第九話 木沢長政、本願寺との折衝を拝命す
三好・畠山連合軍が一向一揆の襲撃により壊滅してから五日後。
木沢長政は飯盛城で戦後の処理に当たりながら、身の内にふつふつと湧き上がるものを持て余していた。
「下剋上、下剋上」
繰り返し、その言葉をつぶやいている。
強大な敵であった三好元長は死んだ。主君である畠山義堯も。
二人の死によって、木沢長政の将来は大きく開けた。
己を縛るくびきが、突然解かれたような、得も言われぬ快感。
「これが、下剋上か」
そう口に出すことで、解放のよろこびを何度も反芻しているのである。
そんな中、飯盛城に二人の使者が送られてきた。
細川六郎からの使者である。
一人は三好宗三。もう一人は細川一門の細川可竹軒周聡である。
この二人に木沢長政を加えた三人が、細川六郎の「御前衆」と呼ばれる側近たちであった。
「木沢殿、此度の奮闘、まことにご苦労」
三好宗三は、ゆるゆると扇子を使いながらそう言った。
七月の末である。湿地の多い摂津の気候は、蒸し返るような暑さであった。
しかし宗三は、風が立つか立たぬかほどにしか扇子を動かしていない。
暑さよりも、道具の傷むことのほうが気になるらしい。
「はっ。わざわざのご足労、痛み入り申す」
木沢長政は、威儀を正して応じる。
この二人が揃って現れるということは、ただ戦勝の労いであるわけがなかった。
「すでにご存知のことと思いますが、三好元長が死にました」
宗三はそう言って、ちらりと長政の顔を見た。
「祝着にござる!」
長政は、あえて大声でそう答えた。
三好元長も木沢長政も、細川家にとってはいずれも家臣である。タテマエの上では、元長の死が細川家にとって祝着であろうはずがない。しかも、目の前の宗三にとって、元長は同じ三好の血族である。
それはわかったうえで、あえて「祝着」と断言した。
宗三は当然それに気づき、少し眉を動かしたものの、すぐに話題を移す。
「……本日我らが参ったのは、別件について議すため。木沢殿が動員せし本願寺一揆勢について」
宗三は「木沢殿が」と言った。
長政からすれば心外なことだ。
長政は密約通り、飯盛城をひたすら守り、三好・畠山勢を引き付けていたに過ぎない。本願寺の門徒を動員することなど、できようはずもなかった。
長政は目を剥いたが、宗三は知らぬ顔で続けた。
「一揆勢は堺にて元長の首を得たようですが、本願寺も一枚岩ではない。奈良で一部の門徒が勝手に蜂起したとの報せが入っております。興福寺の衆徒を集めて筒井・越智らの手勢が迎撃に当たっておりますが、一揆方の狼藉すさまじく、大乗院はじめ興福寺の寺領が荒らされておるとの由」
「……言語道断にござるな」
長政がとりあえずの相槌を打つと、宗三はそれを拾って返す。
「他人事ではありません。奈良の門徒が蜂起したのは、元長の死によって今後は木沢殿が大和を支配することになるという風聞が原因ゆえ」
「なんだと!?」
長政にとって、これは寝耳に水であった。
長政はあくまで畠山氏の家臣であり、河内国飯盛城の城主に過ぎない。たしかに現在、その主君である畠山義堯は死に、彼の領国の支配権は空白になっているのだが……。
「それだけではない。武装した本願寺の門徒が、明日にも京に乱入するのではないかとの憶測も広がっています」
三好元長という大敵を葬り安心したのも束の間のこと。
状況は長政の考えているよりもずっと差し迫っているようだ。
長政は苦虫を嚙み潰したような顔で問う。
「それがしに何をせよと?」
「貴殿はこれより山科にて、本願寺宗主である証如殿と会い、説得に当たられよ。万事、首尾よくことを収め得たあかつきには、風説通り、大和国守護職相当の地位が与えられるでしょう」
要は、本願寺を動員した結果勝利を得たのは木沢長政であり、その責任を取って事態を収拾せよ、ということであろう。
無茶な要求ではあるが、提示された報酬は莫大なものだ。
無位無官の自分に対し、大和国守護職相当の地位とは。
長政の腹の中で、「げこくじょう」の言葉が渦を巻いていた。
「……承った。しかし……本願寺が退くと?」
長政の言葉を聞いて、これまで黙していた可竹軒周聡が、くっくと笑う。
「退かぬでもよい。数日稼げればそれでよいわさ」
まるで死人が口を開いたかのような、陰々滅々たる声音である。この老人は、細川家のいかなる家督についても継承権を持たないが、それゆえ六郎には絶大な信頼を寄せられている。
六郎の血筋なしにこの老人は権力を持ちえず、六郎による細川京兆家の継承こそが、この老人終生の望みであり願いであった。
「六郎様は、すでにお心を決められておる」
「……周聡殿、これは六郎様の下知にござるか。それとも御身の下知にござるか」
長政の声が低くなっている。
周聡はにやりと笑って答える。
「無論、六郎様のご意思よ。さにあらずとも、我が意思が六郎様の御為以外にありようがない」
二人の使者が城を去ってから、木沢長政はぼそりとつぶやいた。
「下剋上、下剋上……」