第七十四話 安宅冬康
永禄七年(1564)の春、長慶の体調は小康を取り戻し、宗養らを招いて小規模な歌会を開くまでに回復していた。
長慶は家督を義継へ譲ることを内外に通知するとともに、自らは政務を退き、飯盛城にて静養に努めている。
いまだ権力基盤に不安の残る義継のために、一日でも長くその猶予期間を設けるためである。
同時に、久秀もまた、政務の一線を退き、息子・久通に家督を譲った。
「政権が代替わりを円滑に成し遂げるとき、側近もまた代替わりを終えるもの」
軍学者・楠木正虎と儒学者・清原枝賢はそう久秀に忠言し、久秀自身が長慶に引退を申し出たのである。
この試みは奏功し、義継と久通の関係は急速に接近した。
特に久通は義継の才覚に惚れ込み、父と同じように自らの身命を賭けるに値する主君を得ることができたのを、素直に喜んだ。
その折のこと。
飯盛城に出仕した久秀は、いまや事務方の筆頭となった鳥養貞長に袖を掴まれ、奥まった部屋へと連れ込まれた。
「霜台殿、これを」
顔面蒼白の貞長が差し出したのは、和泉国・松浦氏の重臣たちが連署した密書である。
その内容は、容易ならざるものであった。
「馬鹿な、安宅家御謀反だと」
「しっ、声が大きゅうございます。殿に聞こえれば……」
貞長が激昂しそうになる久秀を制して言う。
たしかに、今の長慶の体調を考えれば、これを伝えるのは酷であった。
書状が真実であれば、もはやたった一人になってしまった実の兄弟の謀反である。嘘であったとしても、死んだ一存の子・万満丸が当主である松浦氏が、安宅家を誹謗する内紛となる。
久秀は声を落とし、貞長に問う。
「少し前、松浦氏から安宅家の臣による和泉領の横領を不服とする訴訟があった。この訴状も、家臣同士の軋轢による牽制ではないのか?」
「可能性としてはあり得ます。とはいえ、調べてもし何か出てくるようなことがあれば……」
その貞長の口ぶりからは、安宅家謀反という事実が出てきてもおかしくない、という言外の響きがあった。
考えてみれば、今でこそ安宅家は当主が唯一残った長慶の実弟であり、一門衆の中でも格別の地位が与えられているものの、義継政権となれば、その家格はあくまで一門の中で並び立つ一家とならざるを得ない。
しかも、大阪湾権益を間に挟んで和泉松浦家との家中対立があり、その松浦家の当主は、三好宗家新当主である義継の実弟なのである。
安宅家は、世代交代によって最も不利な立場に立たされる家とも言えた。
冷徹な目で見れば、こうした安宅家の行く末を憂い、長慶の死と同時に政権奪取を企てる者が安宅家中に出てもおかしくはない。
鳥養貞長は、そうした事情を懸念しているのであろう。
久秀は事情を飲み込み、貞長に言う。
「……わかった。だが、長慶の許し無く安宅家を取り調べることはできまい。おれから長慶に話そう」
「感謝いたしまする。霜台殿が頼りにございます」
貞長から書状を受け取ると、久秀は長慶への面会を願い出る。
体調が思わしくなければ日を改めると申し添えたものの、近習からは本日特にご快調の様子なればぜひ本日にとの回答があった。
「失礼仕る」
寝室に入ると、長慶は床から体を起こし、脇息にもたれて書を読んでいた。
近習たちの言う通り、小康状態であるらしい。
「久秀、何ぞあったか」
入るなり、長慶は久秀の表情から危急の報せであることを読み取り、人払いを命じた。
「わしを気遣う必要はない。申せ」
人が去ると、長慶は穏やかな声でそう言った。
久秀は、覚悟を決めて言う。
「和泉松浦氏より、重臣連署の書状が参った。その内容が」
「安宅家の謀反を報せてきたか」
長慶なりの気遣いであろう。
言いにくい事実を先回りして言われ、久秀はそうまで主君に気を遣わせてしまっていることで、かえって胸が痛かった。
「そうだ。まだ何の証拠も出てきてはいないが……」
「そう痛々しい顔をするな、案じてはいたことじゃ。しかし、重臣連署の訴状が来たとなれば、松浦家ではおそらく、相当の証拠を握っておる。先に義継から抱き込まず、わしに直接申してくるのは、自信の表れであろう」
久秀はひとまず、報告が長慶の病状に大きな影響を与えなかったことに安堵した。そして、対応を仰ぐ。
「では、どうする?」
「……冬康に会おう。飯盛城に呼び出してくれ。内密にな」
こうして、安宅冬康は飯盛城に召喚されることとなった。
その日、冬康はわずかな供回りとともに、ほとんど非武装で飯盛城を訪れると、供を外させて、一人で長慶の前に進み出た。
その場に同席するのは、事情を知る久秀と鳥養貞長、そして長慶のみである。
しかし、冬康はそれでもさらに、長慶と一対一での対話を望んだ。
これに鳥養貞長が難色を示す。
「それは、さすがに……」
貞長の反応は当然である。
安宅冬康は謀反を疑われているのだ。
謀反の容疑者と三好家当主を二人にすることなど、できるはずがない。
しかし、長慶はこれを受け入れる。
「よい。外せ」
貞長は久秀と顔を見合わせてうなずき、席を立った。
久秀もまた、部屋を出る。
出るときに、こう言い添えた。
「すぐ外に控えていよう。何かあれば呼んでくれ」
そう言って、久秀は座敷のすぐ外、板の間に坐した。
二人が外したのを見て、冬康が言う。
「面目次第もございませぬ。実休兄様の不在を補うどころか、己が家中すら掌握しきれず、かかる事態を招きました」
長慶は責めるよりもむしろ、労わるような目で弟を見て言う。
「やはり、謀反は事実か」
「左様に。すでに企てに加わりたる家臣一同には、腹を切らせました」
「ならばよい。後のことは任せよ、松浦家とはわしが話をつける」
長慶の言葉に、冬康は悲しげに首を振った。
「そうは参りませぬ。松浦家が手に入れたる謀反の連判状、その中に、我が子、神太郎の名がございまする」
言われて、長慶ですら言葉を失った。
冬康は続ける。
「かの連判状ある限り、安宅家の存続はあり得ませぬ。燃やしていただきとう存じます。その代価は、ここに」
言って、冬康はするりと脇差を抜いた。
長慶が止める間もなく、冬康は自らの腹に、その刃を突き立てる。
「馬鹿な、冬康、なぜじゃ!」
長慶が立ち上がると、冬康は苦悶の表情を浮かべながら、ぼそりとつぶやいた。
「実休兄と……帰郷を約しました……叶えられず……無念……」
冬康の口から、どろりと赤黒いものが零れた。
長慶は震える手で太刀を掴むと、大きく振りかぶり、弟の首に刀を振り下ろした。
ごとり、と、冬康の首が落ちる。
「どうした、長慶っ!」
声と物音にただならぬ気配を感じ、久秀が座敷に飛び込む。
長慶は、弟の返り血を浴びながら、立ったまま泣いていた。
「久秀……冬康を……弟を、葬ってやってくれ」
長慶はそう言って、血まみれの座敷に倒れた。
城中に、助けを求める久秀の悲痛な叫びが響いた。




