Sweety Edge
雨の中。
聞こえたのは雨音と、彼女の嬉しそうな声と、断末魔。
響き続けた蝉の鳴き声が不意に止み、冷たい塊が肩に落ちた。雨だ。屋根の下へ避難しないといけない。
ぼんやりとした頭でそう考えた途端に、いきなりバケツどころか湖でもひっくり返したかのような勢いで雨が降り始めた。激しく降り注ぐ雫が抉るように地面に叩きつけられ、何かが破裂するみたいな音が暇なく耳に響く。
それでも頭の回転は緩やかなままで、僕はしばらくの間ベンチに座ったまま、ぼうっと目の前の光景を眺めていた。
所々錆びているジャングルジム、雨の衝撃で揺れるブランコ、水を含んでぐちゃぐちゃに荒らされた砂場……ああ、僕は今、公園にいるんだった。でも、どうしてだっけ。
「ねえ」
背後からかけられたその声が、僕を現実へ引き戻す。頭上に広がるピンク色の傘。振り返ると、そこには制服姿の女の子が首を傾げて立っていた。
「そのままだと、風邪引くよ?」
こちらを心配しているような眼差しだった。……何故だか、居心地が悪い。
僕とは違う学校の制服だった。もちろん顔に見覚えはない。知り合いにいたら忘れない見た目だろう。灰色の三つ編みはまだしも、真っ赤なカラーコンタクトって……。
「君には関係ない」
「そう? でも、とりあえずどっかに移動したほうがいいんじゃないの」
言われてみれば、いや言われなくともそうだ。いったい僕の頭はどれだけ麻痺しているのだろうか。白いYシャツがべったりと服と肌に張り付いて気持ち悪い。髪もぐしゃぐしゃだ。ズボンも、下着も。ああ、最悪だ。
ため息を一つついてから立ち上がると、公園の中心に備え付けられた時計塔の下へ駆ける。公園のシンボルであるそれは、四脚で立ちその下が空洞になっていて、上部に時計が付いているというだけの簡素なものだ。狭いが、雨が止むまで待つには事足りるだろう。
その下で脚に寄りかかり、再び息をつく。まだ昼過ぎだというのに空は暗く翳っていて、雨が止むまではもう少し時間がかかりそうだった。
「ねえ」
なぜか一緒に雨宿りをするらしい彼女が、尋ねる。
できればあまり近づきたくない出で立ちだけど、この土砂降りの中、ここから追い出すのは流石に気が引けた。
「なに」
「服、べちょべちょだけど……君、男の子なんだし、走って帰ったほうがいいんじゃない?」
「それはつまり、僕と雨宿りをするのが嫌だからさっさと出て行けと」
その途端に彼女はぷっと吹き出し、お腹を抱えて笑い出した。
耳障りだ。雨音のほうが何倍もいい。
「違うよ、そういう意味じゃなくて……はは、ごめん、ちょっと失礼だったね。ただ、もうびしょ濡れなんだし、もうちょっと雨の中を走るくらい大丈夫かなって」
「お気遣いアリガトウ。残念ながら、僕の家は少し遠いんだよ」
「そうなんだ。なら仕方ないね。私の傘貸そうか?」
「遠慮するよ。君に悪いだろ」
本音を言えば、傘を返すためにもう一度会わなければいけないのが嫌だった。何故かは知らないが、僕はもう、彼女のことが嫌いになっていた。
「そっか。じゃあ、もう少しよろしくね。私、ナツヒ。加名夏日。君は?」
名前を知られるのは億劫だけど、先に名乗られてしまっては仕方がない。
「名取」
その瞬間、加名が息を呑むのがわかった。彼女は恐る恐る、といった感じで僕の顔を覗き込む。
「下の、名前は?」
「志人。それがなにか?」
「しと……」
沈黙。彼女の瞳に、僕の怪訝な顔が映り込んでいる。彼女は二度瞬きをして、少しぎこちなく微笑んだ。
「いや、なんでもないよ。それで志人くん、どうしてこんなとこにいたの? まだ授業中じゃない?」
明らかに怪しい。けれど、そんなことはどうでもよかった。今はただ……難しいことを考えたくなかった。だから、気にしないことにした。
「君こそどうしてさ」
「私はね……学校を抜け出してきたの」
「そう。じゃ、僕と一緒だね」
「ううん、違うよ」
加名が首を横に振る。何が違うというのだろう。
「志人くんは、ただ学校から逃げてきただけでしょ。私は違う。私にはやらなくちゃいけないことがあるの。それに比べれば、学校なんて些細なものなんだよ」
なんだこの人。やっぱりちょっと近づかないほうがいい部類の人か。そう思ったけれど、続く言葉に僕は耳を疑った。
「君には逃げる必要なんてないのに……そうでしょ、志人くん。あれは別に、君のせいじゃないのにね」
その瞬間、世界が止まったような……全部壊れたような。
絶えない笑みが、雨より冷たく僕の目に映る。
身体が硬直している。喉が塞がっている。指先まで血の気が引いていく。
「安心しなよ。河合総司くんが死んだのも、比津千春ちゃんが道連れにされたのも、ぜぇんぶ君のせいじゃない。全然志人くんは悪くないよ」
「………………」
なにも言えない。なにも考えられない。なにも、なにも、なにも。
真っ白な脳裏で、たった一つの光景が何度もフラッシュバックした。学校の屋上。千春が僕に向かって手を伸ばす。総司が泣き叫ぶ。僕は……なにもできない。
千春の手は虚しく空を切り、代わりに総司の手がそれを強引に引っ張る。
千春と総司。二人の声が木霊する。耳をつんざくような咆哮、そして慟哭。
「加名、君は……」
思わず狼狽し、仰け反って、雨の下へ身を晒す。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、僕のせいじゃない、僕のせいじゃない、僕のせいじゃない!
冷たい身体が一瞬にして、浮かされるように熱くなる。
「あんたは……あんたはいったい誰だ!? またどっかの記者か!? なんなんだよ! また僕を苦しめに来たのかよっ!」
視界がぐらぐらと揺れている。水の中にいるみたいにぼやけて、息苦しい。
「落ち着きなよ。私は記者じゃない、れっきとした学生だよ」
「じゃあなんなんだよ、あんたはっ!」
「私はね……実は、死神なんだ」
真顔だった。真面目に言っているらしかった。
のぼせかけた体温が急速に冷めていく。死神などという突拍子もない単語に、僕の熱は一気に消え失せていった。溜息をついてから、時計塔の下へ戻る。
いつの間にか呼吸が荒くなっている。雨だけでなく汗も、大量にシャツに滲み、心地の悪さを倍増させていた。……なんという体たらく。こんな変な女に。
「どう、落ち着いた?」
「お蔭様でね。悪いけど、もう帰ることにするよ」
こんな奴と一緒にいられるか。あのことを全部、調べてきたんだ。きっとジャーナリズムとかいうわけのわからないプライバシー破壊装置を使って僕を苦しめて、貶めて、雑誌かなにかの記事にする気なのだ。
もう嫌だ。あいつらの取材は死ぬほど受けた。だからもう、二度と関わりたくない。
「待ちなって、私は本当に記者じゃない。君を苦しめに来たわけでもない。むしろ、救おうと思ってるんだよ」
「あんた、本気か?」
「本気だよ」
加名は僕をじっと見つめる。
……もう冷たくはない。最初に見たのと同じ、優しくて、僕を慮ったような眼差し。それはここのところ幾度となく見てきた記者たちの仮初めの笑みとは全く違うような……そんな気がした。
「実は、君を救うことが、さっき言った私の死神としての使命なの。信じてくれなくてもいいから、ちょっと話さない?」
ね、と可愛らしく首を傾げてみせる彼女は、目と髪の色以外は普通の女の子に見えた。
なんとなく……彼女はマスコミとは違うのではないか……そう思った。死神とか使命とかは意味が分からないけれど、いやだからこそ、あいつらとは違う〝なにか〟がある。
少しくらいなら、話してしまってもいいだろうか……どうせ、すでに雑誌に書かれてしまったことなのだから。
「でも……なにをどう話せばいいのさ」
「あ、話してくれる気になった? ありがと」
加名が満面の笑みを浮かべる。なんとなく、千春に似ている。
「志人くん。君は、千春ちゃんと付き合ったことを後悔しているんだよね」
「……当たり前だ。そのせいで、総司も千春も死んだ」
「どうしてそうなったのか、君は理解してる?」
「大体はね……あんたもどっかの雑誌で知っただろうけど、千春は僕より前に、総司と付き合っていた」
「うん、それで?」
「僕ら三人は小さい頃からの幼馴染で、いつも一緒だった。総司は昔から、なんでもかんでも僕より上を行くすごい奴だったよ。僕はずっと千春のことが好きで、だけど告白はできずにいて……中学の頃、とうとう、総司に先を越された。そうしたら、僕は諦めるどころか、逆に勇気づけられてしまった」
〝総司でも告白できたんだ〟って。
馬鹿だ。頭がおかしい。自分でもそう思う。
「諦めようとしたけど、無理だった。幸いにも……いや、不幸かもしれないけど、高校では千春と一緒に行動する機会がたくさんあったんだ。体育祭や文化祭の実行委員会とか。そのうち千春への気持ちは肥大化し、隠しきれなくなって……それで」
「それで君は、親友から彼女を寝取っちゃったわけね」
「ま、まあ……そうなる」
納得したように頷き、なにやら考え込んでいる加名。詳しい事情までは知らなかったのだろうか。取材に来た記者の多くは、どうやってかその辺りを調べ上げてから話を聞きに来ていたから、加名の反応は少し以外だった。
俯いて唸っている加名は心なしか、さっきまでより可愛く見える。
でもお互いに黙っているせいか、フラッシュバックが止まらなくて、やっぱり嫌な気分だ。
……総司は初め、憤慨しながらも『千春が選んだのなら』と、千春を諦めてくれた。千春も僕と一緒にいる間に、総司より僕を好きになってくれたらしかった。
総司への罪悪感がなかったわけじゃない。けど、自分でもわけが分からなくなるほどに、僕は千春のことが好きだった。千春だって僕を好きだと言ってくれたし、総司は僕らを許してくれた。
だから、これでいいんだって……ギクシャクした雰囲気も、そのうち元に戻るって……そう思っていた。
「で、総司くんは、愛する人を親友に奪われた辛さに耐えられなかったと、そういうこと?」
「ああ……そうだ」
多少の後ろめたさがあったので、僕と千春はみんなに隠しながら付き合い始めた。総司の様子がおかしくなったのは、それから数日後のことだ。
学校を休みがちになり、登校した日も顔を合わせてくれない。メッセージも無視されたし、家に行っても会ってくれない。それだけならば嫌われたのかと思えるけど、違った。
僕や千春以外の人間とも、ほとんど話さなくなったのだ。以前は大抵の人間に好かれるような真面目な性格だったから、あいつを知る誰もが驚愕するような豹変だった。他にも授業中に突然笑い出したり、一日に何度も教室で嘔吐したり――なにかに取り憑かれているみたいな。
総司が千春にフラれたらしいという話は広まっていたけれど、それを考慮しても異常なあいつの姿に、みんなが恐怖を覚えたと思う。
やがて、総司は全く学校に来なくなった。聞いた話だと、家族ともあまり口を利かないらしい。僕も千春もどうしたらいいのか分からず、居心地の悪い日々が続いた。
そして……そんな日々は、最悪の形で終わりを迎える。
総司が家に閉じこもってから約一ヵ月たったある日の放課後、僕は教室の机の中に『屋上で待ってる』と書かれたメモが入っているのを見つけた。
屋上へ続く階段を上り、重く冷たい扉を押し開ける。
橙色の光の中で総司が、不気味に微笑んでいた。その足元に転がっているのは、顔中アザだらけの、千春。
「おい……なにやってんだよ、総司……」
醜く釣りあがった頬。こいつは本当に、総司なのだろうか。
「おまえこそ、なにをしたんだ、志人ぉ?」
「なんの話だ」
「千春がさ……俺のこと邪魔だって、そう言ったんだ」
悲しそうにぼやける瞳。醜悪に歪む表情。見たことのないもう一人の総司。
「俺は、おまえらが幸せになれるなら、それでいいって……そう思ったんだよ。けど……俺はそこまでよくできた人間じゃなかった。どうしても、おまえに千春を奪われたって、そんなことを考えてしまう……そんな自分が、嫌で嫌で仕方がなかった。でも、どう頑張ったって、千春への想いを忘れるなんてできるはずがない! なぁ、志人。実はな、俺……まだ、ちゃんとフラれてなかったんだよ。別れの言葉を、まだ聞いていなかったんだ。千春はある日突然、おまえと付き合うことになったと……嬉しそうに報告してきたんだ。まるで、俺と付き合っていたことを、全部忘れたみたいに」
弱い風が吹いている。くすぐったくて、心地いいはずの風。
今は、心を削り取っていく風だ。
「だから今日……もう一度千春と話したいって思ったんだ。どうして、俺と過ごした日々をなかったことにしようとするのか。もう戻れないならせめて、ちゃんとした別れの言葉を聞かせて欲しいと……そしたら……邪魔だって」
その拳は、強く握り締められて、血が滲んでいた。その眼は、朱く充血していた。手首に巻かれた包帯は、リストカットの痕だろうか。
「自分のせいで俺が落ち込んでるみたいで、気分が悪いって……目障りだって……悪びれもせず、堂々と、俺だけが悪いみたいに! そう言ったんだ、千春は!」
そう叫びながら、涙を零す総司。泣いているあいつを見るのは、何年ぶりだろう。
そんな総司の姿を見た僕の中に沸き起こる感情は、罪悪感でも後悔でもない。
「だからって千春を傷つけていいわけないだろ、総司。そもそも、千春はそんな酷いことを平気で言えるような人間じゃない!」
「そうだよな。千春は、すごく優しい子だ。だから、俺もおまえも、彼女のことを好きになった……そのはずなんだ。でもきっと、それが彼女の本性だったんだよ」
「黙れよ、総司。おまえに被害者ヅラをする権利はない。おまえは千春を傷つけた。だから、僕はおまえを許さない」
そう。生まれて初めて体験した、この感情は……。
「もう、おまえのことなんか信じない。千春は僕を選んだ。おまえは負けたんだよ。だから、さっさとそこを退け」
……河合総司という人間に対する、最高級の優越感と達成感だった。
僕の言葉を聞いた総司は、真紅色の目を剥いていた。哀れんでもらえるとでも思っていたのだろうか。謝ってもらえるとでも思っていたのだろうか。
僕は毛ほども同情せず、謝罪もしなかった。
ただただ、あらゆる物事でずっと勝てなかった相手に初めて勝利したという高揚感と、愛する人を傷つけられたことに対する怒り……そんな感情が、真っ黒な螺旋となってぐるぐると心の中をうねっている。
「志人……おまえも、俺を救ってくれないのか。おまえですら、俺だけを悪人にするのか」
「黙れっつってんだよ。速く退け。そして、二度と僕たちに顔を見せるな!」
「っ……お、おまえはっ!」
総司がさらに怒号を重ねようとした、そのとき。
「そう、じ」
小さく聞こえた、か細い声。総司の足元に転がる千春が、呟いていた。
「もう、やめてよ……二人とも」
「千春っ!」
僕が叫ぶと、千春はゆっくりと目を開けて、こちらを見た。そして安心したように微笑む。
「志人……助けに来て……くれたんだね」
総司の顔が、くしゃりと歪む。どんな気持ちを抱いたのだろう。好きだった女の子が、恋敵に助けを求めている。自分から、逃げるために。
千春が僕に手を伸ばす。その綺麗な手を掴めるのは、総司ではなく僕なのだ。それは、最上の幸福だった。
いつだって僕より先を歩いていた総司への劣等感。それはもう、過去のものだった。
……でも。
「志人ぉぉぉっ!」
千春の傍へ駆け寄ろうとした僕を、総司が遮る。僕と千春の間に立ち塞がると、ズボンのポケットから果物ナイフを取り出し、刃先を僕に向ける。
「……正気か、総司」
「俺から正気を奪ったのはおまえらだ! 俺は……俺は千春のことが好きだった。ただそれだけだったのにっ!」
「それは僕も千春も同じだ! 僕たちもお互いのことが好きなだけなんだよ!」
「だったら、どうして俺と過ごした日々をなかったことにしようとするんだ! どうして俺を邪魔者にするんだ! 俺がなにか、気に障るようなことしたのかよっ!?」
「……後悔してるの」
千春が、総司を見上げながら呟く。その瞳は、憎悪と呆れが入り混じったような、おかしな色を帯びていた。
「あたしは、ずっと志人のことが好きだった。でも志人は鈍感で、全然、あたしの気持ちに気づいてくれない……寂しくて悲しくて……だから、あんたに告白されたとき、あたし、間違っちゃったのよ」
「……なら、俺は……志人の代わりでしか、なかったのか?」
千春は答えなかった。けれど、笑みを隠しきれていなかった。あれはきっと、本気で愛されていると思い込んでいた総司への、侮蔑の笑みだ。
僕もきっと、同じ気持ち。生まれて初めて、総司に勝てた。
勝ったんだ。様あ見ろ。おまえが好きで好きで仕方なかった千春は、僕のことが好きなんだよ。僕も、彼女を愛している。おまえの居場所はもう、ここにはないんだ。
……だが、千春を助けることを忘れ、どす黒い達成感に浸っていたのが失敗だった。
黄昏の中。絶望に飲まれた幼馴染を、僕は穢れきった笑顔で見つめていた。
「……結局、総司は千春を道連れにして、屋上から飛び降りた。喉が潰れそうなくらいに泣き叫びながら」
「それからようやく、自分の間違いに気づいたわけ?」
頷くと、加名は深く溜息をついた。
誰が調べたのか僕が総司から千春を奪い、自殺のきっかけをつくったという話が学校中に広がるのに、そう時間はかからなかった。高校生が同級生を道連れに飛び降りるなんて、普通じゃない。それがマスコミの食指を刺激したらしく、僕は連日彼らの取材を受けるはめになったのだ。このことはテレビでも報道され、実名は公表されなかったけれど、僕は有名人になってしまった。
友達も、先生も、近所の知り合いも……みんな、僕から離れていった。総司や千春の両親からは散々詰られ、殴られ、僕の家族ですら、口を利いてきれなくなった。
総司の居場所を奪った僕は、自分のそれも、呆気なく喪失したのだ。
「今日も……教室に居辛くて、それで抜け出してきたんだ」
「そっか。……ところで、結局比津千春ちゃんは、どうして河合総司くんとの日々をなかったことにしようとしたの?」
「僕に分かるのは、千春が総司のことを疎ましく思っていたことだけだ。もちろん友達としては好きだったと思う。けれど恋人になって、さらにお互いの内面へ踏み込むようになると……千春は自由奔放な奴で、一方の総司は真面目な、悪く言えば堅物な奴だったから……きっと、総司の堅苦しさは、千春にとってすごく窮屈だったんだと思う。そんなことを、よく僕に零していたよ」
「そっか……」
加名が切なげに瞳を揺らす。どんなことを考えているのだろうか。
「僕から話せるのは、こんなところだよ。マスコミに流すかどうかは君の自由だけど、大した報酬はないと思うよ。初めて話すことでもないし」
自嘲気味にそう言うと、加名は苦笑した。可愛い苦笑だった。
「そんなこと、しないよ」
そして、その白い手を、僕の頬に重ねる。時計塔の柱に阻まれ、後退できない。
いや……後退ることを、僕は拒否していた。
「辛かったんだね、志人くん。君は彼女を愛しただけだったのに……みんな、君を責めて。かわいそうな志人くん……」
胸が張り裂けるような、陽炎のような瞳だった。
心が梳かされる。
ああ、久しぶりに見た。こんな暖かな表情を。こんなにも安らかな瞳を。事情を知っていてなお、僕に優しさを向けてくれる人間が、まだこの世に存在したのか。
死神だとか使命だとか、ただの一つも理解できない。けれど、そんなことはどうだっていいのだ。彼女の笑顔は、あの記者たちのそれとは違うものだ。一目で分かる違いがあった。僕には分かる。
……そう確信してしまうほど、僕は人の温もりに飢えていた。
彼女の幻想のような声音が、僕を包み込む。彼女は僕を、その胸に抱き寄せた。
「もう、辛い思いをしなくていいよ……私が、あなたを苦しみから解き放ってあげる」
「加名……」
僕の呟きは自分でも笑ってしまうほどに弱々しい。彼女にほだされてしまったらしかった。
「あんたは、何者なんだ……? どうして、そんなに僕を……」
想ってくれるのか、と訊きたかった。けれど、彼女は僕の頭を撫でながら、それを遮る。
「どう、志人くん。これで少しは、救われてくれたかな」
「ああ……」
少しどころじゃない。味方なんて一人もいないと思っていたのに、彼女は自分から名乗り出たのだ。
彼女のことを訝しむ感情など、僕はすでに捨て去っていた。疑えるはずもない。彼女は心から、僕を想って抱きしめてくれているのだ。
このまま二人で、どこか遠くへ行きたい。そう思ってさえいる。
「加名……ありがとう。本当に感謝してる。なにか、僕にできることはないかな? なんでもいい、なにか願い事を言ってみてよ」
「本当? 私のお願い、聞いてくれる?」
僕は大きく頷く。抱き合っているから、彼女の表情は分からない。けれどきっと、微笑んでくれているに違いない。そうに、決まってる。
「そうだなぁ……ほら、私は死神だって言ったでしょ。死神が願うことと言ったら……」
「……死んでよ、名取志人」
問い質す暇など、ない。僕はただ、目を見開くだけだった。
彼女が僕を突き飛ばす。僕はよろけて、みたび身体を雨に打たれる。
「……?」
なんだろう。この、僕の腹に突き刺さった銀色のこれは……。
声にならない吐息と共に、僕は地面に倒れ臥した。
歪な……真っ黒な笑顔で僕に覆い被さる、加名。彼女は僕に刺さったソレを抜いては刺す。刺す、刺す、刺す、刺す、刺す……!
「ねぇねぇねぇねぇ救われた? 救われた? ねぇ救われた、志人くん? ねぇ、どうなの、救われた? どう、気分は、殺される気分は? 絶望してる? 絶望してるよね? 絶望してるんだよね? 本当に救われたと思ったでしょ? 私が、あなたを助けるって、そう思ったでしょ?」
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいイタイイタイイタイイタイイタイ!!
ぼんやりとした頭が、痛みだけを如実に伝えてくる。滅多刺しって、きっとこれだ。でも、どうして僕が刺されているのだろう? なにも考えられない。なにも、なにも。
彼女は意味不明な言葉を羅列させながら、僕を刺し続ける。
「どう? どう? どうなの志人くん? どうしてって思ってる? どうしてこんなことされるんだって? けど、けれどね、志人くん、君が悪いんだ、全部、君が悪いんだ。私はね、真相を確かめに来たの、千春が死んだ理由を、総司くんが死んだ理由を、君がのうのうと生きてるワケを! 分かったよ、全部聞いて分かったよ、やっぱり君は、君はね、これ以上ないくらい、最低の、クズだよ、ゴミだよ、そんな君が、生きてていいわけないよ、そうでしょ、そうでしょ、志人くん!!」
「……な、んで」
ようやく搾り出された瀕死の呟き。それに、彼女は笑顔で応えた。
「あれぇ? まだ思い出さない? じゃあ大ヒント! ねぇ志人くん、私の名前、覚えてる? 覚えてるよね? それを、逆から言ってみて?」
「カ、ナ、ナツ、ヒ……」
……ヒ、ツ、ナ、ナ、カ。ひつ……比津……?
なんだ。どうして彼女が僕を殺すのか。それは、簡単なことだった。
比津奈々加……それは、千春の従妹の名前……。
「ひ、さし、ぶりだから……」
気づかなかったよ。そっか。灰色の三つ編みとカラコンは、変装だったんだね。使命というのは、僕を殺すことだったんだね。全部分かったよ。すっきりしたよ。
答えは簡単だった。彼女は、真相を確かめに来たんだ。確かに彼女の笑顔の意味は、記者のそれとは違った。僕の勘は、決して間違ってはいなかったんだ。
偶然訪れた公園で、偶然僕を殺しに来た死神に出会うなんて、今日はなんてついてないんだろう……。
もうなにも見えない。なにも聞こえない。
ああ、僕は……。
「はぁ……はぁ……やっと、死んだ? 君は地獄行きだよ、志人くん。多分、千春も……だから、二人仲良く地獄を楽しみなよ……あは、ははは、二人して、私の大好きな総司くんを殺した罪、ちゃんと償ってよねぇ、あははははは……はははははははははははははははははっ!! ああ、そうだ……ねぇ、志人くん、私ね、一目見たときから……」
加名は呟きながら、立ち上がる。かつて人だったものを見下ろして、楽しそうに。
「君のこと、大嫌いだったよ」
はじめまして、夏川はちです。お楽しみ頂けたでしょうか。
家の整理をしていたら中学時代に書いた小説が出て来まして、せっかくなので読んでもらえたらなぁと思いました。
文章力に関しては中学生ということで、お手柔らかにお願いします。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。




