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第五十七話 広橋保子

 久秀が清原枝賢から儒学の講義を受けているそのころ。

 将軍不在の京において、三好氏が朝廷の権威を求めるのと同時に、朝廷の側も実効性のある武家の政体を求めていた。


 長慶はこの変化を敏感に読み取り、氏綱家臣である今村いまむら慶満よしみつに対し禁裏御料所きんりごりょうしょ率分役所りつぶんやくしょの押領を停止させるなどして、朝廷の歳入を保護する手を打つ。


 その長慶の意図に応えるように、後奈良ごなら天皇は禁裏の修築について幕府を介さず、直接長慶と久秀に命じた。

 朝廷と三好氏の思惑は合致していた。


 この両者を取り結ぶ役目に選ばれ、朝廷側の取次役を担ったのが、武家伝奏ぶけてんそう広橋ひろはし国光くにみつである。

 そして、その対面として三好氏側の取次となったのが久秀であった。


「いや、先々代の之長ゆきながはんの頃は三好家言うたら、京では悪鬼羅刹のような集団と恐れられてはりましてな。松永はんと会うまで、私も内心、不安でしたわ。取次が松永はんのように話のわかるお人で、ほんまによかった」


 久秀との会談を終え、広橋国光はそう安堵の声を漏らした。

 国光は公家にしては気取らない男である。

 身なりも顔立ちも公家らしく整っていながら、どこかひょうげた独特の愛嬌があり、久秀にとっても話しやすい相手という印象であった。


「そうおっしゃっていただけるとありがたい。無作法の段も有るかもしれず、なにとぞご指導のほど、お願い申し上げる」


 そう謝して去ろうとする久秀を国光が引き止め、人を呼ぶ。

 間もなく、一人の女性が現れた。

 国光が女性を呼び寄せ、久秀に対座させて言う。


「妹です。三好家の重臣、松永はんや。ご挨拶しなはれ」


「松もじさま……」


 国光の妹という女性は、京で人々が久秀のことを噂するときの名を呟き、久秀の顔をじっとのぞき込んだ。

 それから、はっとした顔をして頭を下げた。


保子やすこにございます。ご武名はかねがね」


 年の頃は三十手前であろうか。

 兄よりもやや背が高く、すらりとした涼やかな美人であった。


「保子はさきの関白一条(いちじょう)兼冬かねふゆ殿に嫁いでおりましたけども、一条殿が一昨年、亡くならはりましてな。家に戻って、武家伝奏周りの仕事を手伝うてもろてます。松永はんにもお会いする機会は多くなると思いますゆえ、なにとぞよろしゅう」


 それから、久秀はにわかに多忙となった。


 担う庶務が広がったことに加え、実母が病に倒れたのである。

 その見舞いや治療の依頼に、それこそ畿内中を走り回った。


 久秀の実家はすでに家業を捨て、もとの摂津五百住から堺へと移住している。

 理玖と子は、摂津芥川山城に集住している。

 そして自身の居城は滝山である。


 滝山から長慶のいる芥川山、京、そして堺と、畿内を縦横に駆け回る日々である。


 その久秀が堺に滞在しているときのこと。

 東寺から妙薬を携えて来た使者が、松永邸を訪れた。


 久秀はこれを丁重に遇すべく、威儀を整え客間で使者を待った。

 しかし、その使者が姿を現すと、久秀は驚き、一瞬、礼法を忘れた。


「これは……」


「御無沙汰いたしております、松もじさま」


 広橋保子であった。


 公家や諸大名が、交流のある家の慰問などに女房衆を遣わすことは珍しくない。ときに女房たちの奉ずる女房奉書にょうぼうほうしょが、取次の奉書より威力を発することもある。


 とはいえ、朝廷から見れば陪臣の久秀への使者に、前関白の妻が訪れるのは、いかにも過剰であった。


 そのような疑問を、久秀がいたずらっぽく尋ねる。


「武家伝奏のお越しとは恐れ入る。何か、密命でも?」


「ちょうど、堺を見たいと思いまして」


 保子はくすりと笑いながら、そうはぐらかした。そして、「松もじさまは、お忙しいご様子」と切り返す。

 久秀は頭を掻いて応える。


「もう四十を過ぎたというのに、母の病でおたおたと。恥ずかしい」


「ふふ、お優しいこと。松もじさまと言えば、畿内随一の猛将とお聞きしておりましたのに。聞くのとお会いするのとでは、違うものでございますね」


 保子は笑い、それから、ふと何かに気づいたように尋ねた。


「もしかして、何かご不安が?」


 驚き、久秀は聞き返す。


「そのように見えましたか?」


「失礼ながら、そのような目をされておりました。優しき殿方は、心に影のあるとき、かえっておどけて見せるもの。でもそんなとき、必ず瞳に影が落ちます」


 久秀は改めて、新鮮な感覚で保子を見た。

 保子の知性の深いことは話せば誰でも気づくであろうが、わずか数度会ったに過ぎない人間の内心を洞察するというのは、生半なことではない。


 おそらくは、幼き頃より関白家の妻として、人の心の陰影深き世界を見てきたゆえに、自ずと身につけた力であろう。

 久秀は観念したように言った。


「母者が、死ぬのが怖いと申しましてな」


 そして、胸に詰まったものを吐き出すように続ける。


「死ぬのは怖い。当然のことだ。しかし、随分と長い間、おれはあえてそれを見ぬようにしていたような気がするのです」


 保子は穏やかな眼差しを向けたまま、久秀の言葉を聞いている。


「そう思うと、どうしても死なせたくない、なんとかしてたすけたい。居ても立っても居られなくなってしまった。これまで戦で殺した者たちを思えば、勝手なことだとは思うのだが、そう思えば思うほど、なおさら……」


 言葉に詰まる久秀に、保子が問う。


「死が、怖くなりましたか」


 それは、久秀の心の奥を、やさしく掬い上げるような声であった。

 久秀は思わず、その心情を吐き出してしまう。


「……そうだ。おれは、死が怖くなった。おれが死ぬのはいい。戦場で、長慶のために死ぬ。ずっとそう思っていた。だが、死はおれを直撃せず、おれの周りから、人を奪っていくのかもしれない。そう思ったら……」


 手で顔を覆う久秀の肩に、ふと保子の指が触れた。


「かなしい人。あなたも、誰かのためにしか生きられないのですね」


 しばしの間、柔らかな沈黙があった。

 それから久秀は首を振り、非礼を詫びた。


「大変な失礼をいたした、申し訳ない。どうかお忘れ願いたい」


「そんなことはありません。でも……忘れられないかも知れません」


 保子は、そう言って悲しげな微笑みを浮かべたまま、去っていった。

 久秀の母は、保子が持参した薬を飲むと、間もなく回復へと向かった。しかし久秀の中には、棘のように、抜き去れぬ何かが残った。

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