第五十二話 巨星墜つ
遊佐長教の死のひと月後。
長慶はその死を乗り越えようとするかのように、再び千句連歌を催した。
その最初の三句は長慶のこの句から始まっている。
くるとあくと いつれか千入 花の色 長慶
長慶の発句は、古今集に採られた紀貫之の「くるとあくと 目かれぬものを 梅の花 いつの人まに うつろひぬらむ」を念頭にしたものであろう。
貫之の歌が梅の花の散りゆく無常さを歌っているのに対し、長慶の句は年が明けてますます色づく花の色を歌っており、鮮やかな未来を感じさせる歌となっている。
自らが開く新たな時代への、華やかな志を込めて歌ったものであろう。
事実、天文三好千句と呼ばれるこの連歌会には、時代の才能が集まっていた。
父の跡を継ぎ、すでに宗匠としての地位を固めつつある天才・宗養をはじめ、後に連歌界の指導的立場となる里村紹巴、利休の師とも言われる侘び茶の先駆者・辻玄哉ら、みな二十代にして芸術界を牽引する若き才人たちである。
三好長慶が武威のみでなく天下の芸術をも主催、振興していくことを示すとともに、長慶の政権を固める人材の若さ、多様さが際立つ興行であった。
そして、千句からまたひと月後の七月。
晴元方の軍勢が、三条坊門万里小路の等持寺周辺に侵攻した。
三好宗渭、香西元成をはじめ、和泉の岸和田氏や丹波の反三好衆を結集した連合軍である。
彼らを、松永久秀・長頼の兄弟が率いる大軍勢が迎撃する。
すでに長慶は、自軍のみで十分に敵を迎撃できるほどの軍勢を整えていた。
宗渭らは数的劣勢から決戦を避け、放火によって抵抗を続けるも、九月には之虎、冬康が来援し、京の南に軍勢を展開した。十月には長慶自身が摂津富田に着陣し、晴元方に付け入る隙を与えなかった。
こうして長慶は京の支配権を握ったまま、この年を終える。
そして、翌天文二十一年(1552)一月二日。
六角定頼が死んだ。
その直前まで、美濃への土岐氏復帰や長尾景虎への返礼など、天下人として外交差配を行う中での死であった。
天文改元以降、畿内の実質的な最大勢力として天下を差配してきた大立者の死。
あらゆる者が、その死に衝撃を受けた。
長慶もまた、その一人である。
久秀が確報をもって報せると、長慶はしばし押し黙ったのち、こう言った。
「二人目の父を、失うたが如き気分じゃ」
久秀は一旦下がり、その内心を推し量る。
少年時代の長慶にとって、定頼は敵というにはあまりに巨大な存在であった。
ときに長慶を扶け、ときにその頭を押さえつけ、そうして晩年になって初めて敵対したころには、すでに定頼は軍事指揮権を手放しており、直接の対決は実現しなかった。
おそらく長慶は定頼を、父・元長に擬し、その背に追いつき、追い越そうとしてきたのであろう。
その超克はついに叶わなかった。
叶わずよかったのかもしれない。
定頼は天下人として、またその施政を批判的に継承すべき先例として、長慶の胸に偉大なままに残るだろう。
この日、長慶はついに具体的対応を久秀に示さず、その執務を終えた。
定頼の死に対する反応は、各勢力さまざまである。
本願寺証如はその日記にこう記す。
「佐々木弾正少弼は、大卅日の夜に死去の由、たしかに明照寺より注文あり。珍重の奏、年来の鬱結たちまち散ずるところなり。素懐々々」
強烈な抑圧者であった定頼の死に、証如、蓮淳の笑う顔が浮かぶようである。
とはいえ、笑っていられる勢力ばかりではない。
なによりその影響を大きく被ったのは、誰あろう、将軍義藤であった。
伊勢貞孝の出奔後、奉公衆中の筆頭と目される上野信孝は、震える声で六角氏新当主・義賢からの申し入れを将軍義藤に上奏した。
「六角左京大夫より申し入れのこと。和議の出来との由」
義藤はこの年、数えで齢十六となる。
父・義晴はすでに亡く、管領・晴元は没落し、強大な後ろ盾であった定頼が今、この世を去った。
その衝撃の中、義藤は聞かでものことを聞いた。
「和議とな。誰とじゃ」
「細川氏綱、三好長慶との和議にござりまする」
答える信孝は、奉公衆の中でも最大の反氏綱、反長慶派である。
歯噛みしたいほどの屈辱であったが、受け入れるほか無いことは明白であった。
長慶の近江侵攻はからくも防がれたものの、近江国内でもすでに六角氏に反旗を翻す勢力が出没しており、もし今、六角氏が三好長慶との全面戦争に突入すれば、江北の京極氏・浅井氏の離反をも招き、近江が真っ二つに割れる事態までありうる。
六角義賢がそこまでの危険を冒して、義藤と晴元を支え続けるはずがなかった。
一方、長慶方は六角義賢を仲介とするこの和議に即応した。
定頼の死からひと月も経たぬ一月二十三日。
義藤は朽木を発ち、二十六日、近江山城間の国境、逢坂関に入ると、松永久秀、三好長逸に迎えられ、入洛。
同時に晴元の嫡男、聡明丸(後の細川昭元)も、三好千熊丸(後の義興)に迎えられ、人質として相国寺に入った。
将軍との和睦が成立したことで、細川氏綱が正式に右京大夫を任官し、細川京兆家の家督を継承する。
それは、細川晴元が義輝政権から失脚したことを意味していた。
同時に、三好長慶は将軍の奉公衆、そしてより上位の御供衆へと任じられた。
これに伴い三好宗家の家格も、細川家被官という立場から、将軍直臣へと上昇したのである。
さらに四月には、後奈良天皇から宸筆の古今和歌集が長慶に贈られ、その返礼に長慶から太刀一万疋が献上された。
朝廷からもその実力を認められ、長慶は畿内の実質的支配者として君臨することとなった。
三好政権は新たな段階へと進み、それに応じて新たな課題を抱える。
京周辺の煩雑な庶務に加え、御供衆としての幕政への参与、朝廷との取次など、これまでに無かった職務が求められるようになった。
急務となったのが、これらを成しうる人材の登用である。
「久秀、折り入って頼みがある」
長慶は久秀を呼び、あらたまって言った。
「何だ、馬鹿丁寧に。難題か?」
「お主にぜひとも説得してもらいたい人材がおる。なんとしても登用したい」
「お前がそこまで言うなら、優れた人物なんだろう。誰だ」
長慶にそこまで言わせる人物に興味が湧き、久秀は身を乗り出す。
その久秀に、長慶は言った。
「斎藤越前守基速殿じゃ」
「はあっ!?」
久秀が狼狽する。
斎藤基速は、久秀の妻・理玖の養父である。
しかしその前身は、かつての堺公方・足利義維の奉公衆であり、その職務は右筆方、すなわち幕府の文書行政官であった。
今の長慶にとって、喉から手が出るほど欲しい人材である。
「しかしな、しかし、舅殿は……」
「隠居の身であろうが、そこを承知の上での頼みじゃ」
久秀はうなずかざるを得ない。
そのまま、妻の理玖をともなって、舅の隠居先である堺を訪れた。
「斯々然々《かくかくしかじか》、主・長慶から折り入っての願いでござる」
基速を前に久秀が頭を下げると、基速は困った顔をして言う。
「他ならぬ松永殿の申し出、余事ならばなんなり承るところじゃが、わしも政務を退いて久しい。それに、堺公方潰えたとはいえ義維公は阿波にご存命。その義維公にとって現将軍は仇敵と言ってもよい相手。二君に仕えるはなんとも……」
交渉行き詰まり、沈黙が生じたところで、理玖がつぶやくように言った。
「聖人は吏を治め、民を治めず――」
基速と久秀が驚いて理玖を見ると、理玖は続ける。
「是れ仁義は古に用いて、今に用いるべからず。世異なれば則ち事異なり、事異なれば則ち備え変わる。事は世に因りて、備えは事に適う。うちはそう、お父上に習いました」
仁義が政治であったのは古代のことであり、世情が変われば用いるべき備えもまた変わる。
時代に適合した法の必要性を説いた、韓非子の言である。
基速は呆然として、往時を懐かしむ眼差しで理玖を見つめ、それから言った。
「たしかに、今のこの乱世に法を敷くことができるのは、三好長慶をおいて他にあるまい。将軍に仕えるのではない。この基速、三好殿にお仕えいたそう」
かくして、三好長慶は名実ともに畿内支配の体制を整えていく。
ついに天下は、足利義藤、細川氏綱、そして三好長慶の三頭体制のもと、安寧を迎えるかに思われた。




