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第五十九話 無名の男 その2 斎藤利三

 弘治二年(1556)、初夏のころである。

 久秀のもとに、ひとりの男が仕官願いに訪れた。


 かつて六角定頼と将棋を指した、あの男である。

 あれから八年が経ったが、男はいまだ無名のままであった。


「妻木《つまき》三郎《さぶろう》と申しまする。出自は美濃国《みののくに》にございまするが、さる事情あって家を出ましてございまする」


 久秀は彼の名乗りを聞いて、少し眉を動かした。

 男の名乗りに、久秀のよく知るくせがあったからである。


 将軍を追い、畿内の独自支配を開始してから、長慶はますます貪欲に人材を登用している。中でも長慶が好んで取り立てるのは、地方国人の次男以下、家督継承権をもたず、才覚の生かしどころを失っている者たちであった。


 家格によらず登用されるとの評判を聞き、三好家に仕官する者たちは後を絶たない。そうして、中には出自を偽るものたちもいた。

 この男の名乗りには、出自を偽るものたちに特有の、ある種の雰囲気があった。


 久秀は、自分の横に座るひとりの若者に聞く。


「内蔵助《くらのすけ》、美濃出身といえば、同郷だな。」


 それを聞いて、妻木三郎を名乗る男は身をこわばらせる。

 まさか、美濃出身者がこの場にいるとは。

 また今度の仕官もかなわぬのか、と、くやしさに歯噛みした。


 利三と呼ばれた若者は、じっと男を見る。

 見られた男は、この若者の目に、深い知性の輝きを感じた。


 利三は男を見つめながら、何事かを考えているようだった。

 そして、よどみなく答えた。


「思い出しました。三郎殿とは初対面ですが、妻木城主・源二郎《げんじろう》殿とはお会いしたことがあります。言われてみれば、三郎殿の面差し、どことなく源二郎殿の面影を感じまする」


 男は、これを聞いて驚いた。

 利三が妻木源二郎(広忠《ひろただ》)と会ったことがあるというのは本当かもしれないが、その面影がこの男にもあるなどというのは、明らかに嘘である。


 もとより男は妻木氏と縁もゆかりもない出自であるが、六角氏への仕官に失敗してから、美濃国に下ったことがある。

 その際、妻木広忠と面識を得た。

 男の見たところ、広忠はいかにも実直で義理固そうな印象の人物で、自分とは似ても似つかなかった。

 だのに、この若者はなぜ、自分をかばうような嘘をつくのか。


 利三の答えを聞いた久秀は、笑って言う。


「はっは、そうかね。同郷人というのはいいものだ。これも何かの縁であろう、紹介しておこう。彼は斎藤内蔵助(くらのすけ)という」


「松山新介家臣、斎藤内蔵助利三(としみつ)です。以後、よしなに」


 斎藤利三(としみつ)。

 美濃出身であるが、実兄に奉公衆の石谷《いそがい》頼辰《よりたつ》がおり、その縁を頼って数年前に上京してきた。

 年のころ二十を過ぎたばかりだが、今は松山重治の家臣として、堺で四国との貿易管理に従事している。


 久秀は続けて、男にこう言った。


「三好家では家格にとらわれず若き人士を登用しているが、家格の代わりに才覚を重視する。この斎藤内蔵助の主《あるじ》は松山新介という男で、もとはおれの副官だが、小鞁《こつづみ》の名手でな。よく一緒に堺の豪商のとこへ軍資金の借銭願いに行ったが、新介が鼓を打つと場が盛り上がって、商人どもの財布のひもも緩んだもんだった」


 そう言って笑い、久秀は男に問う。


「妻木殿、貴殿もなにか、得意なことはおありかね?」


 問われて、男は目を輝かせた。

 面接が始まったのである。

 男は勢い込んで答える。


「はっ、歌を少々仕りまする!」


 三好家といえば、歌である。


 男は、三好家への仕官を考えてから、寺の住職に頼みこんで手に入るかぎりの歌集を借り、数千句におよぶ歌を諳んじた。

 そういう才と努力においては、人に抜きんでた男であった。


 しかし、話す相手が悪かった。


「ふむ、歌な。うん、歌はいい。最近の流行りでもあるし、畿内で人脈をつくるのに役立つだろう」


 久秀はそう言いながら、首をひねり、こう言った。


「ほかには?」


 男の落ち度ではない。

 しかし、こと久秀のもとに仕官するのであれば、歌は競合が多すぎた。

 滝山千句以来、久秀のもとには宗養を通じた人脈も集まっており、多少歌が詠める程度ではもはや注目に値する技能とは呼べなかった。


 男は歌の話題があっさりと流されたことに愕然としながら、しかし食い下がるわけにもいかず、とっさに思い浮かんだことを口に出す。


「て、鉄砲を少々」


「ほう、珍しいことだ。美濃ではまだ数が出回っておらぬだろう。どのくらい使う? 三十間離れた的を射抜けるかね?」


 言われて、男はあわてる。

 近江の国友村を訪ねて、鉄砲を習ったことは事実であるが、あくまで基本的な撃ち方を知っている程度で、遠当てなどはとうていおぼつかない。

 そもそも、素浪人程度の身分で自前の鉄砲を手に入れることなどできるはずがなかった。

 専門家集団である根来衆と対峙する久秀とは、温度感がまるで違う。


「い、いえ、撃ち方がわかる程度で」


「ふむ、しかしまあ、それでも貴重だ。ほかには?」


 男はもう、涙が出そうなほどの恥ずかしさに、このまま退出してしまいたくなったが、それでもひとつ、言葉が勝手に口を突いて出た。


「将棋を」


「ほう、将棋」


 聞いて、久秀の顔が、はじめて自然なほころびを見せた。


「一局、指してみようか」


 男が応じる間もなく、久秀は小姓を呼んで、盤と駒を持ってこさせる。

 もうこうなれば退くわけにはいかない。

 男はこの一局に命を賭ける気持ちで、勝負に臨んだ。


 しかし。


 久秀は初手から飛車を四間目に振り、あとはひたすら玉を固めていく。

 男は攻めどころを見出だせないまま、飛車角を互いに交換する将棋になったあとは、飛車を自陣の急所に打ち込まれ、まるで魔術のような手順でたちまち玉を追い詰められてしまう。


「……負けました」


 男はがっくりと肩を落とし、そう言った。

 男の将棋は、我流である。

 定跡もなにも知らない。


 9×9の盤面で四十個の駒を使う、いわゆる現代将棋の棋譜が確認できるのは、1600年ころの大橋宗桂の将棋が最古である。その棋譜ではすでに四間飛車、居飛車といった基本の戦法が出来上がっており、定跡化が進んでいたことがわかる。


 京でそうした最新の戦法に触れている久秀と、我流でしかない男とでは、もはや勝負にならなかった。


「なに、恥じることはない。おれは将棋なら、長慶にも六分で勝ち越している」


 そう言いながら、久秀は男の顔をじっとのぞき込んだ。


 この男には、何もない。

 名も偽りであろう。

 技能も、たしかな師について学んだものは何ひとつあるまい。

 すでに若くもなく、これから育てるわけにもいかない。

 野心のつよそうな人相をしており、手放しに信頼のできそうな男でもない。

 登用すべき人材ではなかった。


 しかし、どこか常人と異なるところがある。

 どこか、自分と同じ異能のにおいがする。


 そう久秀は感じた。

 そして、ひとつの結論を出す。


「妻木殿、ひとつ貴殿を試したい。貴殿に鉄砲一丁を与えよう。それと一筆、偽の紹介状を用意するから、それらを使って紀伊の根来寺に傭兵として潜入してほしい。そうして、彼らの戦法、戦術、砲術について、どのようなものでもかまわないから、持ち帰ってくれ。その成果次第では、相応の身分にて貴殿を召し抱えよう」


 男は、それを断らなかった。

 久秀は鉄砲一丁と、津田宗達に用意させた偽の紹介状を与えて、男を送り出す。


 戻ってくれば儲けものであるが、期待はしていない。

 ただ、自分と似たにおいを発するこの男が、これをきっかけに何かを開花させるかもしれない。そこに、淡い期待があった。




 もらった鉄砲一丁を担いで、男は迷っていた。

 言われたとおり、根来寺に行くべきか。


 しかし、命じられた内容、これはまさしく間者である。

 その背景が根来寺にばれてしまえば、殺されるかもしれない。

 鉄砲一丁をさっさと売り払い、逃げてしまうべきではないだろうか。


 そう思案しながら歩いていると、向こうに先ほどの若者の姿が見えた。

 斎藤内蔵助利三である。


 男は思わず駆け出し、声をかけた。


「斎藤殿!」


「……ああ、さきほどの。たしか、妻木三郎殿であったか」


 利三は笑顔で応じる。

 男は、聞かずにおれない問いを投げた。


「先ほど、なぜ拙者をかばわれたのです?」


「……かばった?」


 首をかしげる利三に、男は重ねて言う。


「妻木三郎という素性は、偽名にござる。貴殿も気づいておられたであろう。それなのに、上役の松永殿に嘘をついてまで拙者をかばわれた」


「うん。そうですな」


「なぜ、そのようなことを?」


 利三は少し考えてから、ゆっくりと答えた。


「家格というのが、きらいだからです」


「家格が……?」


「家格というのは、つまりどこの誰かということです。それだけでしかないのに、それがこの世ではもっとも重視される。どこの誰の子に生まれ、どのような教育を受けたか。そんなことで人の価値を測る。それがきらいなのです」


 利三の答えは簡潔であった。

 簡潔であったが、そこに、この若者の内面が、にじみ出ているようであった。


 幕府奉公衆の血族に生まれ、若くしてすでに能吏としての道を歩みはじめているこの若者が、しかし、目の前の何も持たぬ無名の男と同じ鬱屈を抱えているというのはどういうことであろう。


 利三は問われるでもなく、自分のことを語った。


「実は、今日、三好家を去るのです。松永殿には、そのご挨拶に伺った次第」


「なんと、なにゆえに!?」


「美濃で、変事がありました。国主・斎藤道三が、嫡男である義龍殿に討たれたのです」


 その変事は、男も知っていた。

 長良川の戦いと呼ばれる戦で斎藤道三は死に、その子・義龍が新たな美濃の国主となったという。


「道三の死後、尾張の織田信長が道三の女婿として、美濃の継承権を主張し、侵攻の機をうかがっているそうです。くだらない争いですが、そのせいで私にも召還状が。私自身は三好家に仕えていても、故郷には縁者たちがおり、彼らのことを考えれば、従わざるを得ません」


 今まさに天下を治めようとしている三好家から、いち地方の領土争いの渦中へ。

 未来に大志を抱く若者からすれば、己の前途を塞がれる思いであろう。


 どこに生まれたか。

 それが人生を決める。

 その理不尽に憤るこの若者の気持ちが、男にもわかる気がした。


 利三は言う。


「妻木殿、出世なされよ。私は貴殿を応援する」

 

 そう言う若者の目に、自分はどう映っているのであろう。

 男は、見栄を張らねばと思った。


「任せてください。実は、松永殿の密命あり、これより根来寺に参る次第。必ずや大功を挙げて、斎藤殿の分も出世してみせましょうぞ!」


 そうして、二人は笑った。

 笑って別れた。

 今生《こんじょう》、もう会うことはなかろうと、ふたりともが思っていた。


 男は、二度と会えぬはずの友を得て、紀伊国根来寺へと向かった。

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