第五十四話 霊山城の戦い
阿波で細川氏之が討ち取られて間もなく、京でも戦が起こった。
霊山城に籠もった将軍義藤は、若狭に流れていた晴元を呼び戻し、三好宗渭以下二十名余の晴元家臣が将軍に謁見する。
義藤は反氏綱、反長慶の旗色を明らかにし、対決姿勢を打ち出したのである。
晴元と義藤は戦略を議して、京の諸城において攻め易しと見られる小泉城を攻めることで意見の一致を見た。
そして七月二十八日、晴元旗下の諸将は小泉城への攻撃を開始する。
小泉城は小城である。
一日あれば落とせると、義藤と晴元は見ていた。
しかし、晴元勢は、この小城を攻めあぐねた。
城中に名将がいたわけではない。
城兵の士気が特別に高かったわけでもない。
ただ、晴元は負けすぎていた。短期間で重ねた連敗は、兵たちの中に着実に、敗戦の恐怖を植え付けていた。
戦の中で死者が最も多く出るのは、敗れた後の退却においてである。
たとえこの場で奮闘し、城を一気に攻め落としたところで、六角氏の援軍は期待できず、洛中で孤立するだけではないのか。
長慶はまた万余の大軍を率いて反撃してくるだろう。
その先に見えるのはまた敗北、また退却戦、そして死の恐怖ではないか。
自軍の兵たちがそう疑心暗鬼になってしまうほど、「晴元は長慶に勝てない」という観念が蔓延していた。
ゆえに、小城を攻めあぐねた。
三十日になり、ついに義藤自身が陣頭に立って指揮を振るう。
「掛かれ! 攻めよ!」
将軍の号令は虚しく響いた。
兵たちは号令に応じて前に進むが、城からの反撃を受けるとすぐ退いてしまう。
この日も、義藤は城を落とすことができなかった。
義藤の不幸は、対する長慶が類まれな軍事指揮官だったことにもある。
翌八月一日には、早くも総勢二万五千の大軍勢を率いて、長慶が上洛した。
義藤は小泉城の攻略を断念し、船岡山に陣取る。
陣を固く守り、長慶の軍勢とにらみ合いとなったが、これが義藤に災いした。
東山の裏手には、古くから滑谷、あるいは苦集滅道と呼ばれる間道がある。
その名が示すとおり、沢の水が絶えず落ちかかる道で、滑りやすく、地元の者以外は避けて通らぬ道であった。
細川氏綱家臣、今村慶満はこの道を知っていた。
その通行が困難であることも、十分に理解していた。
そのうえで、両陣にらみ合いが続く中、ひそかに兵を進め、滑谷を抜け霊山城に奇襲をかけた。
もとより数に劣る義藤は、霊山城にまともな手勢など残してはいない。
慶満は手薄になった城を攻めに攻め、一族に死者を出しつつも、一気に城を攻め落とす。
留守を預かっていた義藤方の守将・松田監物は城を焼き、自刃して果てた。
義藤は拠るべき城を失い、長慶と一戦交えることすら出来ずに敗走する。
戦わずして逃げる将軍の軍勢を見ながら、久秀が長慶に問うた。
「追い討つか。今なら殲滅できるかもしれんぞ」
長慶は追撃を禁止する。
そしてこう言った。
「討てば、下剋上と批難されるであろう。あえて逃せば、将軍は権威を損じよう」
「……わかった。あえて逃がし、その無様を喧伝しよう」
久秀は十河一存とともに、盛大な打廻りを行い、京の耳目を驚かせた。
こうして、将軍敗北の報が畿内を駆け巡る。
公卿・山科言継はこの日のことを日記に記し、逃げた足利義藤らを「あさましき体たらくなり」と慨嘆しつつ、上野信孝の無策を批難している。
加えて、長慶の打撃は徹底していた。
義藤一行が近江の龍花に至ると、長慶はある宣言を布告する。
将軍に従い近江に降った者たちの所領をすべて没収するというのである。
この布告が、覿面に効いた。
将軍の直臣たちはこの布告を知ると、一斉に逃散して京へと戻り、長慶に恭順を示したのである。
この布告ののち、義藤の周囲に近侍する者は、わずか四十名余りにまで減ってしまったという。
義藤はこの仕打に、いかなる敗戦よりも屈辱を感じた。同時に、深く学ぶこととなった。
(ただ将軍であるだけでは、人は従わない。何かを与えられて、初めて人は従うのだ。では、何が与えられるだろうか、今の将軍に?)
こののち、義藤は義輝と名を改める。そして五年間にわたり、近江朽木での流寓の生活を強いられることなるのであった。




