど傍若無人に振る舞われた経験はかつてないということだ。
書庫以外では絶対会えない、という訴えだけは聞き入れてくれた。だからって、書庫でなら食事をともにする、と言ったわけではなかったはずだ。終業の鐘を待ちかねたように雪崩れ込んで来た三郎王子の使用人たちには度肝を抜かれた。
この人はなにがしたいのだろう。
ヤヨイはとっくに食事を終え、悠然とグラスを傾ける人を半目で睨んだ。数個の蝋燭が放つ明かりの中、うっそりと聳え立つ書棚を背負っているあたり、ものすごい違和感だ。
ヤヨイをかばってひっくり返ったり、チョコレートを食べさせたり、よくわからないタイミングで勝手に触れてきたりはしたけれど、これといって中身のある話をしたわけではない。ただ怖い顔で睨み、時折会話ともいえない言葉を投げてくるだけだ。
なんの目的があって、ヤヨイの前に現れるのだろうか。意味がわからない。
将来に備えて女嫌いを克服したいというのなら、その姿勢からまず改めるべきだ。いい線いってはいるとは思う、泣いてる女の子を慰めてみたりしたわけだし。
ただ、そこで上がった好感度をゼロにしてさらにマイナスするほど、勝手なだけで。
こうして強引に夕食に誘ったくせに、場を盛り上げようという素振りもない。
電話がほしい。しかも携帯電話が。持ったことはないけれど。
王子が不可解なことをするたびに、ヒロにかけて問いただすのだ。これはこちらの常識ですか、と。……ヒロは大学でなにを学んでいたのだろう、もしかして電話くらいちゃちゃっと作れたりしないだろうか。無理か。
しんと静まり返った室内に、場違いなほど繊細な装飾の銀器と皿が触れ合う音だけが響く。侍女や給仕は追い出され、ヤヨイがこぼしたため息が、やけに大きく聞こえた。
「……憂鬱そうだな」
テーブルの向こうから指摘されても、もう否定する気にもならない。ただ黙々と手を動かし、調理されて美しく盛りつけられたなにかの肉を切り刻む。
「こちらの食事は口に合わないか」
抑揚のない問いには、小さく首を振って答えた。
ヒロと一緒に仕事をしているジェナは、共働きのお母さんのようなスケジュールで一日を過ごした。必然的に腕をふるうのは夕食で、時間のかかる煮込みなどはあまり出されなかったけれど、そのかわり炒め物やサラダのレパートリーは多かった。
逆に近所のおばあちゃんたちとおしゃべりをする以外に仕事のないロマおばあちゃんは、調理用ストーブにお鍋をかけない日がない。野菜や肉を煮込まない日は、作り置きするためのソースを煮詰めていた。
醤油が恋しい。でもそれだけだ、食事で困ったことはない。食べられるだけで幸せだ。
ヤヨイは皿の上の肉をすべて一口大以下に刻んだ後、つけあわせの野菜にナイフを入れた。賽の目になっていくニンジンに、なんとなく給食のミックスベジタブルを思い出した。
「……『外』の人間は、こういうとき礼儀正しく愛想よく振る舞うものだと思っていた」
偏見だ。きっと心細くて萎縮する自分を奮い立たせて、精一杯その場を乗り越えようとしただけだ。
肉もニンジンも原形を失ってしまうと、ヤヨイはナイフを皿の隅に置いた。のろのろとフォークを右手で持ち直し、肉を一かけら刺して口に運ぶ。きっとマナー違反だろうが、知ったことかという気分だった。
食欲などほとんどなくても、食べ終われば帰れると自分を励まして機械的に料理を片づけた。二種類のワインと三種類のジュースには、まったく手をつけなかった。
最後のニンジンサイコロを口に入れたとき、ちょうど給仕が食事の進行具合をうかがいに来た。十代半ばと思しき少年は、二人の皿が空になっているのを見て引っ込み、すぐにデザートを持って戻ってきた。
ヤヨイの前にだけ置かれた皿の上には、カットされた果物と大人の拳大のババロア。勘弁してくれ、と内心号泣したいところを飲み込んで、やたらと大きなデザートスプーンを取り上げる。
だがこれで終わりだ、拷問のようなひと時から解放されるのだ、と思ってもなかなかスプーンが進まなかった。
――もう食べられない、と言って席を立とうか。
食べ物を無駄にしたことのないヤヨイがそこまで思い詰めたとき、コトリと音をたてて王子のグラスがテーブルに置かれた。
「……ヤヨイ」
それはどこか戸惑いと、気遣いを含んだ声音だった。
「なにが不満だ。家には使いを出したし、『外』の人間が好みそうなものを用意した。あとどうすれば、そんな顔をさせずにすむんだ」
脈拍ゼロの心電図のようだった感情が、一気に跳ね上がった。
思わず顔を上げて王子を見つめると、彼はテーブルに身を乗り出し、困惑した面持ちでヤヨイを見ていた。
本気だ。本気でわかってない。
「……わたし、あなたを知りません」
訝しげに眉を寄せる王子は、だが口を挟まずヤヨイの話を聞こうとしていた。
「ヒロに紹介されたから、王子だってことはわかります。ガルム室長から近衛の偉い人だってことも聞きました。でも、それだけです」
「…………」
「あなたはわたしを知ってるかもしれない。『外』の人間は珍しいから。そしてあなたもこの国では有名人かもしれない。でも、わたしたちの間にはなにもない」
顔と名前を了解している、それだけの関係では抱き合ったり食事をともにしたり、そういうことをしてはいけないとヤヨイの常識は訴える。
もし友人の少ないヤヨイに手を差し伸べているつもりなら、もう少しだけゆっくり、歩調を合わせてほしかった。
彼が女嫌いを克服したいように、ヤヨイだって人づきあいが上手になりたいのだ。
ヤヨイは王子の瞳に理解の光が宿るのを待った。耳が痛いほどの静寂の中、朝と同じように見つめあう。だが今回は、ヤヨイの緊張が王子に伝染していた。
ほどなく、王子はほっと息をついて身を引いた。
「なるほど……」
場を取り繕うようにワイングラスを取り上げた指は、かすかにふるえている。それを見た途端、後悔の念が湧き上がった。
ヤヨイたち『外』の人を庇護してくれるのは国王だが、彼はその息子だ。絶対に害してはならないという法律があるわけでなし、不敬罪はヤヨイたちにも無論のこと適用される。
首筋がひやりと冷えた。前にも味わった感覚。いまにも刃物を持ち出されるのではという恐怖が、遅ればせながらつま先から這い上がった。
カタン、という音に、ヤヨイはびくっと肩を揺らした。立ち上がった王子の影が背後の壁に映り、青ざめる。
だがテーブルを回り込み、ヤヨイの傍らに立った王子は、おもむろに片膝をついてかがんだ。
「俺の名はグレイヴ・サブロウ・オージェルム。二十歳、騎士団に属しロアード・タロウ王子の近衛騎士隊を率いている」
ヤヨイはその姿にあっけにとられた。理不尽な命令を突きつけるばかりだった傲慢な空気はそこになく、ただ真摯な瞳がまっすぐにヤヨイを見つめている。
「俺はおまえのことを知りたいし、おまえにも俺のことを知ってほしい」
返答を促すように首をかしげた王子の肩から、チョコレートブラウンの長い髪が一房落ち、そのとき初めて彼が髪を結っていないことに気がついた。
「あ……あの、佐々木弥生、です……。あ、ヤヨイ、です。十七歳で、書記室に所属してます。『外』から来ました。……あんまり甘いものが、得意じゃありません。あと、ほんとは普通の騎士と近衛騎士のちがいが、よくわかってません」
くす、と、王子が笑った。屈託のない、子どものような笑顔。
さらりと髪を流して立ち上がった王子は、てれたように顔をそむけた。
「俺に膝をつかせた人間は、両陛下と兄上をおいて他にない。光栄に思えよ」
「そんな、勝手にやったくせに――すみません、ありがとうございます光栄です」
一転高圧的な視線を向けた王子は、すっかり元の調子を取り戻しているように見えた。
ただそこに安堵と親近感を滲ませているように感じるのは、ヤヨイの希望的観測だろうか。
肩の力を抜いてババロアに向き直ると、おいしそうに見えてくるから現金だと自分でもおかしくなる。スプーンを持つヤヨイの横で、王子はテーブルに腰かけて身体をひねり、自分の席からワイングラスを引き寄せた。
(そこで飲むのね……)
口元を引きつらせるヤヨイの目線で、意外と傷みのない毛先がチラチラと揺れる。スプーンに掬い取ったババロアを口に運びながら、なんとなく髪を指でつまんだ。
「今日は、しばってないんですね」
すると王子は大袈裟なほど驚き、素っ頓狂な声を上げ、
「えっ!? あ、そ――」
絶句した。
蝋燭の灯りにも見る見るうちに顔が赤らむのがわかる。王子はヤヨイを見下ろしたまま拳を口にあて、ヤヨイはスプーンをくわえたまま一緒に固まってしまう。
(またこの展開か――)
さすがに冷静に受け止めながら、ヤヨイはこうして見つめ合ってしまう原因を分析した。
ヤヨイが日本人のくせに人の目をじっと見る癖があるのも問題か。そして三郎王子がテンパりやすい人であるという不幸な偶然が重なって、結果微妙なことになってしまうのだ。
相性が悪いのだろう。
焦点をはずしてぼんやりと紺色の瞳を見ていたヤヨイは、すでに長期戦の構えだ。が、今回王子は立ち直るのが早かった。免疫がついたのだろうか。
ぎこちなく視線をはずし、こほんと咳払いを一つして、
「ま、また結いたいならそうしてもいい」
などと嘯く頬は緩んでいる。
「はぁ……」
ヤヨイはつまんでいた髪を指先でくるりとよじり、ぱっとはなした。
「べつにいいです」
「は?」
意味がわからないといった風に聞き返す王子を、ヤヨイはもはや視界に入れてはいなかった。
「それだけバラけてたら櫛がないと束ねられないし、三つ編は嫌いみたいだから」
「い、いや嫌いなわけじゃ――そう、身体を動かすにはちょうどよかった、邪魔じゃなくて。だから」
「これから訓練でもあるんですか?」
果物を咀嚼しながら、王子の手にあるグラスを見やった。普段どれだけ飲むのか知らないが、晩酌の後でもサボらないなんて剛毅なことだ。あえて心臓に負荷をかける訓練か。
ヤヨイが見ているものに気づいた王子は、ヤヨイの顔とそれを交互に見やり――うなだれた。
「……髪を、結ってくれ」
「へ?」
デザートを食べ終えたヤヨイは、ナフキンで口をぬぐったところだった。
「櫛もないし訓練もしないが髪を結ってくれ!」
テーブルから飛び降りて叫んだ王子は、なぜかワインのグラスをヤヨイに突き出していた。