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第七十五話 三好長慶

 安宅冬康の死から、二か月が過ぎた。


 久秀は三好長逸を飯盛城に呼び、事態の収拾を協議する。

 そして、安宅家を冬康の実子・神太郎が継承することを長慶の名のもと承認し、松浦家が手に入れた安宅家謀反にかかわる証拠の一切を召し上げ、焼却した。


 こうして安宅家謀反に関する一連の事態は、いかなる軍事行動にも発展せず収束したのである。

 しかし、長慶の病状は一気に深刻化し、ほとんど食事も摂れぬまま、意識の覚醒と昏睡を繰り返す状態が続いていた。


 そして、永禄七年(1564)七月。

 長慶はその日、久秀が見舞いに訪れたとき、静かに目を覚ました。


「久秀、そこにいるのか?」


「……! ああ、ここにいる。今、水を持たせよう」


「そうか……いや、水はよい。少し、お前と話したい」


「わかった。少し待て、墨を用意する」


 そう言って、久秀は硯を取る。


「何をしておる」


「まだ辞世を詠んでおらぬだろう。快復したらば捨てればよい、詠んでおけ」


 聞いて、長慶はくっくと笑った。


「やめろ、辞世など無用」


「お前ほどの男が、辞世もなしとは……」


「己の生涯を歌に込めるなどと気を張っては、よい歌などめぬものじゃ」


 久秀は硯を置き、長慶の顔をまじまじと見つめていった。


「長慶、おれにできることは、何かないのか」


「ならば落ち着いて、少しばかりわしの話相手をせよ」


 しばし、沈黙があった。

 久秀は長慶の言葉を待つ。


 長慶は、苦笑いして口を開いた。


「お前と話したいことが、たくさんある。たくさんありすぎて、選べそうにない」


「ならば……教えてくれ。長慶、なぜお前が死なねばならん」


 久秀は、胸の内をそのまま吐き出すように、言葉を吐いた。


「おれのような悪党が生き残り、お前のような英雄が死ぬ。義興のような、次代の名君になるはずだった若者が死ぬ。理不尽ではないか。世の者どもはまた、天道おそろしきことと、あたかもお前に非があったかのように言うだろう。なぜ天はそのようにむごいことをする」


 長慶は、歌を詠むときのように遠くを見つめ、それから静かに言った。


「天に意志などないよ、久秀。だからこそ、人の意志が尊いんじゃあないか」


 そうして、昔を懐かしむように、穏やかな声で続ける。


「天に道などないよ。わしらの歩んできたところを振り返ってみろ。道などないところばかり歩いてきたじゃないか」


 久秀の脳裏に、生涯の思い出が次々とよみがえってくる。


 最大の苦難であった教興寺の戦い。

 将軍の追放と朝廷との蜜月。

 細川晴元、三好宗三との戦い。

 細川氏綱に堺で包囲されたときのこと。

 木沢長政を討ったときのこと。

 本願寺との外交戦。

 そして、飯盛城での出会い。


 まさしく、道なき道を行く生涯であった。


「……ああ、その通りだ」


「久秀、窓を開けてくれ」


 長慶の言葉に、久秀が立ち、窓を開く。

 空は雲一つなく晴れ渡り、太陽が燦々と輝いていた。


「いい日じゃな、久秀。人は、あるいはわしのことを憐れむかもしれん。天下を手にしながら兄弟をみな失い、息子を失い、自らもまた志半ばで逝くのだと。後事を万全に整えていけぬのは残念じゃが、しかし、いま自分の生涯を振り返ってみて、どう考えても、悪い生涯とは思えぬ」


 長慶は瞑目して言う。


「どんなに困難なときも、どんな不運が襲ってきたときも、絶望はしなかった。何があっても、絶対に裏切らない友がいる。命の限り力を尽くしてくれる友がいる。そんな真の友をひとり得るというのは、天下を得るよりも、きっとずっと難しいことに違いない。ああ、そうだ。最後にどうしても、言っておかねばならぬことがある。千の歌を詠むよりも、これを伝えることのほうが、よほど大事だ」


「なんだ、長慶。言ってくれ」


 久秀は長慶のそばに寄り、やせ細ってしまった肩を支えた。

 長慶は閉じていた目を開き、久秀の目を見て言った。


「ありがとう、久秀。ずっとそばにいてくれて。それ以外に、言うべき言葉がもう見つからない」


 そう言って、長慶は笑った。

 笑ったまま、静かに目を閉じた。


 その目はもう、再び開かれることがなかった。

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