Dithyramb 2.0 part 1
絶つべきぞ、「生の秘薬」を絶つべきぞ、
ありとする「後の思」におぢけさし、
かよわなる盞の塵となるとき、
聖き酒飲む望われをさそへば。
ルバイヤート/オマル・ハイヤーム/竹友藻風訳
「ウイスキーが飲みたい」
形の良い唇を尖らせ、ルル・ベルがそう言った。幼さの残る仕草に現れているように、ルル・ベルの外見は未成熟だ。低い身長に、凹凸の少ない体躯。長いまつ毛に大きな瞳、色つやの良い頬は緩く弧を描いている。少女を彷彿とさせる見てくれのルル・ベルが飲酒を望むのだから、どこかデカダンに感じられる。
しかし、その実、私──松本清志郎よりも長じているらしい。魔術か化粧の類か、いずれにせよ化けた女を信じる道理などない。
私は、適当に話を合わせることにした。
「酒なら、ほれ、アビスがどこぞからガメてきたのがあるだろ」
「醸造酒だし、あんま美味くねぇけどな。今年は不作だ」
不細工な瓶を鋭角に傾けて、アビスが赤い酒精を飲み干した。野卑な仕事で糊口をしのぐアビスは、その職業柄、出自の知れぬ金品を持ち帰ってくる。目端が利かぬ性分のためか、十把一絡げ、玉石混交の品々だ。それらを家賃の代わりだと言うのだからたまらない。
ルル・ベルとアビスは、私の同居人だ。
「アタシは醸造酒じゃなくて、蒸留酒が飲みたいんだ!」
「そういや久しく飲んでねぇな。マツキヨ。客から都合できねぇのか?」
アビスが、私のことをマツキヨと呼んだ。仲間内で通じるあだ名だ。松本のマツ、清志郎のキヨ、姓名を縮めてマツキヨと呼ばれている。
「いや。聞いたこともない。表でも裏でも、流通していないんじゃないか」
「その通り。ないんだよ」
なぜかルル・ベルが、自慢げに言った。
「いや。正確には発展していないと言った方が良いか」
「蒸留する技術はあるだろ。錬金術師がいるくらいだし」
私の指摘に対して、ルル・ベルがいかにも大儀そうに首肯した。
錬金術は、この世界に今なお実在する。オカルトの類ではなく、今世における最先端の一端を担う学問として権勢を誇ってさえいる。金の精製は、今や確立された技術と理論によって再現性のある、ありふれた御業だ。聞くところによると、錬金術師界隈における昨今のホットな研究課題と言えば、精製した金属から『力』を産出することだそうな。扱い慣れた金から莫大なエネルギーを産出する日も近いと嘯く錬金術師もいる。
そんな錬金術師達が蒸留器を発明したのは、何百年も前のことだ。蒸留することにより雑味が取れ上品な味わいになることから、当然、醸造酒もまた蒸留された。生命の水──ウイスキーの誕生である。
引き継ぐように、アビスが口を開いた。
「つまり蒸留されただけの酒ではなく、樽で貯蔵され、熟成されたウイスキーが飲みたいってことか」
「それだけじゃなし、グレーンもブレンデッドも──と言いたいとこだが、まずはそうだね、モルトだ」
大麦の麦芽を主原料とし、樽に長期間の貯蔵することによって熟成されたウイスキーをモルトという。
「麦芽も樽も簡単に手に入る。蒸留器もある。しかし発展していない。ワインは貯蔵されるというのに、樽で何十年と熟成されたウイスキーが、この世にはない。マツキヨ。なぜだと思うね?」
「俺が知るかよ。たまたまだろ」
「考える素ぶりくらい、したらどうだい。アビスは?」
「流行らなかったんじゃねぇの。買うヤツがいなけりゃ、廃れっちまうだろ」
「なるほど。目の付け所は良い。が、事実は反対だ」
ルル・ベルが細い人差し指を立てて、くるりと回した。反対の意を表すジェスチャーか。
「天使の分け前、という言葉があってだな。我々が以前にいた世界では、ウイスキーを長期間、樽で貯蔵しておくと、いつの間にやら幾分か『かさ』が減っちまう。これを天使の分け前と呼んでいる」
あくまでも以前いた世界の話だが──とルル・ベルが付け加えた。
水分の蒸発だ何だと長広舌による説明が続くが、その勿体ぶる態度に私は辟易した。見ればアビスも同じようだ。早々に結論を開陳してほしいものである。
「さて、今世ではどうか。長いこと保存すると、同様に生産量が減っちまう。ただし、減っちまう量ってのが段違いだ。全部なくなっちまうんだからね」
「気候かなんぞかの影響で、全部、蒸発するってことか?」
「違う。貯蔵している間に、大の好事家が全部飲んじまうんだよ。全部の樽が絡げて瞬時に飲まれっちまう」
「飲むってオマエ。ウイスキーって、アルコール度数40%前後だろ。それを全量たいらげるって」
「しかも蒸留所を選ばず、だ。この世界のウイスキーは、貯蔵の段階で誰ぞかが、全部、例外なく、飲み干しちまうんだよ」
「そんなバカなことあるか」
「大した『虎』がいたもんだ」
アビスがまぜっかえした。場所も量も時間も関係なく、貯蔵されたウイスキー全てを飲み干すなど、およそ人の成せる業ではない。
話を戻すため、私は至極真っ当な指摘をした。
「そんな鯨飲馬食のヤカラがいるかよ。いるんだったら隠すか、守るか、あるいは取り締まれば良いだけじゃないか」
「人の社会であれば、それもよかろう。だが、相手は神様だ。簡単な話じゃない」
図らずも私はアビスと揃って、嗚呼と声を漏らした。人智を超える所業も、相手が神ならば納得である。赤子の手を捻るように、奇跡と称して人間社会に爪痕を残すに違いない。
頭を抱えつつ、私は嘆いた。
「今度の相手は酒の神ってことか」
「理解が早くて助かる。アビスと一緒に酒の神Dのもとに行って、人の上前を撥ねるなと交渉してきてほしい」
「交渉が決裂したら──」
「いつも通りアビスが殴って調伏しておくれ。アタシは熟成にかかる時間を解決する。神と時間が解決したら、ブレンダーの用意に取り掛かろう。以上。質問はあるかね」
超常存在との交渉を任され、私は胃がひっくり返りそうな気分だった。経験がない訳ではない。今回のような無茶ぶりから、人の理解の外で蠢く怪物と接したことは幾度かある。あるにはあるが、そのたびに正気を失いかけ、話の通じないまま不興を買い、逆鱗に触れ、向けられる敵意を正面からアビスに叩き潰してもらうということを繰り返している。
嫌気が顔に出たか、私を見てルル・ベルがにんまりと笑った。大方、私の腹の内など、とうの昔に検討がついているに違いない。その上で、厭味ったらしく、かつ陰険に、小出しで話を進めるのだからなおのこと良い気がしない。
なぁ──とルル・ベルが、粘着質に言った。
「上手く行ったら、アンタのお客様にも流通がせる。医薬の真似事以外にも日々のたつきを得られよう」
「マツキヨ。しけたツラしてんなぁ。サクっと終わらせて、美味い酒のんで何もかんも忘れっちまおうぜ」
「しかしアビス──」
「しかしも案山子もあるかよ。酒は憂いの玉箒っつぅじゃねぇか」
なぁ──とアビスもまた、意気軒昂に言った。ルル・ベルの妖しい視線と、アビスの炯々とした眼光が、私の双眸と交わる。
声が枯れた。
呻くように声を絞り出すだけで精一杯だった。我が意など、一抹もない。いつだってなし崩しだ。それは転移する前の世界でも、転移した後の今の世界でも同じこと。埋まった外堀と、少ない選択肢の狭間でふらふらとさまようだけの不自由さに、いつだって縛られている。
私はただ、ああだかうむだかと生返事をした。
「ほいじゃま、よろしくね」
亀裂のような笑みを浮かべるルル・ベルが、ひらひらと手を振った。揺れ動く手の向こうから寄越される妖しい視線が、私を捕えて離さない。薄く赤い睫線に縁どられた真っ黒い瞳に、目を奪われていた次の瞬間──
「いってらっしゃいな」
躁病染みたルル・ベルの声と同時に視界が暗転し、私とアビスは神の元へと転送された。
お目通しいただき、ありがとうございます。
さて。
うつ病の治療中、医者に言われた訳でもなく減酒につとめました。
時間を持て余した私は、好物のウイスキーに関する本やら詩集やらに目を通しました。
その結果が、今作です。
おいおい続きを書きます。
今一度お付き合いいただけると幸いです。
今後とも、よろしくお願いいたします。