第六十一話 永禄改元
弘治三年(1557)、後奈良帝が病により崩御し、正親町天皇が齢四十にして践祚する。
正親町天皇は、これにともなって改元を望んだ。
ここで朝廷は、ひとつの慣例との衝突を余儀なくされる。
すなわち、改元の際は幕府にその実施を相談し、承諾を得るというものである。
正親町天皇は状況を鑑みて、これを三好長慶と細川氏綱に打診した。
ことは単に改元というだけではない。
幕府が行うべき役割をも京兆家あるいは三好家が代行するとなれば、それは幕府の、そして将軍家の否定であった。
長慶と氏綱は会談に及び、この件を議した。
長慶はまず、穏当な策を言う。
「朝廷にはまず、慣例にならい幕府に申し入れていただく、という手もありまする」
氏綱は穏やかに微笑した。
「それも一計。されど、私はこれをよき落とし所ではないかと考えております」
「落とし所、と」
長慶が怪訝な顔をすると、氏綱は微笑を崩さずに答えた。
「左様。幕府は三好家の主導した改元を受け入れる。三好家は将軍の帰還を受け入れる。これにて和与といたすのが上策」
「……なるほど、落とし所としては、あり得るやもしれませぬ」
言いながら、長慶はしかし、眉をしかめた。
ここまで五年、将軍の権威なしに、三好家はよく畿内を治めてきた。ここで幕府と和睦し、将軍を京に入れるとなれば、この五年を実質的に巻き戻すことになる。
氏綱はそれを察し、自らの存念を述べた。
「お考えはわかります。しかしこの機会、両細川の乱終結、その最後の好機と私は見ております」
氏綱は言う。
京を押さえ、畿内を制したとはいえ、未だ晴元は将軍を擁しており、火種は残ったままである。
将軍権力の相対化のみを目指すのであれば、現状を維持し続けるのは理に適っているが、畿内静謐を実現できる機会を逸することとなる、と。
長慶は理解を示しつつも、最大の疑問をぶつけた。
「しかし、将軍との和睦が成ったとして、晴元殿が京兆家当主の座を諦めるとは思えませぬ」
「そのこと。私は、京兆家当主の座を、聡明丸殿に譲ろうと思う」
氏綱の言葉に、長慶は一瞬、言葉を失った。
聡明丸は晴元の嫡子である。
それを京兆家当主に据えるということは、晴元に家督を譲り渡すに等しいことであった。
「馬鹿げたことと思われるかな。しかし、筑前殿も見たはずです。京で打ち負かされ、敗走する晴元の軍に、民衆が悪口を浴びせる様を。両細川家の確執こそは、畿内騒乱を生む最大の原因であり、畢竟、これを終わらせることなしに畿内静謐はありえない。このままこれが続けば、民は細川を憎むこととなり、細川家そのものが天下にその居場所を失ってしまいます。私は、それをこそ避けたいのです」
氏綱はそう語り、それから、静かに頭を下げた。
「この五年、私は痛感した。長慶殿、貴殿に比べれば、我が才のなんと非力なることか。もし私に貴殿の半分も将器あらば、天下はかくも乱れておらなかったろう。将軍家との和睦が成った暁には、私は引退し、その家臣団をすべて貴殿に譲ろう。もはや細川の風下に立つことはない。貴殿が将軍を支え、天下を差配するべきだ。これは、細川京兆家当主として、最後の下命です」
氏綱は今、家来筋であったはずの長慶に平伏し、その力を譲り渡そうとしている。世間的に見れば、それは没落であり、旧弊な権力の敗北と映るだろう。
しかし、その姿に、長慶は偉大さすら感じていた。
権力を手放すこと。
それが為政者にとって、どれだけ選ぶのが難しい選択であることか。
長慶は同じく深く頭を下げ、その意を受けた。
「御意に候。この長慶、必ずや将軍家との和睦を成してご覧に入れまする」
かくて弘治四年、朝廷は幕府と議することなく、永禄への改元を行う。
当然、足利義輝はこれに激怒し、新元号の使用を拒否するとともに、五年ぶりの軍勢を募った。
義輝にとって、これは満を持しての決起というより、決起せざるを得なかったというほうが正しい。
あろうことか改元の二日前に、美濃国主・斎藤義龍が左京大夫に任官されたのである。
義龍が伊勢貞孝に周旋を依頼し、将軍の詮議を経ることなく朝廷に上奏され、官位が与えられてしまったのである。
しかも美濃斎藤家といえば、将軍を擁護する六角氏と対立する大名である。
時期といい相手といい、長慶の意向が働いていることは明らかであった。
一連の対応について、久秀は長慶に問う。
「右京兆殿との約定では、将軍家との和睦が目的じゃなかったのか? なぜあえて将軍を挑発するようなことをする?」
長慶ははっきりと答えた。
「いかにも、落とし所は和睦である。しかし絶対条件が二つある。ひとつは、晴元殿を幕政から排除すること。もうひとつは、三好が将軍の軍門に降る形ではなく、あくまで将軍が三好の支配する京へと入る形とすることだ。これらを実現するため、将軍の権威を可能な限り相対化する」
久秀はそのまま軍の編成を拝命し、芥川山を出た。すでに義輝は軍を動かし始めており、速度の要求される戦であった。
永禄元年六月。
義輝方は六角義賢の援軍を得て、およそ三千の軍を敏捷に動かし、緒戦を有利に展開する。石成友通と伊勢貞孝の籠もる将軍山城を睨む如意ヶ嶽に陣を敷くとともに、鹿ヶ谷周辺に放火を行い、圧力をかけた。
同時に、丹波の波多野氏と紀伊の根来寺を動かし、東西南の三方から挟撃の構えを見せる。
包囲の危険を察した友通と貞孝は、将軍山城を自焼して撤兵。義輝がこれを占拠したが、ほとんど同時に久秀と長逸の軍勢が到着し、如意ヶ嶽を占拠した。
奇妙なことに、両軍の位置が入れ替わる形となる。
長逸はその夜、久秀との軍議で所見を述べた。
「位置が入れ替わったことで、戦況は不安定になりましたな。おそらく明日、決戦となるでしょう。戦場は北白川あたりかと」
「ああ、この兵力差なら負けはない。だが、乱戦にはできない。打ち負かしてまた朽木に敗走させてしまっては、振り出しに戻っちまう。ほどよく勝つことが肝要だ」
長逸はうなずき、そして人を選ぶ。
「松山新介(重治)が適任でしょう。先手を彼に任せるがよろしいかと」
その期待に、重治はよく応えた。
重治は北白川の隘路で義輝の軍勢を受け止め、士卒の統率を崩さぬまま乱戦に持ち込ませず、敵七十騎ばかりを討ち取って退かせる。
これにより、義輝は将軍山に陣を構えたまま、戦は膠着状態となった。
さらに四国勢の先鋒として、近年、実休(之虎)の次世代腹心としてその頭角を現してきた三好康長が堺に上陸し、義輝方に兵力の面で圧力をかける。
これを見て、六角義賢は再び三好家と将軍家の和睦交渉仲介に乗り出したが、今回は三好方の動きが早かった。
石成友通は北白川での戦勝ののち、すぐさま晴元の実働部隊主力である三好宗渭に接触し、その武功を賞した。
「丹波にてかの名将、内藤国貞殿を討ち取りし一戦、敵ながら天晴。宗渭殿、為三殿のご兄弟の武名、家中にも響いてござる。その両将が未だ流寓の身とは、なんたる不幸。今、降っていただければ、正しく三好一門として遇すること、筑前殿よりしかと承ってござる」
父・宗三の無念を晴らさんとの想いから長慶に敵対を続けてきた宗渭であったが、朽木での五年の流寓は、その意志を枯らすのに十分な歳月であった。
もはや晴元に勝機は無いと悟った宗渭は、友通の申し出を承諾する。
晴元の剣は、ついに折れた。




