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over again  作者: れもすけ
第二章
10/48

2


 何十年も放置された書庫は、埃が降り積もってあちこち白く染まっていた。無論、フローリングの床も例外ではない。木目が曖昧になった足元を見つめて、塵も積もればとはよく言ったものだと感心する。


 ぎし、と椅子のきしむ音に、ヤヨイの身体がふるえた。視界の隅で焦げ茶色のブーツのつま先が上がり、目の前の人が脚を組み替えたのだと気づいた。

 少しずつ視線を上げていく。

 編み上げブーツは脛の半ばほどで折り返され――流行っているのだろうか――靴紐の先を飾る水晶のような石がキラキラと揺れる。白いズボンに包まれた長い脚。チョコレートブラウンの長い髪が落ちかかる白いシャツ。肘掛けに置かれた紺色の上着。

 横目で大惨事の現場を盗み見ると、そこだけ綺麗に埃がぬぐわれている。


 紺色……よりによって。


 布団叩きで力いっぱい叩いても、きっと汚れは落ちないだろう。弁償の二文字が頭をよぎり、ヤヨイは深くため息をついた。

「なぜおまえがうんざりする」

 その権利は自分にこそある、そう主張したいのがありありとうかがえる声。

「べつに、うんざりってわけじゃ……」

 いや、本音は少しうんざりしている。金銭問題で苦しむ運命なのかもしれない、という自分に。


 黙りこんだヤヨイに苛立ったのか、彼は――グレイヴ・サブロウ・オージェルム王子は腕組みをして背もたれに寄りかかった。

「俺はずっと、『外』から来た奴らは慎み深く所作が丁寧だと思っていた」

 まるでヤヨイが図々しくて大ざっぱみたいな言い方だ。

「いやそれは、日本人が遠慮する国民性で注目されるのを嫌うからじゃないかと……すみません、なんでもありません」

 紺色の目で一睨みされ、反論する気力も奪われる。ため息をつきたいのを必死でこらえ、窓辺で風と戯れるカーテンを見やった。

 カーテン。

 思えばこんなことになったのは、すべてあの布キレのせいだ。視聴覚室の暗幕もかくやというどっしり感。すべての静物が埃に埋没するこの部屋にあって、例外なく真っ白に染まっていたカーテン。


 ヤヨイは同い年の先輩係官に案内されてここへ来たとき、もちろんまずは絶句した。オバケ屋敷の大道具かと思うほどの汚れっぷりに。

(なるほど、掃除……ッ!)

 道理で書記室で挨拶をした後、ヤヨイの視線を釘付けにしたシブい室長が「咽喉は丈夫か」と重低音で尋ねたはずだ。これでは丈夫だったとしても、埃でやられてしまうだろう。

 両の拳をぐっと握り、覚悟を決め、バケツと雑巾を調達する前にとりあえず窓を開けようとした。だが立ちはだかるカーテンが吐き散らす埃を想像して、先にはずしてしまうべきだと思い至った。

そっと、静かに作業をすれば大丈夫。

 書架の前にあった木製の脚立を広げて上り、カーテンレールから布をはずそうとして――。

「おい。……おい!」

 ――この声に驚かされたのだ。すまん、カーテン。犯人は君ではなかった。


 顔を窓に向けたまま、横目で不機嫌そうに歪む王子の眉間を見やる。

 びっくりしてあわててつかんだのは棚の天板ではなく、横積みにされた本だった。不幸な事故であって決して故意に起こしたことではない。


 呼んだわりに用事があったわけでもなさそうだ。三郎王子は無言でヤヨイを睨んでいる。

 大体この人は、ここへなにをしに来たのだろうか。椅子に座ったと思ったらこちらを見るばかりで、居心地が悪いことこの上ない。

 圧力のある視線に曝され続け、頬がかゆいような気がしてきた。無意識に爪の先でかいていると、不意に身を乗り出した王子がその手をつかんだ。

「痛むのか? 怪我を?」

「あ、いえ、ちがいます。……あの、離れてくれませんか」

 肌の手入れに興味があるわけでもないから、至近距離でジロジロ見られるのは不愉快だった。環境がかわったせいか口元にニキビはできたし、水が合わないのか頬もカサカサしている。相手が美々しい王子様でなくたって、他人に見せたい美肌ではないのだ。


 しかし可愛い乙女心を理解したふうもなく、王子はむっと口の端を下げ、屈めた上体を戻した。

「……手、も……はなしてくれると、その」

 なんなのだろう、この展開は。軽く絶望した。

 ヤヨイ自身は間違いなく初めて体験する状況だ。それなのにひどく既視感を覚える。


 薄暗い書庫。

 若い男女。

 崩れる本の山。

 転倒の危機から身を挺して救ってくれた青年ともつれあって、どさくさまぎれの抱擁。

 そしてその青年はいま、親指の腹でヤヨイの手の甲をなでている。


(――少女マンガだ。小学生のころみんなで回し読みした、あれだ)


 確かマンガではこの後、度を過ぎたスキンシップへと発展していったはず。

 男子と同じ教室で体操服に着替えるような年齢の女子が、ページをめくるたびにキャーキャー言いながら喜んでいるのは絵的にすさまじかった覚えがある。

 いま思えば、あれは果たして小学生が熟読してよい類の雑誌だったのだろうか。

 しかし本屋の店頭では「小学六年生」などの傍らに陳列してあったような気もする。顔面の半分が目玉のような主人公が、突如現れたハンサムと、なぜか唐突に親密になっていく物語。

(そういえばマンガなんて、もう長いこと読んでない……)

 本屋でアルバイトをしていたから、触れる機会は毎日あった。それと中身を楽しむことはまた別である。昔読んでいた話の続きはどうなったろう、もう完結したのかな。

 そんなことをつらつらと考えていると、ドン、と大きな音を立てて床が鳴った。


 びくっと肩を揺らしてその発生源を探せば、組まれていたはずの脚が両の靴底を落とし、すでに不機嫌を通り越して怒りの形相にかわった王子の顔が――。

「……おまえは俺をなめているのか? それとも『外』では他人の存在を無視するのが礼儀なのか?」

 美形の怒り顔は死ぬほど怖い。

 背中に嫌な寒気が走るのを感じながら、ヤヨイはぶんぶんと首を振った。なんとかしてその不気味に渦巻くオーラを霧散させねばと必死で考え、王子の手をぎゅっと握り返した。

「あ、あのあの、上着汚しちゃってごめんなさい!」

 とりあえず目に入ったので上着の件を取り上げてみたのだが、案外彼の不機嫌の原因はこれなのかもしれない、とヤヨイは思った。

 派手な装飾はないが、ヒロの家にあった服とは素材も仕立てもまったくちがう。ボタンなんか、もしかしたら純銀ではなかろうか。……もしかしなくても、とてもお高いお洋服なのではなかろうか。


 弁償――甦った不吉な単語に、ヤヨイの顔から血の気が引いた。


 おそるおそる王子の顔色をうかがうと、握り合う形になった互いの手を凝視している。そこに怒りや苛立ちの気配はない。ヤヨイは知らず彼の手を握る手に力をこめ、訴えた。

「わたしの不注意でした、二度と同じことを繰り返さないとお約束します!」

 クレームの対応は、一に謝罪二に謝罪、三・四に謝罪、五に謝罪。

 相手がドン引きするくらい平身低頭謝ると、たいていは毒気を抜かれて引き上げてくれるのだ。こちらから弁償する、などと言ってはいけない。その場しのぎで応じていると、クレーマーと化して何度でもいちゃもんをつけられるからだ。

「すみません……ごめんなさい……」

 ヤヨイは椅子から下りて床にひざまずき、握った手を額にあてて小さく繰り返した。我ながら過剰な演出に笑いが出そうだが、必死でもある。

 まだこの職場ではなんの仕事もしていない。初日でクビになったらヒロに申し訳ないし、一日分の賃金すら期待できなくては上着の弁償など不可能だ。

 給付金から捻出するのは本末転倒だし、それ以前によく考えたらこの人は王族である。

 怪我の有無を確認するのは、むしろこちらのほうだった。もしもなにかあったら――。


「…………」


 急に首筋が冷えたような気がして、ヤヨイは先ほどとは別の寒気を感じた。

 もはや両手で包むようにした彼の手にすがり、ゆっくりと顔を上げる。

 三郎王子は手品でも見たように目を瞠り、ヤヨイを見つめていた。

「あの……お怪我はないですか? 頭、大丈夫ですか?」

 その瞬間、王子はまたしても不愉快そうに口の端を下げた。

「まるで俺の頭がイカれているような言い草だな」

 しまった、表現を間違えた。

 ヤヨイはあわてて手をはなし、顔の前で振り回した。

「あの、ちがいますっ!! そうじゃなくて、ゴンってすごい音がしたからコブでもできてたら間抜けだなって! いえその、たいへん、だな……って」

 言い募るほどに、紺色の瞳が冷気を増していく。

 振りほどかれて宙に浮いた手もそのままに、王子はただヤヨイを見つめる。


 くそぅ、だれかなんとかしてくれ。

 職員室でお説教される中学生のごとく正座のままうなだれ、バレないようにそっと息をつく。

 椅子に座る前、王子が開けた窓から風が入り込んでくる。そのたびにカーテンが揺れて埃をまき散らし、鼻の奥がむずがゆかった。一刻も早く掃除にとりかかりたい。精神衛生のためにも。


 ヤヨイは掃除が嫌いではない。が、別に好きなわけでもない。書庫での作業は、目録作りから分類、仕分け、陳列と続くのだ。最初の一歩で躓いている場合ではないのだ。

(バケツと雑巾……どこで借りればいいのかな。紙とかペンとかインクとか、そういうのは書記の部屋かな……)

 案内してくれたのは、書記室の係官だった。赤毛の少年で名前をルーヴェンという。頑張ってねと言ってくれた。

 そういえば、仕分けはともかくなぜ分類まで作業の中に入っているのだろう。こちらには図書館学という学問はないのだろうか。ヤヨイが知る限り、役場の支所にくっついた小さな図書館でさえ規定の分類法に則って書架が分けられていた。

 そのへんも確認しなくてはいけない。ルーヴェンは暇だろうか。いや、暇ではなかろうな、机の上に書類が山積みだった。


 などと意識を飛ばして現実逃避をしていたことは、バレバレだった。

「おまえは、懲りるということを知らんのか」

 その声音、絶対零度。――って摂氏何度のことだっけ。

 言われるそばから別なことを考えようとする自分を叱咤し、ヤヨイは頑張って王子に注意を向けた。前髪の間から顔を見ると、目をそらされた。


 ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた王子の髪が、乱れている。仰向けに倒れたからだろう、首筋で髪を束ねたリボンが歪んでいた。

「……王子、髪をなおしてもいいですか」

 なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。ただシャンプーの広告みたいにつやつやしたチョコレートブラウンの髪に、触れてみたかっただけかもしれない。

 訝しげな顔をしつつもうなずいた王子にほっとして、ヤヨイは立ち上がった。

 埃を舞い上げないよう静かに背後にまわり、瞳と同じ紺色のリボンをほどく。

「……ヘンな奴だな」

 うれしくない評価は無視。

 櫛など持っていないから、指のあとがつかないよう、掌でそっとこするようにして髪をなでる。つるつるしていて、時々同級生がおすそ分けしてくれたアーモンドチョコのように輝いている。


「おいしそう……」

 とつぶやいた瞬間、ものすごい勢いで王子が振り返った。悪魔でも見るような目だ。

「おい、『外』の人間に食人の習慣があるとは聞いてないぞ」

「ありませんよ、そんなもの! ……いや、ないとは言えないのかな」

 王子の顔色がかわった。


 子どものころ、上野の科学博物館で頭蓋骨を抜いて塩漬けにして干した首、というものを見たことがある。梅干と同じ原理か、とげんなりしたものだ。アレは確か、どこかジャングルに住む部族の腰飾りだった。敵方の戦士を討ち取った証で、己の武勇を誇るのだと――考えているうちに気分が悪くなってきた。しかもそれは人間を食べるという話とは別物だ。


「顔色が悪いぞ、大丈夫か?」

 心配そうに眉間をくもらせる王子の髪色にも腹が立つ。さっきまで思い出し笑いがもれそうだったチョコレートの記憶にさえ、吐き気がしてきた。

「……前、向いてて下さい」

 不遜とか不敬とか、そういう考えも頭になかった。後ろから王子の両頬を手ではさみ、強引に前を向かせる。すべすべした肌だった。

 できるだけ食べ物のことを思考から排除しつつ、細いテグスにも似た感触に集中した。


 クラスの女の子たちは、休み時間になるとポケットから櫛を取り出しては毛先を梳いていた。小さくて、キラキラしていて、色とりどりの飾りを施した櫛。手入れを怠ったことがなさそうな髪は茶色く染められ、クルンとカールしていて。


 仲間に入りたい、と、手の届かない光景に焦がれたこともあった。


 ヤヨイの髪は、束ねるのに足るだけ長く、特別手をかける必要がないだけ短い。いつも商店街の美容院が店先でチラシと一緒に配っていた、目の粗いプラスチックのブラシで梳かすだけ。毛先をそろえてくれるときも、お母さんはそのブラシを使った。

「……様子を、見に来た。不自由はないか、とか」

 王子の言葉に、そうですか、とだけ答える。

 心が暗いものに囚われそうで、上の空だった。

「頼みたいことも……」

 ぼそぼそとしゃべる王子の声が遠い。ヤヨイは意識を空にして、ひたすら手を動かした。

 取り分けた束を右へ、受け取って左へ、左から右へ。きゅ、と音が鳴りそうな髪。

 お母さんの髪も長かった。いつもこうして、ヤヨイが結ってあげた。

 いつの間にか白髪が増えて、年齢より老けて見えると笑いながら嘆いてた。綺麗な人だったのに、数百円のヘアカラーを買うお金も惜しんで――。


「――も、悪くないだろう?」

 問いかけを示す語尾に、ヤヨイははっと現実に引き戻された。いつの間にか手元でリボンが蝶々結びになっている。

「は、はい、そうですね……? あの、できました」

 ああ、とうなずいて頭に手をあてた王子の動きがとまる。


 確かめるように上下する手が、長い毛束をつかんで顔の前に引っ張った。

「……なんだこれは」

「三つ編です」

「それはわかっている! 俺はいままで一度だってこんな――」

 背もたれを抱えるようにして振り返った王子が、ぎょっとしたように目を剥いた。その顔を見てヤヨイもぎょっとした。

「な、なんですか? もしかして王族の髪を三つ編にすると死刑ですか!?」

「いや、そんなバカな法はない、が……」

 王子の美貌が、困惑に染まる。えらい人でも表情は豊かなんだな、と新発見でもした気分だ。


 はたと、助けてくれたお礼を言っていなかったことに気がつく。そもそもの原因はさておき、彼がかばってくれたことは確かだし、しきりに怪我はないかとヤヨイに尋ねるのもお礼の催促かもしれない。――それはないか。


 どうも、とか、すみません、という便利な言葉ですませることを、両親はよく思わなかった。謝るときはごめんなさい、お礼を言うならありがとう。大きな家に住んでいたときも、六畳二間のアパートに住んでいるときも、その方針はかわることがなかった。

 ヤヨイは照れくささに少し唇をかみ、努力して笑顔をつくった。

「さっき……助けて下さって、ありがとうございました。怪我もせずにすんだし、この書庫が一日も早く機能するよう、頑張って働きます」


「……ヤヨイ」


 静かな目をした王子に低く名前を呼ばれ、心臓がとくんと鳴った。よく知らない人から敬称抜きで呼ばれるのは、やはり違和感があって緊張する。

 どこか痛ましげにヤヨイを見つめていた王子が、すっと立ち上がってヤヨイの前にやって来た。そしてためらいがちに手を伸ばし、そっと頬に掌をすべらせる。

 その仕草で、ヤヨイは自分が涙を流していたことを知った。

 頬をなでる手が頭に回され、ぐっと胸に引き寄せられた。バランスを崩して倒れそうになったヤヨイは、あわてて一歩踏み出して王子のシャツにつかまった。

 額を王子の胸に押しつけ、不自然に身体を離した体勢は、横から見たら直角三角形のようだろう。間抜けだ、どうしよう、でも今さら抱きつけない、じゃなくてむしろなんなんだこれは――。

 頭のてっぺんに頬ずりされる気配。


 長い指が頭の輪郭を確かめるように下りてきて、顎から頬、そして耳へと形をたどる。横顔を覆う髪がさらりと耳にかけられ、急に開かれた視界に心もとない心地になった。

「――ヤヨイ……っ!」

 囁きは押し殺され、なにかに耐えるようにかすれていた。そこに隠された彼の望みを本能的に察知して、ヤヨイの身体に漣が走る。

 だが王子は詰めた息を大きく吐き出し、一拍の間をおいて身体を離した。

 そしてその顔に浮かぶ色を確かめようと目を凝らすヤヨイから逃げるように、上着をつかんで部屋を出て行った。


「……なに……?」

 自分のつぶやきで緊張の糸が切れる。

 ヤヨイはぺたんと床に座り込み、熱くなった耳に触れた。



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