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第五十六話 滝山千句

 天文二十三年(1554)、三好長逸が長慶の命を受けて播磨はりまに出兵した。赤松あかまつ氏を援護して別所べっしょ氏を攻撃するためである。

 翌年一月には阿波から篠原長房らも播磨国明石(あかし)へ渡海する。

 長房は攻略戦の進捗を聞き、驚きをあらわにした。


「なんと日向殿(長逸)、すでに東播磨ひがしはりま一帯、ほぼ平定済みではございませぬか! 敵方の大将、別所就治(なりはる)は相当の名将と聞き、武者震いして乗り込んで参りましたのに!」


 長房の言葉はお世辞ではない。

 別所就治は名将といっていい。大国・尼子氏の攻撃をわずかの兵で押し返し、主家である赤松氏を圧倒する勢力にまでのし上がった人物である。

 大兵力を有するとはいえ、簡単に勝てる相手ではないはずだった。


 長逸は丸い顔に照れ笑いを浮かべて、頭をかきながら答えた。


「いや、それがしも驚いておりまする。とはいえ、特別な采配をしているわけではないのです。人のツテをたどって国人衆を説いてまわっておるばかりで」


 洛中制圧以降、長逸は長慶の代理として宮中向けの窓口を担当している。

 宮中では長逸の人柄が不思議と好まれた。

 長逸も朝廷の貴族たちから持ち込まれる相談事にいちいち細やかに対応し、良好な関係を築いている。


 そうした貴族たちが世話を焼いてもらった見返りとして長逸に与えるのが、人のツテであった。武力をもたない貴族たちは、しかし強力な人間関係の網を持っているのである。


 外部から強攻されれば反発する播磨の国人たちも、見知った顔をつないで内に入ってみれば、一枚岩ではない。

 長逸は朝廷人脈と、元長時代の赤松氏縁故の人脈を使いながら、ときに温和に、ときに武力を背景に、硬軟織り交ぜた外交で東播磨を切り崩していったのである。


「いや、お見事。残る要害は別所就治の籠る三木城のみでしょう」


 長房がそう切り出すと、長逸はずいっ、と膝を寄せて、力を込めて言った。


「そのことでございます。実は折り入ってお願いがございまする」


「なんと。なんなり申されませ」


「別所就治は切らぬことといたしとうござる」


 言われて、長房は思考を走らせる。 

 戦況は圧倒的に有利であり、力攻めしても三木城は落ちるだろう。この状況であえて別所就治を切らぬ利点はどこにあるか。


 もし別所氏を滅亡させれば、播磨を支配するのは赤松氏ということになる。

 しかし赤松氏はいまや、衰勢があきらかな大名だ。

 戦後、播磨の支配は不安定化する懸念があった。


 さらに三好家全体として見れば、必要以上に西へ勢力を伸ばすことで、毛利氏や尼子氏と全面戦争になる危険をともなう。 

 ならば、播磨を完全支配するよりも、緩衝地帯として勢力下に置いておくほうが賢明であろう。


「……なるほど、和議、ということでございますな。承り申した」


 長房の答えに、今度は長逸が驚く。


「なんと、まだ何も説明しておりませぬのに!」


「いや、言われてみれば理にかなっておりまする。しかし後学のため、なぜ別所氏を切らぬと決めたか、その理由を伺いたい」


 そう問われて、長逸は頭を掻いて答える。


「播磨の安定、周辺情勢などもろもろございまするが……そうですな。篠原殿はもうお察しのご様子。しいて言えば決め手は、人物にございます」


「人物?」


「播磨の国人たちの話を聞くに、別所就治という御仁、篠原殿のおっしゃる通りの名将に疑いございませぬ。もし自分が播磨の民であったなら、きっと別所殿に治めてほしい願うだろうと、そう思ったのでございまする」


 聞いて、長房は笑った。


「ふっ……はっはは、なるほど、民の気持ちになってみれば、せっかくの賢い殿様を切られるのは悲しかろうと、そういうわけでござるか!」


「や、やはり可笑しな理由でありましょうか?」


「いや、長房の思い及ばぬことにて、目を啓かれた思いにござる。三好家に智者多しといえども、まことの賢者は、日向殿のみかもしれぬ」


 長房はそう言って、深く頭を下げる。


「播磨計略、お見事にございまする。この長房、ならびに阿波衆、日向殿の指揮に従いますれば、いかようにもお使いください」


 かくて、三好家は赤松氏と別所氏の和議を締結させ、播磨国をも影響下に収めることに成功する。


 このとき生き延びた別所就治は再び勢威を盛り返し、東播磨を支配。やがてその孫である長治が織田信長の部将・羽柴秀吉と相対し、「三木の干殺し」と呼ばれる凄惨な籠城戦が繰り広げられることとなるが、それはまたのちの話である。




 版図が急拡大する中で、三好宗家の体制も変化していく。


 長慶は本拠地を越水城から摂津芥川山城へ移すとともに、兵庫津に近い滝山たきやまに城を築くよう、久秀に命じた。

 そしてこの滝山城が、摂津下郡(摂津西部)支配の拠点として、久秀に与えられた。


 そして、戦乱の天文から元号が変わり、弘治こうじへと時代も移ってゆく。


「久秀、滝山はどうじゃ」


 芥川山城に出仕した久秀に、長慶が問う。久秀は笑って答える。


「居心地がいいな。急な仕事が降ってこないし」


「ふむ、余裕があるようじゃ。では、とびきりに大きな仕事を与えよう」


「待て、冗談だろ?」


 久秀が問うと、長慶は真顔で応じる。


「冗談ではない。近く、千句連歌を主催したい。その開催地を、滝山とする」


「なんだと?」


「奉行は久秀に任せる。万事遺漏無きようにな」


 久秀は思いつく限りの文句を言ってみたが、長慶は取り合わない。

 久秀はさざえのような顔になって、新たな居城である滝山城へと帰っていった。




 久秀が滝山に戻ると、間もなく宗養が城を訪ねてきた。


「筑前様(長慶)より、松永様をお手伝いせよとの仰せにて」


 宗養はいつもの歌うような声で、そう久秀に告げる。

 連歌会の段取りについて議してみると、宗養の実務能力は驚くほど優れており、単に歌の巧さだけで尊崇されているわけではないことが知れた。


「しかし、必要なこととはいえ、連歌師ってのは多芸でなくちゃ務まらんな」


 摂津各地の訴訟を抱えつつ準備に当たる久秀がそうこぼすと、宗養は笑った。


「これもまた、人の心の機微にかかわることゆえ、学びになります」


「見上げたもんだ。おれにはとても真似できん」


 そう卑下する久秀を、宗養は不思議そうに見ながら尋ねる。


「松永様は、天下一の器用人とお聞きしました。しかし、歌ばかりは不得意と、なかなか連歌会には顔を出されぬとか」


「そりゃあ、どうしたって長慶……大殿と比べられるだろう。負けるとわかっていても、気分のいいもんじゃない」


 久秀がそう答えると、宗養はいかにも楽しげに笑った。


「はは、それは高望みというもの。歌道に身を捧げる者を除いては、武家に筑前様と比肩するような歌詠みはおられません」


 そうして、無邪気な笑顔でこう続けた。


「それより、連歌の席での筑前様のご様子をご覧なされませ。あれほど美しい姿は、きっとほかでお目にかかれませんよ」


 そして弘治二年(1556)、七月。

 亡父元長の二十五回忌を堺で終えた長慶と久秀は、共に海を渡り、滝山城に入る。観世かんぜ元忠もとただの能が披露され、続いて千句連歌がはじまった。


 夏の盛りである。


 滝山の城中でも特に風の通る涼やかな場所が選ばれたが、それでも酷暑に中座する者や、ぱたぱたと団扇を使う者などが見られる中、ただ一人、長慶はまるで暑さなど感じていないかのように、身じろぎもしない。


 もとより首から上に汗をかかぬ性質の男であったが、まるで体温の消えた人形のような佇まいである。暑さに耐えているというより、集中のあまり、暑さなど気にならなくなっているように見えた。


 久秀はその姿を見る内に、そこだけが氷室のように涼やかなのではあるまいかと思えてきた。


 すると、長慶はふと手を動かす。

 そして扇子を取り、音も立てずにゆるやかに使う。

 また置く。

 その置く場所が、畳の目ひとつのずれもなく、元通りの位置である。


 意識してそうしているのではない。

 長慶という男のくせである。

 歌に入り込むとき、身体の操作をまるで機械にでも預けてしまったかのように放心しつつ、しかもそれでいて一切乱れない。


 その仕草は、久秀ならずとも、この人物がなにか自分たちとは別の空間に生きる存在なのではなかろうかと思わせるものであった。

 後にその姿を見た細川藤孝(幽斎)は、連歌の際の所作としてこれを手本にしたとも伝えられている。


 このときの千句連歌は、後世、滝山千句と呼ばれ、長慶が摂津を確固たる版図として掌握したことを言祝ことほぎ、摂津の名所が歌に詠み込まれたことで知られている。

 自らの居城・滝山を詠んだ久秀の歌もまた、残っている。


 布引の はたはり広し 雪の瀧    松弾久 代 宗養


 残念ながら久秀の作ではなく、宗養の代作である。

 千句連歌の運営に多忙で歌作にまで手が回らなかったか、あるいは長慶に寸評されるのを嫌ったか。その真意はわからない。




 ともかくも、三好長慶の最盛期とも言われる弘治年間は賑々《にぎにぎ》しく始まった。


 久秀もこの時期、精力的に政治活動を展開していく。そのひとつが、儒学者の清原きよはら枝賢えだかたを招いた『中庸ちゅうよう』の講義である。


 枝賢という男は、学者にしては脂の濃い性格であった。

 また、儒学の教え自体も現実の政治と積極的に関わろうとする性質でもある。


 それだけに枝賢は期待を込めて、長慶や久秀に対し、熱心にその教えを説いた。

 そして、説くうちに三好長慶の教養の深さに驚き、以降、長慶政権において理論的支柱として、その力を振るっていくこととなる。


 その中で枝賢が重視したのが、民衆中に見られる「天道」思想であった。

 久秀に向かい、枝賢は言う。


「天道とは、もとは『論語』が語る倫理の道なれども、ちかごろ都の人どもが語るのは、その天道にあらず。いわば、仏道の因果のごときものにござる」


「因果と同じなら、なぜ天道などと言う?」


「さようですな。例わば、先年の公方様のご失態。都の民衆に言わせれば、これは公方様が筑前殿との二度にわたるお約束をば反故ほごになされ、卑怯にもこれを裏切ったために、天が公方様を罰したのだと」


 久秀は聞いて苦笑する。まったく同じことを当時、久秀自身が書状に書いて周辺大名へと送っていた。


「天罰か」


「天道を外れた行いをする者には、天罰が降るというわけでござる。これを民衆は、『天道おそろしきこと』と申しまする」


 聞くうちに、久秀にも枝賢が何を言いたいかがわかってきた。


「なるほど、長慶による支配の正当性を、天道に求めるか」


「いかさま、さよう。君たる将軍を追い、その土地をうしはくは下剋上なれども、天道がこれを正当化いたしまする。さらに申さば、権威の源泉、その元をたどるなら、行きつくところは将軍にあらず、天子にござろう」


 久秀がうなずく。


「下剋上の批難を回避するためには、より上位の権威たる朝廷に、将軍よりも長慶を選ばせろ、というわけだな」


 枝賢はゆっくりとうなずく。

 長慶とは違った意味で、この久秀は、枝賢の説く儒学の実学としての力を驚くべき速さで吸収していくのであった。

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