第七十六話 永禄の変 その1 義輝の不信
あまりにも偉大な当主の死は隠されるものである。
三好長慶の死もまた、隠された。
多くの場合、その隠蔽は容易に破られるものだが、松永久秀と三好長逸という辣腕の政治家二人がこれを隠したことによって、三好長慶の死はおよそ一年の間、畿内の人々に知られることが無かった。
代わりに、風評が流れた。
松永久秀が三好家の家政を壟断し、主家を傀儡化しているというのである。三好長慶がぱたりと姿を見せなくなり、長慶名義の文書も発出されなくなったことから、この噂はある種の真実味を帯びてしまう。
無論、久秀は慣れたもので、その風評を意に介することもなかった。
しかし――。
永禄八年五月一日、三好義継は長逸、久通らとともに上洛し、義輝に謁見する。
義輝はかねて義継が要求していた通り、「義」字の偏諱を与え、左京大夫任官を認めた。
ここで、義継は義輝に、もうひとつのささやかな要望を申し出た。
「義興亡きあとも将軍家と三好家との変わらぬ紐帯を示したく、御成をば願い奉りまする」
将軍の三好邸御成。
それはかつて、三好義興と将軍義輝とが肝胆を相照らし、将軍家と三好家との同盟が強固なものとなる契機となった行事である。
偏諱授与ならびに官位昇格の御礼という建前であるが、義継としては義輝との間にある原因不明の緊張関係を解消したいという願いから出た企画であろう。
「……検討しよう」
義輝はこの申し出に即答を控えた。
しかし客観的に考えて、断る理由が見当たらない。三好家の面々はもちろん、幕臣たちも近日中に御成が行われるものと思い込んだ。
義継にも勇み足があった。
御成の実施に向けて、警護の兵一万を帯同して上洛していたのである。
御成の警固としては多すぎる軍勢であるが、長慶の死を隠しながらの上洛である。いつどのような不測の事態が発生するやもしれぬ中で、三好家の側から見れば当然の配慮であった。
しかし、義継の思惑は手痛い形で裏切られることになる。
義輝が御成の開催自体に難色を示したのである。
これでは、御成で義輝との関係改善を喧伝するどころか、開催前から義継は面目を失することになってしまう。
まさか断られるとは思いもしなかった長逸ら三好家臣は狼狽し、警護の諸将に「将軍家への攻撃の意志はない」旨の起請文を出させる事態となる。
三好家との取次を務める進士晴舎は、義輝に対し内々にその真意を問うた。
「公方様、三好家の申し出、筋は通っておりまする。ことさら拒否しては、左京大夫殿(義継)の面目を潰すことになりかねませぬ」
義輝は答える代わりに問いを返した。
「御成の場、なぜ洛外となる」
この問いに、晴舎は即答する。
「はっ、旧義興邸が昨月お取壊しとなったゆえ、此度はしかるべき場を洛外に設ける旨、三好家より事前の通達が……」
しかし義輝は、晴舎の答えを途中でさえぎって言う。
「なぜ義興邸を壊す。御成となれば、洛中の三好邸へと赴くが順当であろう」
この問いに、晴舎は答えられなかった。
事実としては、単純である。
このとき長慶の墓所となる大徳寺聚光院の建設が開始しており、その対価として旧義興邸は大徳寺に喜捨されていたのである。
なんの陰謀もそこにはなかった。
しかし、長慶の死そのものが伏せられていたために、この情報は将軍家にも届けられていない。結果、三好家の動きは奇妙に映ってしまう。
義輝が言う。
「巷の噂がある。松永弾正が病に伏せる長慶を傀儡とし、家政を壟断しておるとのことじゃ。そして義継の側近には、弾正の子、久通がついておる。さらには義興邸の破却。義興の方針をすべてがらりと塗り替えるつもりではあるまいか?」
そんなまさか。
晴舎はそう思ったが、即座に否定する材料を持ち合わせていなかった。
そして、十日ばかり過ぎた。
この間、御成実現に奔走したのは松永久通である。
進士晴舎をはじめ、奉公衆、公卿たちを説いて回り、なんとか周囲から義輝を説得してもらえるよう、頭を下げ、土下座もいとわず働きかけ続けた。
そうして、ようやく久通は義継に、御成出来を報じることができた。
「御成の件、なんとか実現できるようです」
言いながら、久通が差し出した条件は痛々しいものであった。
警固の兵数削減や出席者に関する注文など、こまごまとしたものはまだいい。
最大の問題は、予定地が当初の洛外から、将軍の実母である慶寿院の邸宅へと変更されたことである。
慶寿院邸であれば、三好家の施設ですらない。実質、将軍の別邸ではないか。
これでは、もはや御成といえるかすら疑わしい。
それでも義継は嫌な顔ひとつせず、まず久通に感謝を述べた。
「ありがとう。苦労を掛けたな」
「滅相もないこと」
久通が頭を下げると、義継はぽつりと言った。
「かつて将軍に問われたこと、考えてみた」
「……どのような天下を望むか、にございまするか」
かつて将軍はそれを義継に問い、その答えが将軍の不興を買った。
久通は、義継がそれを深く気に病んでいたことを知っていた。
「そうだ。私なりの答えが出た」
「お聞かせいただけまするか」
義継は声を落とし、久通にだけ聞こえるよう、頬を寄せて言う。
「将軍のいない世だ」
義継の瞳に、暗い火が灯っていた。




