1
日向を一人で歩いていると、崖の上に置いてきたiPodを思い出す。
レモンのような黄色で、透明なプラチスックのカバーとピンク色のイヤホンがついていた。アルバイト先で仲良くなった女子大生がくれた。イヤホンを挿すところの接触が悪くなったから買い換える、そう言って。
それが嘘だったことを、ヤヨイは知っている。
どこも不調なんかなかったし、日本のポップスから洋楽まで、百を超える楽曲が入ったままだった。プラスチックのカバーもケアベアのイヤホンも、あると便利だからと差し出した、コンセントで充電できるアダプターも新品だった。
なんの脈絡もなく「だいじょぶ?」と声をひそめて尋ねてきた同級生がいた。エクステでバサバサにした睫毛をパチパチさせて、グロスでつやつやの唇をすぼめて。
なんのことだかわからずにきょとんとするヤヨイを見て、彼女はばつが悪そうに目をそらす。そしてちょっとだけためらってから、ポケットに隠していたビール券を取り出して、スカートの陰でヤヨイの手に押しつけた。
冷蔵庫に貼ってあったの、長いことそのままだったからさ、使用期限きれても仕方ないしさ、多分ママ忘れちゃってるんだよね。
驚きのあまり黙っているヤヨイに、彼女はごめんね、と囁いてそそくさと離れて行った。屈辱は感じなかった。
ただ理由のわからない涙が、ほんの少し目尻に滲んだ。
1.
ヤヨイの下宿先は、王宮の門から歩いて二十分ほどの住宅街にある。
坂道の途中にあって、間口の狭い二階建ての家がぎっしり立ち並んでいる一画。道からすぐ玄関で、庭には勝手口から出るようになっている。横幅はないが奥行きのある家だ。
自分の実家を提供してくれた研究所の学者は、ゼロンという四十代のおじさん。無精ひげがトレードマークで、いつも眠そうな顔をしていた。
こちらの平均的な初婚年齢は二十歳前というから、ゼロンの両親は六十歳前後だと勝手に思い込んでいたのだが、引越しに付き添ってくれたゼロンから紹介された彼の両親は、どうみても立派なおじいちゃんとおばあちゃんだった。
ヤヨイの両親は高校の同級生で、大学卒業とともに結婚してすぐヤヨイが生まれた。自分の親よりは上、くらいのつもりでいたので、なんだか裏切られた気分だ。
「俺、四人兄弟の末っ子でさぁ」
少してれくさそうにゼロンは頭をかき、父のイゼ、母のロマとヤヨイを引き合わせてくれた。
三人の兄姉はとっくに所帯を持って遠くの町に住んでおり、研究所のゼロンを通じて両親に仕送りをしているらしい。もちろんゼロンも、少なくない給料の中から相応の額を出している。なので二人は悠々自適の老後生活を満喫しているというわけで。
今朝もヤヨイは、裏庭から聞こえてくるカサカサした歓声に起こされて目を開けた。
「んぅ……おじいちゃん……」
かすれた声でつぶやいたのは、イゼじいさまへのほのかな非難。
ヤヨイは仰向けのまま両手で顔を覆い、ぱっとはなして一気に身体を起こした。目が覚めれば活動開始。寝起きのよさには自信があった。
ヤヨイにあてがわれた二階の部屋は、もともとゼロンの姉のものだった。結婚と同時に家を出たきりなので、三十年ぶりに主を得た日はまだ空き家のにおいがしていた。ヤヨイが寝起きし始めて五日、ようやく隅々にまで人の気配が染み渡り始めたところだ。
薄いカーテンを開け、きしむ蝶番がはずれないようそっと窓を開ける。朝のにおいに混じって部屋へ吹き込んだのは、じいさまの元気な笑い声だった。
思いのほか広い裏庭を見下ろすと、勝手口から出てすぐのあたりに黒と白のタイルで飾ったテーブルが出され、その上に同じ色合いの盤が置かれている。それをはさんで向かい合う二人のおじいさん、そして二人を見守るおばあさん。
二人が興じているのは、『外』でいうチェスのようなものだ。実際チェスそのものかもしれない。この家の息子は、『外』の研究の専門家なのだから。
「おじいちゃん、おばあちゃん、おはよーう」
ヤヨイが声をかけると、三人は顔を上げて微笑んだ。ここに住み始めてから、毎朝の儀式のようなものだった。
「おはよう、ヤヨイ。ポットにお茶があるから、飲みなさい」
ロマおばあちゃんが口元に手をあててそう言い、おじいちゃんたちは自分のカップを掲げてみせた。
イゼおじいちゃんはチェス好きで、朝から晩までああしてゲームを楽しんでいる。相手は近所の仲間だったり、おばあちゃんだったり、色々。
ヤヨイも誘われたけれど、ああいうゲームは苦手なので断った。でもそのうちルールを覚えて、おじいちゃんを喜ばせてあげられたらな、とも思う。
タンスから服を取り出し、ベッドの上に広げる。給付金で買ったものやジェナのおさがりも持ってきていたが、今日はおばあちゃんお手製のワンピースを身につけるつもりなのだ。が、これがまたコーディネートに悩む代物で。
ランドボルグ城の流行など知らないヤヨイにもわかる。時代遅れのデザインだ。うちの居間に集まってお茶をするおばあちゃんたちが着ているような、小花模様のストンとした形のワンピース。
城内で見かける若い女性は、丈の長いチュニックにもんぺを合わせていることが多い。
もんぺ。そう、あれはまさしくもんぺ。まるでもんぺだ、とゼロンに言ったら、「アサヌマ推奨女性用活動着、略してモンペ」と教えてくれた。まったく略していないけれど、アサヌマさんの偉大さだけは思い知った。男性用のいわゆるズボンと形がちがうので、あまり抵抗なく着られるのだそうな。
もっとも、田舎でおばあさんたちが着ているようなものより少しスタイリッシュだ。幅も狭く細身で、裾をリボンで絞るようになっている。白や生成りのチュニックと同系色のもんぺスタイルは、アラビアンナイトに出てくる子どものようでとても可愛かった。
この改良版を世に広めたのが、元下着メーカー勤務のナガヤマさんだ。ジェナいわく、たった一年でオージェルム女性の意識改革を行った歴史的人物、らしい。ナガヤマさんについて語るジェナはなぜか不本意そうだったけれど、やはり尊敬の念を隠してはいなかった。
ヤヨイも面識はないものの、ナガヤマさんには感謝している。
こちらで最も不安だった、生理用品の仕様を近代的に確立してくれた功績は大きい。
昨今流行のエコスタイルで同級生も話題にしていた、布ナプキンを開発しておいてくれたのだ。防水布にあたるものがないので厚手の革をベースに代用しているが、それでも様々な不安と不快感を軽減してくれる。
これができるまではボロ布をはさんでおとなしくしていたそうだから、ぞっとしない。
閑話休題。
ジェナが用意してくれた服は、ほとんどブラウスとスカートのツーピースだ。無地が多く、裾や袖先にぐるりと模様を入れたものが目立つ。それにあわせる靴はペタンとしたパンプスのような形で、このワンピースには……はまりすぎて少し苦しい。
「うーむ」
ベッドのうえにあぐらをかき、腕を組んでうなる。
ヤヨイははっきり言って、ファッションに詳しくない。
塩おにぎりだけのお弁当を見られたくなくて、昼休みはいつも一人で過ごした。同級生が雑誌をめくるのはたいていその時間だったし、授業の合間の休み時間もできるだけその輪に近づかないようにしていた。
きれいな小物や、可愛い服は嫌いじゃない。けれど、それを手にすることはかなわない。
いつか自分が大人になって就職して、自分のことに回せるお金ができてから。
そう思って我慢しているうちに流行にうとくなり、そのうちおしゃれへの探究心もしぼんでしまった。きれいな小物も可愛い服も、素敵だと思う感覚はあってもほしくはないのだ。たとえ手にする機会があったとしても、それをどう扱っていいのかわからない。
だからいま、おばあちゃんのワンピースを、ちょっと……そう、アレだなと思っていても、どうしたらアレじゃなくすることができるのか。途方に暮れそうだった。
「うーむ……」
今度は腹の底からうなり声をしぼり出し、ヤヨイは鼻から息をついた。ふと思い立ち、ジェナがくれた小物をワンピースの横に並べてみた。
ピンクのリボンを巻きつけた麦わら帽子、つばの広い白い帽子。
葡萄を象った銀のブローチ。不ぞろいの色水晶をつなげた革紐のペンダント。トンボ玉のペンダント。
黒い薄手の地にビーズを縫いこんだショール。ひざ掛けにもなる大判で、菫色の毛織のショール。
敵の大将は、白地にベージュとピンクの小花を散らした膝丈。スタンドカラーの縁にはフリル、咽喉元から胸までボタンでとめるようになっている。秋口にぴったりの、薄手だけど長袖で手触りのいい布だ。しかし扱いづらい。
ヤヨイは袖に縫いつけられた共布のくるみボタンをいじりながら、じっとワンピースを見つめた。
悩んでも困ってもこれを着よう、と思うことには理由がある。
この服の縫い目はバラバラで、上手なところと下手なところがある。一枚の服を、大勢のおばあちゃんたちが縫ってくれたからだ。
袖をつけたのはだれそれで、襟のフリルは自分のウェディングドレスからはずして、くるみボタンはだれだれのアイデアで……夕食後のお茶の時間、服を差し出しながら、なかなか渡してくれないロマおばあちゃんは、嬉しそうだった。ヤヨイは一つ一つ示される箇所を一緒に眺め、解説を聞いて一緒に笑った。
この地区には若い人がいない。みんなイゼじいさまと同世代で、子どもたちは別の場所に住んでいるという。だから『外』からの人間を迎えること以上に、ヤヨイがここで暮らすことを喜んでくれた。
たった三日で、暗くなったらよく見えない目をショボショボさせながら、ヤヨイのために縫ってくれたワンピース。自分たちと同じデザインの服。最高に素敵だと信じて疑わないデザイン。
縫い目が不ぞろいだろうと古臭かろうと、ヤヨイは心から幸せだった。
「……よし」
ぱん、と手を打ち合わせ、立ち上がる。
ウェンディが着ていそうな寝巻きを脱ぎ捨て、自前のスポーツブラを身につける。それからワンピースをかぶり、胸のボタンをとめようとしてやめた。少し開き気味にし、そこから見えるように水晶のペンダントをかけ、革紐を二重に巻いてチョーカーにする。
黒のショールは腰に巻いた。高すぎず低すぎないよう注意して、右の腰で結ぶ。
ちょっと考えて、靴は『落下地点』の野歩き用にヒロがくれたショートブーツを選んだ。
「どうよー、いいんじゃない?」
これでジージャンとかテンガロンハットでもあったら、ファッション雑誌のモデルみたいじゃなかろうか。ちがうか。たとえ中身がどうであれ、参考イメージにかなり近づいた気がしてヤヨイは嬉しくなった。
(おしゃれするって、こういうこと)
常にない高揚感を味わいながら、ヤヨイは自分の部屋を出た。




