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書庫に寄ってバスケットを持ち出し、ルーヴェンの先導で食堂へ向かう。その道すがら朝のことを話すと――三つ編から先のくだりはカットだ、もちろん――、彼は眉をぐっと寄せて声を上げた。
「えぇ? グレイヴ殿下が?」
「う、うん。……なんか、まずかった?」
「ううん、ヤヨイはなにも悪くないよ。……あのね、あの方は女嫌いで通ってるけど、十分注意してね。男なんてなんのきっかけで宗旨替えするかわからないんだから」
厳しい顔で言い聞かせてくるルーヴェンに、ヤヨイは声を立てて笑った。まるでお母さんだ、と思ったから。
位の低い文官が使う食堂は、二階に書記室を擁する西棟の一階、書庫とは逆のはずれにあった。
様々な職種によって使い分ける食堂は四つあるが、それぞれが抱える複雑な関係の象徴と呼ぶべき施設だ。たとえば庭師や厩務員のような裏方は、侍女や地位の高い文官とは相容れることがない。また楽師や絵師といった芸術家と軍人の相性は最悪だ。
彼らがバッティングして不可視の火花を散らし、うっかり大火事にまで発展しないようにという配慮である。
実際にそういう事例があったか否かはともかく、ヤヨイにとってはありがたいことだった。
というのも、近衛を初めとした王家に属する騎士たちを刺激しないよう、日ごろから一層の注意が必要だとヒロからよくよく言い聞かされていたからだ。
「近衛は警備隊と同じ練兵場の食堂だから、安心してくつろいでね」
高校の体育館を縦に二つつなげたくらいの巨大な空間、そしてそれに恥じない長大なテーブル。その端に陣取ったルーヴェンは、モスグリーンの布に包まれた弁当を広げながらこっそり囁いた。
さすが隠れ『外』信者、ヤヨイの懸念を言い当てて、先のような事情を説明してくれたというわけだ。
ルーヴェンのランチは、耳がついたままのパンに野菜とハムをはさんだサンドイッチである。独身者用の官舎に住んでいるという割りに、彩りも鮮やかで形もいい。自分で作ったのかと聞けば、官舎は三食つきで、こうして日替わりで弁当も作ってくれるとのこと。
家賃や食費は給料から天引きされているというが、なかなか出来たシステムである。
「そういうの、アサヌマが導入した仕組みなんだよ」
声を低めて教えてくれるルーヴェンの瞳は、相変わらず輝いていた。
「なるほど……元市役所勤務のアサヌマさんか」
つぶやきながら、ヤヨイもようやくおばあちゃんの手作り弁当が詰まったバスケットの蓋を開けた。細長い陶器の器に木の蓋がついた入れ物と、紙にくるんだ丸いパン。
器の中には、ゆでたブロッコリーとニンジンのサラダ、レーズンとソーセージの炒め物、オムレツが綺麗に並んでいた。
「お、い、し、そ、う……っ」
中学校を卒業して給食制度とお別れした後、ヤヨイの弁当といえばおにぎりに塩をまぶした単色でまとめられていた。時折たくあんや煎りゴマが参加することもあったが、基本的に炭水化物過多の傾向にあった。
感動にふるえる手を伸ばしてフォークをつかみ、ブロッコリーを突き刺す。小房に分けられたそれはヤヨイの口にもちょうどいい大きさで、ほんのりした塩気と絶妙な酢加減、そして味わったことのないハーブの風味がした。
「お、い、し、い……っ」
おばあちゃん、おいしいよーっ!! と叫びだしたい気持ちをブロッコリーとともに飲み下していると、小さく笑い声がした。
「幸せそうだね、ヤヨイ。そんなふうに食べてもらえるなら、僕もヤヨイになにか作ってあげたいな」
優しい言葉と表情に、ヤヨイは「えへへ」とだらしなく笑った。
家がすさまじいまでの貧乏だったので、食料をもらうチャンスをふいにしたことは一度もない。
落ちぶれた当初は常に空腹を抱えているのが惨めで、恥ずかしくて、悔しくてならなかった。けれどそんな境遇に慣れ――なにより両親にそういう自分を見せるのはひどく残酷なことなのだと気がついた。
さすがに大っぴらに貧乏娘をアピールすることはなかったけれど、同級生が差し出すお菓子や、アパートの隣人がくれるお裾分けは笑顔で受け取った。
努力して自然体でいようとするうちは、決してすべてを受け入れられてはいないのだと知ったのは、ここへ落ちた後のこと。
「好き嫌いはあるの?」
サンドイッチを口に運びながら尋ねるルーヴェンは、どうやら本気でなにか作ってくれるつもりのようだ。ヤヨイはレーズンを――レーズンもブロッコリーも、味も形も似ているだけで本当はちがう名前のちがう食べ物なのだけど――フォークに載せて、首を振った。
「なんでも食べるよ。多分、なんでも」
「多分?」
眉を上げて笑うルーヴェンに、ヤヨイも笑い返した。
「この国の料理を食べ尽くしてみないと、わかんないでしょ? たいていの調味料は味見したと思うんだけどね」
ジェナは料理が上手だし様々なメニューを食べさせてくれたけれど、現におばあちゃんのサラダには初めての風味を感じた。こちらも各家庭オリジナルがあり、奥が深そうである。
「心意気はわかったけど傾向がつかめないよ、ヤヨイ。本当になんでも食べてくれる?」
「食べる食べる。――あ、しいて言うなら甘いものが少し苦手かな? たくさんは食べられないかも」
受験勉強をしていたころ、アパートの大家さんが法事に使うドラ焼きの数を間違って注文し、店子に配ってくれたことがある。一軒あたり十個ほどだったが、ヤヨイは一回で一個を食べきれなかった。
同級生がくれるお菓子は一口サイズだし、大量に回ってくるものでもない。ヤヨイにはそれくらいがちょうどいいのかもしれない。
ふんふんとうなずくルーヴェンが、不意に真顔になってこちらを向いた。
「そういえば、書庫のほうはどう? 片づきそう?」
「ん? うーむ。まぁ、なんとか」
そういえばカーテンは夕方までに乾くかな、と思いつつ、ヤヨイは天井を仰いだ。
畳でいうなら二十畳ほどの広さの書庫は、堆積した埃さえなんとかすれば掃除そのものは終了なのだ。平積みの本の山があちこちにありはするが、乱雑に散らかっているわけでもない。
「本の虫干しまでやってたら一週間以上はかかりそうだけど、掃除は今日中に終わると思うんだ。バケツはともかく、雑巾は何枚か借りたいな」
汚れた水を捨てられる水場は、書庫から少し離れている。いい運動になるわい、となかば自棄気味に思った。
「目録を作って整理まですると、一ヶ月くらいかかるのかなぁ。もっとかも」
「そう……。早く終わらせて、書記室においで。本当はそんな仕事、書記官の業務じゃないんだから」
やけに暗い顔つきで、ルーヴェンはテーブルに視線を落とした。
彼のあまりに深刻そうな様子に、ヤヨイは口をモグモグと動かすのをやめた。
「あんなところにこもって一人で作業するなんて、寂しいでしょ?」
質問の形の、それは断定だった。
発言の意図は不明だが、その意見には若干の異議を申し立てたい。
ヤヨイには他人と行動をともにしたい、という願望が基本的にあまりない。
生活レベルが著しく低い女子高生は、なかなか群れに入ることができないのだ。話題もテンションもかみあわないことこの上ない。
孤立感や人恋しさを乗り越えてしまえば、一人は気楽だ。まして仕事というのは、和気藹々と取り組むものではない気がする。険悪でない程度の無関心を保ち、結果として同僚とうまくやっていければ十分ではないか。
(それ以前に……)
オムレツの欠片をつつきながら、ヤヨイはヒロに提示された内容を思い出す。
城の書記室に所属し、書庫の清掃、蔵書の目録の作成、分類、整頓などの業務を請け負うこと。
ヤヨイに与えられた仕事は、とりあえずそこまでだ。書記室に所属して経理もそこを通るかもしれないが、決して書記官になったつもりはない。政治経済に関わる公式な文書を扱えるほど、語学力も高くない。
「寂しくはないから、大丈夫。ありがとう、ルーヴェン」
重くなってしまった空気を払うように、ヤヨイは努めて明るく言った。だが彼は険しい面持ちのままヤヨイを見て、そして――固まった。
目を瞠るヤヨイの隣、ルーヴェンと反対の椅子に着席する人の気配。とともに、かすかにタバコのようなにおいがした。
「そこまでだ、小僧」
ものすごい低音のシブい声に、ヤヨイは目を瞠ったまま振り返った。
「宮仕えを満喫してるか」
からかうような眼差しを向けるその人は、チョイ悪系美中年にして書記室のトップ、ガルム室長だった。
「カーテン相手に悪戦苦闘していたようだが、勝敗が決してなによりだ」
我に返り、窓の下に干した布が脳裏をよぎる。あれを抱えて右往左往していたところを見られたのか、とヤヨイはいたたまれない気持ちでうつむいた。
おそらく三十代後半であろうガルム室長は、シャツの袖を肘までまくってたくましい腕をさらし、臙脂色の膝丈ベストを着ている。所属先で色の異なる文官の上着やベストの長さは地位の高さで決まる、と教えてくれたのはルーヴェンだ。
ライオンのたてがみのような金茶色の髪、金緑色の瞳、きりりとした眉、高い鼻梁、一文字に結ばれた厚めの唇、引き締まった顎。刻まれた眉間の皺まで、しびれるほど魅力的な大人の男性。
きっとオージェルムの美的水準を満たす、がっちり系だ。価値観がちがうはずのヤヨイすら眩暈を覚える、におうような色気。
フェロモンだ。きっとこれがフェロモンの効果だ。目に見えずにおいもないそれにやられたにちがいない。ああ自分もちゃんとメスだった。
ヤヨイは緊張と羞恥で顔が熱くなるのを感じた。さっきまでおばあちゃんのお弁当に奪われていた心が、方位磁石が北を示すように室長に向かっている。
初対面は少し離れたところで正面から向き合って、しかも短時間の挨拶と質問で済んでしまった。忙しい室長は面倒をルーヴェンに押しつけて、さっさと自分の机に向かってしまったのである。
ちょっぴり残念、と後ろ髪引かれる思いで書庫へ向かい、なんだか人騒がせなどっかの王子のせいで室長のことを忘れていた。
いまこうして肘が触れ合うほど間近に、しかも耳に直接流れ込むような位置取りで重低音の声を聞かされていると――あらぬことを口走ってしまいそうだった。
「室長が食堂にいらっしゃるなんて、めずらしいですね」
動揺しまくるヤヨイの頭越しに、気を取り直したルーヴェンがいたって暢気にそう言った。おそるおそる顔を上げると、室長は小さな布包みをテーブルに置き、つまらなそうに指先で広げている。
「たまにはな。出歩く姿も見せておかんと、書記室に根を張っていると陰口を叩かれる」
「そんなの、お気になさらないくせに」
肩をすくめるルーヴェンに、ガルム室長は片頬を上げて流し目をくれる。そしてその壮絶な色気の射程距離内にいたヤヨイの全身が粟立った。ついで身体の中から熱くなり、呼吸まで苦しくなっていく。
(に、逃げたい……っ!)
もはやガルム室長の存在は高温の圧力だった。真冬のスーパーで頭から浴びるエアカーテンの熱風のようだ。
小さく縮こまって真っ赤になったヤヨイの顔を、ルーヴェンが覗き込んでくる。
「ヤヨイ、具合が悪いの? 大丈夫?」
ろくな返事もできず硬直していると、ルーヴェンは非難がましい声で室長に文句を言った。
「室長のにおいで気分が悪くなったんじゃないですか?」
ヤヨイはぎょっとして彼を振り仰いだ。三十代後半の男性に向かって、なんとデリカシーのないことを!
お父さんはことあるごとに枕や帽子、上着など自分が身につけるもののにおいを確認しては肩を落とした。そしてヤヨイに「お父さん、臭い……?」とそれはそれは哀れを誘う潤んだ目をして尋ねたものだ。
しかしヤヨイには、いまここで「それじゃまるで加齢臭がするって言ってるようなものでしょう」とルーヴェンを咎める勇気がない。ただまったくの濡れ衣である、というか見当違いの冤罪であると無言のまま必死で訴えた。
が、ルーヴェンは眉を寄せ、困ったように首をかしげた。
「そうなの、ヤヨイ? においで酔った? 室長、煙草くさいもんね?」
熱かった顔が冷えていく。血の気が引いていくのがはっきりとわかった。たたみかけられる言葉はなんだか説得力があって、まるでヤヨイ自身が過去にもらした悪口を再現でもしているようだ。
否定しなくては、と室長を振り返った瞬間、目が合った彼はふっと笑った。
「結局それかよ。ヤヨイをダシにすんな、言いたいことは自分の責任で言え」
名前を呼んでくれた。
低音で紡がれた自分の名前に、こんなに美しい響きだったのかと陶然となる。
「くさく、ないです……」
気づいたら、ヤヨイはガルム室長を見上げて口を開いていた。組んだ両手を胸の前に、祈るような姿で。
「タバコのにおい、嫌いじゃありません……お似合いです」
「や、ヤヨイ……?」
背後からそっと肩に手を置かれる。だが探るようなルーヴェンの声は無視して、ヤヨイはなおも言い募った。
「なんだか安心します、ずっとかいでたいくらいです」
自分でもなにを言っているのかよくわからなかった。いつの間にか騒がしかった周囲が固唾を呑んで三人を見守っていることにも、気づく余裕など一切ない。
頭のどこか深い場所で思い出すのは、ジャニーズより石原軍団、と口を滑らせたときの同級生の引いた顔。あれがいわゆるドン引きだったのだと、ガルム室長に見とれながら内心でポンと手を打った。
虚を衝かれた表情も一瞬、室長はおもむろにヤヨイの肩をその広い胸に抱き寄せた。
「残念だったな、ルーヴェン。思惑が両方はずれて」
――書記室長が『外』の娘に手を出した。
目撃者がこの目で見たと唾を飛ばして振り撒いた噂は、その日のうちに城中を駆け巡ったのだった。