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第八話 お前の人生が長く慶ばしいものであるために

 元長が帰還したのは、久秀と千熊丸が堺に着いた翌日のことだった。大敗とのしらせを受けていた三好家中は、戻ってきた軍勢が意外に多いことで、安堵した者たちも多かった。

 三好屋敷で具足をいだ元長に、千熊丸は久秀をともなって面会した。


「父上、無事のお帰り祝着至極にございます! 兵たちも戦意十分なれば、堺にこもって一揆勢を迎撃しつつ、御味方(つの)らば、大勢一気に逆転いたしますな!」


 父を鼓舞するように楽観論を吐く千熊丸を見て、元長は笑った。


「千熊よ、貴様が生きておったのはうれしい誤算だ。どう生き延びた」


「これなるは摂津五百住の住人、松永久秀殿に。この御仁ごじんに助けられ申した」


 平服する久秀に、元長は言う。


「恩人よ、顔を見せてくれ」


 不思議な声だった。

 敗戦の直後だというのに覇気に満ち、それでいて穏やかに、人を包み込むような温かさを感じさせる。


 久秀はゆっくりと顔を上げた。

 元長が、しばしその顔を覗き込む。


けたと思ったが、一目いちもく、天下の目が残った。心以しんもって礼を言う。悪いが、報酬は後だ。しばし三好屋敷にご逗留めされよ」


 元長はそれだけ言うと、立ち上がって去った。

 久秀は、不安そうに父を見送る千熊丸の肩を叩いて言う。


「大した親父さんだ。後は任せようぜ」

「そうじゃ……そうじゃな。父上に任せよう」


 不穏な予感を拭うように、千熊丸は屋敷を案内して回る。

 久秀もまた、目にする名品の数々に大げさに驚き、努めて楽観的にふるまった。

 動き出した運命を押しとどめることができないことに、二人とも心のどこかで気づいていた。




 ―――半刻後、元長は顕本寺けんぽんじで堺の会合衆えごうしゅうと会見する。

 堺の衆論しゅうろんは割れていた。


「元長はん。会合衆はあんたはんを見捨パージするつもりはおまへんで。せやけど、本願寺が十万からの信徒を集めとるいう情報も入っておます。ここは三好家として、どう対応されはるつもりなんか、その見通し(ヴィジョン)をぜひお聞きしたい」


 会合衆を代表して元長に問うのは、まだ若い天王寺屋津田宗達である。


 三好家昵懇(じっこん)の商人として、宗達の立場は苦しい。

 元長をかばって堺が本願寺との対決姿勢を見せれば、莫大な数に膨れ上がった一揆勢は、堺の街ことごとくを破壊する危険があった。


「堺に一揆勢は入れさせない」


 元長の答えは簡潔だった。

 宗達の額に汗が浮かぶ。


「ど、どうやって?」


 答えは決まっている。方法はひとつしかなかった。


「おれが死ぬ。首を蓮淳れんじゅんにくれてやれ」


 会合衆の面々に、ざわめきが起こる。


「本願寺を牛耳る蓮淳という男は、ひどく執念深いやつだ。おれが生きたままでは、決して兵を退かんだろう」


 元長の直接的な言葉につられて、会合衆の一人が声を漏らした。


「細川はんは仲立ちしてくれへんのやろか……」


 元長は、その声のほうをぎろりと見て言う。


「六郎は動かん。蓮淳も、もはや六郎の言葉で矛を収めるつもりはない。無駄なことはするな」


 しばしの沈黙があった。

 それから、宗達が声を震わせて言った。


「元長はん……おおきに。堺はあんたはんから受けた恩を忘れまへんで」


「宗達、千熊丸を頼む」


 元長が去り、会合衆もやがて去った。

 宗達は、一人座ったまま、そこを動けなかった。


 英雄が死ぬ。

 その死に対し、商人である自分は、何も為すことができず、見捨てるしかない。

 この悔いを、自分は一生背負っていくことになるだろう。

 宗達はそう念じながら、一粒、悔し涙を落とした。




 翌朝、畠山義堯(よしたか)自害のしらせが堺にもたらされた。

 飯盛城の戦場からはなんとか離脱できたものの、元長同様に進退(きわ)まり、自刃に及んだという。


 同日、本願寺門徒が元長の籠る顕本寺けんぽんじかこむ。

 元長は寺に千熊丸を呼んだ。


「千熊丸よ」


「……はい。父上」


 応える千熊丸の目が、赤く腫れている。


「聡い子だ。聞く前から何を言われるか悟って、先に泣きはらして来たか」


 元長の声が優しい。

 それが、なおのこと千熊丸の悲しみを誘う。


「そばに来なさい。ほかに人はいない」


 元長は千熊丸を膝元に招くと、その頭を穏やかに撫でる。

 子の頬から涙が、ひと粒落ちた。


「千熊よ、おれはな、楽しかった」


 元長が言う。


「十九の齢から、持てる力のすべてを振るって、存分に闘った。勝って、勝って、短い間ではあったが、天下をこの手に握った」


 泣くまいと思っていた。

 千熊丸は、泣くまいと思っていたのだ。

 だが、賢い千熊丸は、父が別れの悲しみを少しでも和らげようとしてくれていることに気づかずにはいられない。

 その優しさに触れて、どうして泣かずにいられるだろうか。


 千熊丸の目から、涙があふれてくる。

 元長は我が子を抱き寄せ、言葉を続けた。


「お前はさまざまなものを背負うことになるだろう。すまない、その荷を軽くしてやることが、おれにはもうできない」


 千熊丸は、涙を拭って、父の顔を見つめた。

 元長が、言葉を続ける。


「だが、それは必ずしも苦しいばかりではないさ。おれがそうだったように、お前も存分に楽しんで生きろ。お前なら、おれよりもはるかに多くのものを見て、多くのものを手にするはずだ」


 千熊丸は、父の胸に顔を埋め、生まれて初めて、父にわがままを言った。


「父上、死んじゃいやだ。まだ父上と話したいことがたくさんある」


 元長は千熊丸を抱き上げて、その瞳をまっすぐに見つめる。


「千熊、これより、おれの死後に来るべき事態への処方を与える。お前の生きる道が、長くよろこばしいものであってほしい。おれがお前に望むのは、それだけだ」




 千熊丸が退がると、元長は顕本寺の住職を呼んだ。


「すまないな。寺を汚してしまう」


「何をおっしゃる……」


 住職は悲痛な表情で元長を見る。


「おれが死んだら、はらわたを引き出して、天井に投げつけてくれ。そうして、本願寺の僧兵が来たら、天井の血の跡を見せて、元長は悔しがって死んだと伝えてほしい」


 住職は面食らって、うめくように聞いた。


「何ゆえそんなことを」


「蓮淳の気が収まるようにだ。おれが従容しょうようとして死んだら、奴は気に入らないだろう。辞世も無いほうがいい」


「なんと、貴殿ほどの方が……」


 つい数日前までは、天下人と信じられていた人物である。

 宗門に追い立てられて腹を切るだけでなく、辞世すら無いなどということがあってよいのか。


「和尚、そんな顔をするな。これでも、死はこわい」


 元長は言葉とは裏腹にふふと笑いながら、控えている武士に声をかけた。


「そろそろ、やろうか」


 それからのことは、まるで能の演目のように、万事がするすると進んだ。

 腹を切るに当たってさえ、元長は余計な間を置かず、するりと刃を己の腹に差し込んだ。次の瞬間には、もう首が落ちていた。


 和尚は元長の首を清めようとして、生首を前に「あっ」と声を漏らした。

 まるで、眠っているような顔だった。

 顔に、まったく苦痛の色がないのである。

 

 三好元長という男は、どんなことでも涼しい顔でやってのけて人を驚かせる男だったが、死の瞬間まで涼しい顔をしている。


 いや、内心にはたぎるような熱情を抱えた男だったことを、和尚は知っている。

 人の三倍も四倍も、悔しさ、苦しさを抱え込んだ男でもあった。ただ、それを顔に出していては、生きておれない境遇だったのだ。

 そうしてついにこの男は、そういった感情を顔にまったく出さないまま、生涯を終えてしまった。


 この顔では、腸を引き出して天井にほうり投げたと言っても、誰も信じまい。

 そう思いつつも、和尚は血だまりに白布を浸し、それを丸めると、天井に向かって投げつけた。血が、天井からぽつり、ぽつりと滴り落ちる。

 それがこの奇妙な天才をあの世に送り出すのに、最も良いやり方のように思えたのだ。




 三好元長の死とともに、三好家では多くの重臣たちが自害を余儀なくされました。主君であるはずの細川六郎に裏切られ、当主を失った三好家は、絶体絶命の窮地に陥ります。

 次回以降はいったん敵方、木沢長政の視点に移り、急変する畿内の情勢を描いていきます。ここから十五話まで1万字強、長慶の人生の宿敵である細川晴元を描いていきます。主人公サイドの活躍はいったんお預けですが、従来の描かれ方とはまったく違う晴元の姿は本作の重要なコンセプトのひとつでもありますので、ぜひお楽しみください。

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