第七十七話 永禄の変 その2 義継の思考
「久通、そなたは三好家の最盛期をいつと見る?」
義継にそう問われて、久通は一瞬、はたと言葉を失った。
三好家の最盛期。
今がそうだと答えたいところだが、大英雄・長慶を失い、いずれも傑物であったその兄弟たちも次々と倒れ、将軍家との関係にも暗雲が兆し、今が最盛期とはとても考えられない。
しばし黙考したのち、久通は答えた。
「教興寺の戦、その直後でしょうか?」
これには客観的な理屈が立つ。
教興寺の戦いの直後、松永久秀が大和を制圧し、三好家はこれまでで最大の版図を確立した。その勢力圏は東端を大和、西端を東播磨としておよそ十カ国にまたがる広大な領域である。
支配領域が日本の中心部であり、動員可能兵力が日本最大であるのは無論のこと、面積で見てもこれに匹敵するのは関東の北条氏以外に存在しない。
しかし、義継は首を横に振った。
「たしかに版図は最大化した。しかし、三好実休、十河一存を失い、当主・長慶も病に侵され、以降の拡大方針を転換せざるを得なくなった。教興寺の戦いの時点で、すでに三好家は退潮にあったと言わざるを得ない」
「……では、殿はいつが最盛期であると?」
久通の問いに、義継が答える。
「弘治年間」
義継の答えに、久通は息を飲んだ。
弘治年間といえば、三好長慶が将軍義輝を朽木に追放し、《《三好家単独で畿内支配を実現していた時期》》のことである。
義継は言う。
「教興寺の戦いに勝利したことで、たしかに両細川の乱は終結した。畿内秩序は安定し、全国政権への足掛かりもできた。しかし、いつ再び大乱に逆戻りしてもおかしくはない状況だ。なぜかわかるか?」
久通は答える。
「……将軍の存在」
「そうだ。たとえ管領がおらずとも、将軍家が自家の権力拡大のために他の大名家と結託して三好家を敵視するようなことになれば、天下は再び大乱に陥る。将軍家の存在こそ、天下大乱の根本原因なのだ」
そして、義継ははっきりとその決意を口に出した。
「私は将軍のおらぬ世をつくろうと思う」
「しかし、将軍家が裏切る前に、こちらから手を出すには参りますまい」
「聞け、策がある」
この日から三好家中に、ある噂が流れるようになる。
将軍と三好家の関係が悪化しているのは、将軍の愛妾たる小侍従局が、三好家の悪口を夜な夜な将軍に吹き込んでいるからだというのである。
この噂は家中にたちまち広がり、特に若い武者たちの間でまことしやかに囁かれるようになった。
そして、永禄八年五月十九日。
清水寺に参詣していた義継のもとに、ひとつの報せがもたらされた。
将軍義輝が、密かに京から脱出しようとしたというのである。
義輝は奉公衆に連れ戻されたが、御成直前に京から逃げようとするなど、三好家を見限ったも同然であった。
「久通、かねて申し合わせの通りである。兵を出せ」
「はっ! 御意にございまする」
義継のもとに兵が続々と集まってくる。
若い将兵は、みな怒気を発している。
みな将軍に、義輝に対し、怒っているのである。
兵たちは松永久通の指揮のもと、整然として進行し、将軍の御所を囲んだ。
突然の事態に、三好長逸は狼狽し、具足もとらずに騎乗して駆けつけ、兵たちを鎮めようと声を張り上げる。
「何事か、乱妨は控えよ!」
しかし、怒り猛る兵たちは、かえって長逸に言い返した。
「御所巻にござる。ご当主もお認めあるぞ」
御所巻とは、室町期にたびたび見られた現象で、臣下が将軍御所を取り巻き、幕府に対し要求を突きつける、一種の強訴である。
三好兵は御所を囲むと、取次として矢面に立つ進士晴舎に要求を突きつけた。
その要求は「小侍従を殺害せよ」というものである。
小侍従の実父である進士晴舎に飲めるはずもない要求だが、晴舎がいかになだめても、兵たちは引かない。
混乱する奉公衆の中からは、晴舎を論難する者まで現れた。観念した晴舎は、義輝の前に進み出て言う。
「かかる事態は取次の失態。この責、我が首にて負いまする」
「何を言うか、こんなもの、言いがかりではないか!」
義輝は狼狽し、晴舎の切腹を押しとどめる。
将軍の前で、無理やりに腹を切るわけにはいかない。
晴舎は刃を収め、義輝に言う。
「……今一度、交渉に参りまする」
そうして、晴舎は下がった。
そのまま、腕の立つ配下の若い武者をひとり捕まえて命じた。
「介錯せよ」
「なんと申される! 交渉の余地はないのですか!?」
「無い。ここで無理に抗えば、将軍家と三好家の関係は決定的に決裂し、天下大乱へと逆戻りするであろう。我が首ひとつで百年の乱を鎮め得るなら、安いものだ」
そう言って、晴舎は庭に降りる。
土の上に無造作に座り、脇差を抜いた。
抜いた次の瞬間には、もう刃が腹に深く食い込んでいた。
「ごっ……御免!」
武者は刀を抜き、すかさず晴舎の首を落とした。
そうするしかなかった。
そうして武者は涙を流しながら、晴舎の首を抱えて門に出る。
「我が主君、進士晴舎、かように腹を切ってござる! お退きあれ!」
武者は進士晴舎の首を掲げ、そう叫んだ。
しかし、三好勢は収まらなかった。
「小侍従局はどうした!」
「毒婦の首をもて!」
若い武者は慄然として邸内に駆け戻る。
そしてそのまま将軍義輝の前に進み出て、ありのままを述べた。
ことここに至り、義輝は悟る。
「左京大夫は、予を殺すつもりであろう」
では、逃げるか?
いや、義継がもとより将軍を殺すつもりであれば、それも不可能であろう。
おそらくはそのための御所巻である。
どこから逃げ出しても、いきり立つ三好兵に取り囲まれる。
兵たちのこの憎しみようでは、場合によってはそのまま打ち殺されることもあり得るだろう。
「ならばせめて、戦って死ぬか」
刀を取り、戦いに出ようとする義輝を、母、慶寿院は泣いて引き留めたが、義輝は首を振るばかりであった。
間もなく御所に三好勢が乱入し、戦闘となる。
乱戦である。
邸内に侵入した三好兵が長刀を担いだ義輝を見つけ、刀を振り上げて威嚇する。
義輝は静かに言った。
「無礼者、予は将軍であるぞ」
兵は狼狽し、どうしてよいやらわからず、その場に平伏する。
義輝はその首を長刀で打ち落とした。
足利家重代の宝刀、骨喰藤四郎が血に濡れる。
「存外、簡単なものだな。首を取るというのは」
義輝はそうつぶやいて、次の犠牲者を探す。
「予は将軍であるぞ」
若い兵にそう言葉を投げつけると、兵は畏れ、またも平伏した。
超絶の家格。
恐るべき血の力。
貴種という魔力。
義輝は笑って長刀を振り上げ、二人目のいけにえを討ち取ろうとした。
その瞬間。
義輝の眉間を、矢が射抜いていた。
「……ぶれいもの」
それだけ言って、義輝は倒れた。
やがて邸内に火が放たれる。
失火であるか、放火であるかも不明である。
将軍の実母の慶寿院は火中に自ら身を投げて死に、小侍従は捕えられ、殺された。
出家して鹿苑院に入っていた義輝の実弟、周暠もまた、ここで殺害された。
将軍家再興を夢見て戦い続けた義輝は、その夢の実現を目の前にしながら、突如としてその生涯を閉じることとなったのである。




