第七十三話 無名の男 その4 明智十兵衛光秀
男が京を訪れたのは、義継の将軍謁見から間もなくのことであった。
教興寺の戦いに敗れたのち、三箇サンチョの手当てを受けて近江へと落ち延びたものの、六角氏の衰勢は明らかであり、仕官などは望むべくもなかった。
久米田で三好実休が根来衆に討たれている以上、松永久秀のもとへ戻るわけにもいかない。
畿内は三好氏のもと大乱無く、傭兵としての働き口も尽きようとしている。
西か、東か、ともかく地方へと下るべきかもしれない。
しかし、男にはその選択もままならなかった。
地方こそより強烈な家格秩序の世界である。
地に根を張る国人たちが互いに複雑な権力構造を構成し、その利害関係を知悉した者だけが生き残る社会なのだ。
唯一の例外と言っていい小田原の後北条氏が成功を収めたのは、北条早雲こと伊勢宗瑞が、伊勢氏のもつ政所頭人としての行政・司法技術と、家格および中央との縁故を独占的に持ち込むことができたからにほかならない。
無名の男には、家格はもちろん、伊勢宗瑞のような行政・司法の知見も、中央との縁故もない。
兵卒として武功を挙げるほかないが、もはや彼も齢三十六を数えようとしていた。肉体的には、二十代の若い武者たちに比肩しようもない。
(このまま終わりたくない)
祈りにも似たその想いを胸に、京へと戻った男は、奇妙な噂を耳にする。
「進士晴舎が侍を募っておるらしい」
「なんじゃ、またどこぞで戦か?」
「否とよ。当主が代わって、三好家が心変わりするのを恐れておるのよ」
「阿波から公方を連れてくるてか? そんな時代遅れがあるものかね」
酒の入った男たちの、真偽定かならぬこぼれ話である。
それでも、男は一縷の望みをそこに見出した。
翌朝、ほとんど懇願するように進士氏の門を叩き、進士晴舎への面会を乞うた。門前払いしようとする窓口の侍に、今となっては彼の唯一の持ち物である根来の侍筒を袖の下として引き渡し、十日ののちになんとか面談の機会を得る。
そして、もはやここで仕官叶わねば自害するまでと臨んだ、面談の日。
進士晴舎は無名の男の話を意外なほど熱心に聞いた。
特に久米田の戦いと飯盛城包囲戦については、極めて細かな内容にまで質問を投げかけた。
「なるほど、どうやら貴殿が久米田と飯盛城で戦ったというのは、まことのことのようだ。その経験、是非に将軍のため、生かしていただきたいと思うが……」
男はその言葉に身が震えるほどの喜びを感じたが、晴舎が次に切り出した言葉は、男を奈落に突き落とすようなものだった。
「貴殿の出自、美濃国妻木氏の出というのは、嘘だな」
男が何か返答しようとするのをさえぎり、晴舎は言う。
「妻木城主、妻木広忠に一子あれど、嫡男が天文十年ころの生まれのはず。貴殿とは年が合わない」
男は言葉に詰まり、押し黙った。
晴舎が言う。
「政所を司る伊勢氏ほどではないが、私も今は将軍家の外交を預かる身。このくらいのことは、調べればわかる。いや、家格を問うつもりはない。しかし、名を偽る者を将軍のお側に仕えさせるわけにはいかない。まことの名を教えてほしい」
名を問われ、男はうめくように言った。
「……明智……明智十兵衛光秀と申しまする」
聞いて、晴舎は怪訝な顔をする。
「明智、とな。かつては奉公衆にも見られた名だが」
「嘘ではございませぬ!」
光秀、と名乗った男は言う。
「もとは美濃土岐氏の庶流にて、祖父の代に当時の守護、土岐成頼公との間に仔細あって美濃を出奔、近江に逃れたれども、活躍の場を得ることなく、家は落ちぶれて、父は傭兵稼業に生涯を費やしましてございまする。拙者もまた……」
弁明するかのように、一息に述べたところで、光秀の目から涙が零れた。
「こ、これは不覚。失礼を」
光秀は袖で涙を拭った。
しかしそれでも、涙は拭うそばからあふれてきて、止めることができない。
武士が出自を問われて涙とは、悲惨な失態である。
そう思えば思うほど、光秀の涙はその勢いを増し、嗚咽まで漏れ出た。
だが、進士晴舎はその涙に別のものを見た。
「……その涙、その苦悩。世を変える働きへと向かわば、あるいは千金の値となるやもしれぬ」
晴舎は静かに言う。
「かの三好長慶、父とともに八十余名の重臣を一度に失い、一門衆も彼を軽んじ、家を保つもままならぬ有様へと陥るも、松永霜台ら家格を持たぬ者ども、嫡流から外れし者どもを集めて己が力とし、ついには畿内を制覇するに至った。かかる三好家と伍するためには、貴殿のような者の力を取り込むことこそ肝要であろう」
歔欷を続けながら平伏する光秀に、晴舎は告げる。
「これより貴殿は将軍家の足軽衆である。誇りをもって、明智十兵衛を名乗られるがよろしかろう」
明智光秀。
日本史にあまりにも深く刻まれたその名が、ここにようやく出現するのである。




