王の座
【お嬢様 悪治物語】は天使で、いえ、あくまで五十界が舞台の、架空とされるお話です(ᐢ ᵕ ᐢ)。
王様と云っても、好き勝手は出来ません。
偉い人は、その振る舞いが立派だから偉いのであって、好き勝手(立派ではない振る舞い)したら、その座から外れてしまう(偉い人とは言えない)からです。
勿論、役得はあるでしょう。
しかし、プラトン『国家』での「国家の船」の比喩の水夫 (政治家)達のように、役得ばかり求めて好き勝手していたら『良く治める』なんて実現不可能です。
「末法の世とは地の上に大将の器無くなりてゐることざぞ」(ひふみ神示)
まさにその通りで、(民の為に治める)真の治めるモノがいない事が世の乱れになるのです。
プラトン『国家』では、「その呼び名にふさわしい振る舞いをした場合のみ、その呼び名の者とみなす」→厳密論
ひふみ神示では、「口と心と行と、三つ揃うたまことを」→「命といふぞ」
上記の二つの文は、言い方はそれぞれ違いますが同じ者(全て一致)を指しており、「国家の船」の比喩の水夫 (政治家)達がそれに該当しない事は明らかです。
厳密論では、(厳密な意味での)支配者とは被支配者(民衆)を世話する者なので、それ故に金銭・名誉などの「報酬」が、別に与えられなければ支配者の地位には就かないと結んでいます。
「現・違世界」においても、裕福ではない自治体で議員割れが起きるのは役得やその報酬に魅力を感じないのが原因かも知れません。
「現・違世界」は数多の問題があるので以降に譲り、ここでは、従わせる(意のままに操る)為の『悪癖』が全て取り除かれた「新・違世界」の話に移ります。
とある最愚最弱者が王に就いたナロウ国では、もちろん厳密な意味での支配(民の為の良治)とします。
そして、目的を果たしたならさっさと退位して、最愚最弱者に戻ります。
なぜなら、王(治めるモノ)として甚だ不適格だからです。
民衆が治めるモノに望むものは一つ、良く治める事。上手く治める事です。
それには治めるモノが優秀であることが必須ですが、それがないのが一つ。
そして、就任当初は(民衆が)味方したくれたとしても、その内に上手く治めて当たり前と思われる事は避けられないので、それでも民衆の為に治めるには民衆が喜ぶ事・幸せになる事が(本当の意味で)己の喜びとして感じられなければ、永くはとても勤め上げられないと私は思います。
これは、明らかに私にはないものです(他人の有無は全く解りませんが、自身にないことだけは解る(ᐢ ᵕ ᐢ))。
例え、あったとしても、他人の幸せを喜べるのは自分が十分に幸せでないと無理です(人が出来ていないので)。
そもそも、私は自身で手一杯(それも良く出来て。最愚最弱者たる由縁です(ᐢ ᵕ ᐢ))。
ひふみ神示に出会う前は、自分さえ良ければと本当に思っていました。
少し、脱線が過ぎたようです。
最終的にはここ数行はカットするかも知れませんが、運悪く目にされた方はこのライブ感?をお楽しみ下さい。
おそらく、次の更新は木曜日以降になります(ᐢ ᵕ ᐢ)。