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石畳で舗装された王宮までの道のりはアップダウンの連続だ。
朝食でぱんぱんに張ったおなかをこなすにはちょうどいい。ヤヨイはお散歩の定番を口ずさみながら、お弁当のバスケットを振って歩いた。この坂道は二十分ほどで終わりを告げる。
王宮の正面にある大きな門の前には、門番が立っていた。ヤヨイはおばあちゃんが持たせてくれたクッキーの包みを、門番のおにいさんに差し出した。
「ご苦労様です。今日のはお酒が入ってるから、勤務中に食べちゃダメよっておばあちゃんが」
長い槍を脇に抱え、革鎧を着たプロレスラーみたいな体格のおにいさんはニカっと笑った。
「ありがとう、ヤヨイ。ロマばあさんによろしく」
イゼじいさまが警備隊に勤めていた頃から、おばあちゃんは門番に差し入れをしていたそうだ。
その日のシフトは当日の朝にならないとわからない。でも毎日持っていけばおじいちゃんに食べてもらえることもあるでしょ? おばあちゃんが微笑む横で鼻を鳴らしたおじいちゃんの様子からして、結婚前、へたすると交際前からの習慣だったのかもしれない。
健気で気が長くて、すごく可愛い。
ヤヨイは足取りも軽く、通用口へと向かった。
警備隊の詰所に顔を出すと、顔見知りになった兵隊さんたちが笑顔で迎えてくれた。ヤヨイの立場は普通の使用人や勤め人とちがうので、朝晩必ずここに立ち寄るようにといわれているのだ。危害を加えられていないか、などの確認だろう。
「おはよーございます! では仕事に行ってきます」
額に立てた掌をあてて敬礼をすると、何人かがおもしろがってそれを真似した。王宮にいる兵隊さんは、右手を左肩にあてて敬礼をする。ヤヨイの敬礼だってどこの国のどんな軍隊のものかわからない適当さだが、親近感のようなものを覚えるらしい。
薄暗い石壁の廊下を歩くと、ブーツの踵がゴツゴツと音を立てた。
ヤヨイのイメージでは、お城といえば王様が暮らしているところだった。しかしここはちょっとちがう。町をぐるりと囲んだ城壁の中を全部指して城、と呼ぶのだ。だからルーヴェンに「自分は城内育ちだ」とあっさり言われたときは、猛烈な違和感を感じた。
ヤヨイが思うお城にあたるのが王宮と呼ばれる建物。無骨な石造りで、銀色の鎧兜を身につけた騎士が剣を振り回して出てきそう。一番高い部分で八階相当になるらしい。いくつかの建物があって、渡り廊下でつながっている。全体を見渡すと怖ろしい広さだ。
ものすごく大ざっぱにいって、コの字を四十五度回転させたような形か。
正門前の建物が一番大きく、ヤヨイの勤務先である書記室は、西の小さめな建物の二階にある。書庫はそのはじっこだ。
書記室には、原則関係者以外立入禁止になっている。
王宮に届いた手紙の内容を検めたり、お役人が王様たちに提出する書類の清書などもするし、王宮見取り図のコピーを保管してもいるからだそうな。とにかく機密文書を扱う部署、と考えて間違いないだろう。
なのでヤヨイは、いつも入り口で挨拶をしたらさっさと書庫へこもることにしている。部屋に入っても怒られはしないだろうが、ここでも正社員とバイトの間に横たわる溝のようなものを感じていた。
ところが今朝は、挨拶をする間もなく室長に呼びとめられた。
「少しいいか」
親指で廊下の先を示され、そんな粗野な仕草にもヤヨイはときめきを隠せない。
その広い胸に飛び込んでしまいたい、という欲求は自分でもうろたえるほど強烈で。書記官たちがこちらをうかがっていることには気づいていたが、もうあきらめた。
あの食堂の一件からこちら、こういう視線にさらされ続けて耐性がついたのかもしれない。
ヤヨイが任された書庫は、書記室から百メートルほど離れている。そこまで行って足を止めた室長は、おもむろに振り返って高みからヤヨイを見下ろした。
「ルーヴェンに聞いたが、書庫でグレイヴ殿下に会っているのか」
脳髄に染みこむ低音の、だが縁起の悪い名前にはっと息を飲んだ。
会ったもなにも。
張り切って出勤した初日の朝っぱらに見舞われた不運は、忘れたくても忘れられない。
(そういえばあの王子、どさくさにまぎれてセクハラを)
無断で人を抱きしめて、あまつさえ頭に頬ずりなぞしおった。思い返せば初対面、湖の畔でも同じような真似をされた気がする。
「ヤヨイ?」
返事を促す問いかけに、王子の首を絞める妄想を打ち切る。
「いやあの、会っているというのは語弊があるというか、勝手に来たというか……」
決して示し合わせてのことではない、と主張すると、室長は舌打ちした。
「あのガキ……色気づきやがって、案外手の早い」
聞き違いかと思って室長を見上げるが、不穏当な発言に関してはなんの説明も釈明もない。
「あのでも、別に表立って騒ぐほどなにかされたわけでも……」
自分が責められているような気分になって、ヤヨイはなんとなく言い訳を試みた。しかしヤヨイに向き直ったガルム室長は、厳しい眼でその試みをあっさり無視した。
「ヒロから聞いているだろう、近衛の奴らに近づいてはいけないと」
「あの、はい……。色々な事情を自分できちんと理解できるまでは、接触をもたないようにって」
それはなにも、近衛騎士だけに限った話ではなかった。極論すれば警備隊の面々と書記室の係官以外、口を利くなという忠告だった。
『外』の人間がなぜ優遇され、あるいは疎まれるのか。本当のところはまだよくわからない。騎士でないルーヴェンが堂々と『外』を好きだと言わない、そのわけも。ただ色々と複雑なのだろうし、説明されてもきっと頭も心も追いつかないと思うのだ。
だからヒロの言いつけはちゃんと守っている。……はず。
ヤヨイは怪訝な面持ちで、文官とは思えないほどたくましい腕を組み、目を眇めて自分を見下ろす室長を見つめた。鼻血が出そうになってすぐにそらしたが。
そらした視線の先――廊下をはさんで書庫と反対側の窓を見やると、内庭の木立の合間に背の低い建物が見えた。オレンジ色の瓦を載せた屋根。そのあたりに運動場でもあるらしく、時々風に乗って大勢の野太いかけ声が聞こえてくることがある。ギィンというかゴィーンというか、ガチーンというか、そういう耳慣れない物音も。
運動会で見せ場を作るほどではないが、身体を動かすことは好きだ。スポーツ観戦も。覗きに行きたいとは思うものの、なかなかそうする機会もない。
室長はまだ同じ姿勢でヤヨイを見ている。なにか考えごとでもしているのかも。王子にそうされるのは息が詰まるが、ガルム室長なら許せてしまう。胸がドキドキして落ち着かないけれど、決して嫌ではなかった。
ふとオレンジ色の屋根の下から、団体さんが歩み出てくるのが見えた。
紺色の上着と白いズボン。揃いの制服に身を包み、三々五々散っていく。
――あの上着、見覚えがありはしまいか。
「……もしかして近衛騎士の上着は紺色ですか? ボタンが銀色で、少し大振りで……」
おそるおそる尋ねれば、果たして室長は小さくうなずいた。
「通用口から警備隊の詰所を通って来ると、奴らに出くわすことはない。ここに奴らが現れることもない。……原則としてな」
だがヤヨイは、もしかしたら例外を知っている。
「――まさか、王子って」
不吉な予感にふるえながらつぶやくと、ガルム室長は片眉を上げ、首をわずかに傾けた。
「グレイヴ殿下は王太子殿下の近衛隊長の任に就いている。そして奴らの活動拠点は、すぐそこだ」
おとなしく警護されてりゃいいものを、と小声で吐き捨て、室長は顎を上げた。
「あの書庫をおまえの私室がわりにしていい。一度味を占めたからには、今後は頻繁に殿下が訪ねてくることになるからな。ただし、他の場所で会うことは許さない」
ヤヨイにとってそれは、死刑宣告にも等しい言葉だった。
それだけ告げると、ガルム室長は書記室へと戻って行った。
「うっそ……」
どうしよう、ヒロに怒られる! と青ざめた瞬間、ヒロが王子の所属を知らないはずがないことに思い至る。そして王族は大体が『外』趣味だ、最も近場のヤヨイに接触を持っても不思議はない。
なにより室長は王子と会うことを認めた。――でも、近衛騎士に接触することにいい顔はしなかった。
「……?」
軽いパニックに陥る。背後で外階段へ通じる扉が開いたことにも気づかなかった。
不意に立ち尽くす肩を叩かれて、ヤヨイは「ひぃ!!」と悲鳴を上げた。