第五十話 洛中制圧
江口にて三好宗三討死の報せは、榎並城に拠っていた宗三の子・宗渭にもすぐさま伝わった。
宗渭はこの報せを受けて、城を捨て撤退。
山城国山崎まで進軍していた六角勢もまた、近江に引き返した。
晴元は三宅城を捨て、丹波を経由して京へ退く。
そして将軍義藤および義晴と近衛家の縁者を連れ、近江坂本へと逃れた。
こののち、月が明けて七月九日、長慶は細川氏綱を擁して上洛を果たす。
同時に十河一存、久秀の弟である松永長頼、氏綱被官の今村慶満らが、京近郊の荘園領に対し、武力を背景に押領(差し押さえ)を開始した。
京の権門諸家は押領を免れるべく、続々と長慶のもとを訪れ、長慶支持を表明することで、押領免除の保証を得た。
晴元は摂津の拠点のみならず、京における自領と権門の支持をも失うこととなったのである。
「照姫の具合はいかがじゃ」
永い戦から越水に戻った長慶は、まず遊佐家から輿入れした姫の容態を尋ねた。
遊佐長教の娘、照姫は、その照という名とは対照的に、病弱で内に籠りがちなところがある。それに加えて、戦の最中での輿入れ、しかもあからさまなまでに人質としての嫁入りである。
心労が重なり、越水城に着くなり、倒れてしまっていた。
「おかげさまで、身を起こせるようになりましてございます」
照姫付きの侍女が言う。
長慶はひとまず安堵した。
その安堵の半ばほどは、遊佐長教との同盟を堅持できることへの安堵である。長慶はそういう自分に対して、密かな自己嫌悪を抱いていた。
執務を終え奥に入ると、照姫は居住まいを正し、三指を突いて長慶を迎えた。
「お帰りなさいませ、殿様。戦勝、ご祝着にございまする」
健気にも精一杯に声を張りながら、しかしその顔色は、とても本復したとは思えぬものであった。
照姫はまだ十六を数えたばかりの少女である。
長慶はその身を労り、照を横たわらせ、布団を掛けて言った。
「ありがとう、しかし無理をするでない。そなた自身を第一に考えてくれ。今宵はわしも自室に戻って眠ろう」
長慶が言うと、照は悲しそうな顔で首を振る。
「それでは照が叱られまする」
「誰にじゃ?」
「お父様に。早うお子を産めと」
長慶はそれを聞いて、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
そして、できる限り明るく、おどけた声で言う。
「遊佐家は厳しいのう。じゃが、三好家はそうではない。なにせ、主人のわし自身が、戦でも歌を詠んでおる。敵も手緩いと言って笑うくらいじゃ」
「殿様が笑われるのは、辛うございまする」
照がまじめな顔でそう言うと、長慶は笑って応じた。
「大丈夫じゃ。そのようなとき、わしは歌で仕返しをする」
「歌で、どのように?」
歌連歌 ぬるきものぞと言うものの 梓弓矢も 取りたるもなし
長慶が極端な抑揚をつけて歌ってみせると、照姫は初めて、笑顔を見せた。
「ふふ、おかしなこと」
「笑うたな。うむ、もっと笑うてくれ。笑うて暮らせるようになるのが、病にはいちばんの薬ゆえ」
そうして長慶が去ろうとすると、照はその裾を引いて首を振る。
やむなく長慶も床に入ったが、この病み上がりの儚げな少女を抱く気にはとてもなれなかった。
「それでは、今宵はわしが寝物語をして進ぜよう。床入りは、病がきちんと治ってからじゃ」
「心得ましてございまする」
それから長慶は照の頭を撫でながら、いくつかの古い物語を語って聞かせると、いつの間にか、照は眠りに就いていた。
翌朝、長慶が食事を終えると、久秀が寄ってきて言う。
「長慶、どうせ床入りを渋っておるのだろう」
「ぬっ、妙な言い方をするでない。姫は病の身じゃ」
「そんなことだろうと、これを持ってきた。閨房術の書だ」
久秀が怪しげな本を差し出す。
長慶はいちおう受け取り、顔をしかめた。
「なんじゃ、これは。誰が書いた書じゃ」
「おれだ」
「やめろ、わしは理玖殿もよく知っておるゆえ、顔が浮かぶわ」
長慶が苦い顔をすると、久秀は笑って言った。
「お前のことだ、また深刻に考えてるんじゃあないかと思ったが、まあ顔を見れば大丈夫そうだ。人質だなんだと、余計な気を回すより、一人の女として愛してやることだ。それがいちばんいい」
「ふん、分かっておるわ」
こうしてこの年は、一時の休息とともに暮れていった。
年が明けて、天文十九年(1550)二月。
近江に逃れていた将軍足利義藤と奉公衆らは、氏綱と長慶の洛中支配に反発し、京の東、銀閣にほど近い位置に、中尾城と呼ばれる城を築き始めた。
義藤の父、前将軍足利義晴もまた、兵を率いて近江穴太に陣を構えた。
しかし、折悪しく持病の水腫が悪化し、そのまま回復せず急逝してしまう。
摂津で頑強な抵抗を続けていた伊丹親興も遊佐長教の仲介により長慶と和睦。
義藤は父も味方も失い、齢十四にして、細川氏綱と三好長慶という強大な敵を相手に寡兵での戦いを余儀なくされていた。
それでも義藤はあきらめず、晴元とともに北白川に軍を進める。
長慶は京の西、山崎に本陣を置き、先発隊として三好長逸とその子、長虎に一万八千の大兵を与えて一条にてこれを迎撃した。
この戦い自体は小競り合いに終わったが、洛中での戦いということで見物人が集まった。
その群衆から晴元方への悪口が浴びせられる。
「悪管領! いったい何回京を戦場にしたら満足すんねん!」
「もう近江に籠って出てこんといて!」
晴元の声望が地に落ち、これに味方する将軍も、庶人からの評価を落としていた。
まだ少年でしかない義藤は、この事態に愕然としながら近江へと退いていった。
この戦いは、確認される限り畿内で初めて鉄砲による死者が実戦で記録された戦いである。
長慶は鉄砲の現物を久秀に取り寄せさせ、その効果を問う。
「南蛮渡来の鉄砲、使い勝手はどうじゃ」
久秀は鉄砲を構えて見せながら言う。
「射程と威力は大したものだ。三十間以内なら鎧を貫通しやがる。おまけに矢と比べると弾がでかいから、木製の盾じゃ防御にならん」
「なるほど、脅威だな」
「まだまだ数が少ないが、堺でも生産が開始された。宗達に頼んで、どこより多く配備できるよう流通に手を回させてる」
長慶はうなずき、話題を変える。
「ところで、内藤殿との縁組の件」
長慶が聞くのは、丹波の内藤国貞と、久秀の弟・長頼との養子縁組のことである。久秀はうなずいて答える。
「ああ、滞り無く進んでいる。甚助も、国貞殿に惚れ込んでおるようだ。熱心に軍学の手ほどきを受けている」
内藤国貞は長慶が氏綱方へと鞍替えしたことによって、敵から味方に変わった。
丹波方面で共同戦線を張るうち、国貞が長頼をたいそう気に入ったという。
そうした中で、嫡男の無い国貞のもとへ長頼を婿入りさせる話が持ち上がったのである。
「丹波勢は兵強く、地形も攻め難い。国貞殿はぜひとも抱えておきたい」
長慶の言葉の裏側には、妻とともに失った波多野氏との関係が示唆されていた。波多野氏と対立する内藤氏と関係を深めることは、一層波多野氏との関係修復を難しくするはずだった。
未練は無いということを、長慶は言いたいのであろう。
「ああ、わかっている。丹波のことは、万事遺漏無きよう、気を配ろう」
久秀はそう応えて執務に戻る。
間もなく婿入りの祝言が挙げられ、松永長頼は内藤宗勝と名乗りを変えた。
長慶の勢力は、畿内各地へと、その影響力を着実に伸ばしていた。
一方、京での戦いが劣勢となった晴元は、越前に下る。
朝倉氏に援軍を求めるためである。
晴元は一乗谷にまで訪れ、名将・朝倉宗滴への面会を果たした。
朝倉宗滴はすでにこの当時で伝説的な人物となっている。
越前朝倉氏を北陸の雄に押し上げ、もとは斯波家の被官にすぎなかった家格を越前守護にまで高めた功労者である。
宗滴はこの年、六十三を迎える。
髪も髭も、雪のように白い。
しかし老いてなお背骨は少しも曲がっておらず、戦場にあれば首の二つや三つ、自ら獲ってきそうな「武」の気配を漂わせている。
その宗滴を前に、晴元は言う。
「室町幕府の存亡、この一戦にかかっております。是非にもご出馬を」
「ふっふ……幕府のために百戦したワシに向かって、この一戦が幕府の存亡を賭けた戦いだと、そう申すのか?」
宗滴は不敵な笑みを浮かべてそう問い返した。
晴元はたじろがずに答える。
「いかにも。幕府のために百戦された宗滴殿であればこそ、この一戦でこれまでの労苦が水泡に帰しては口惜しかろうと存ず」
「なるほど、さすがに京兆家の当主。肝が座っておるわ。その若さで、命を賭けた戦を何度もやってきたという顔じゃ。その顔を立てて、宗滴が戦に決して負けぬ方法を伝授いたそう」
宗滴の言葉を聞いて、晴元はわずかに希望を抱いた。
この老人を、なんとかして戦場に引っ張っていかねばならない。
まずはその言葉を聞くことだ。
「ぜひとも」
そう答えた。
宗滴は言う。
「負ける戦をせぬことじゃ」
馬鹿にしたような答えである。
だが、こうした言葉が来るかもしれぬことは、晴元にも半ば予想できていた。
晴元を怒らせ、交渉を破談に持ち込もうという腹積もりかもしれない。
晴元はあくまで冷静に応じる。
「金言にございます」
だが、宗滴は晴元の目をのぞき込んで続ける。
「聞け。負けぬ戦をせぬためには、敵を知らねばならぬ。味方を知らねばならぬ。敵を知るためにいかにするか。味方を知るためにいかにするか。百の密偵を放ち、千の報告を受け、万の要素を紐解いて情勢を分析せねばならぬ」
「……」
晴元の首筋に、冷や汗が流れた。
「しかるに右京兆殿。宗滴の見るところ、御身の情勢ずいぶん悪い。六角が力を貸したにせよ、残りの畿内の諸勢力、八割方は敵となると見る。これでは鬼神が戦をしたとしても勝てはせん。負ける戦をせぬというのは、こういう状況で戦をせぬということだ」
晴元は歯噛みして言う。
「……ご加勢はいただけぬと?」
「将軍警固の名目であれば、兵は貸そう。ただし戦に使うことは許さん。負け戦をするな。兵を整えて籠っておれば、敵も近江にまでは攻めてくるまい」
「しかし放っておけば、長慶は畿内の地盤を固め、なおのこと攻め難くなります」
「将軍を手元に置いていてもかね?」
宗滴はぎろりとした目を向けて言う。
「掌中に玉を置いてなお敵の隆盛を止められぬとすれば、だ。それはもう、天運が貴殿に無いということだよ、右京兆殿」
晴元は返す言葉が見つからず、ただ頭を下げるしかなかった。
歴戦の名将・朝倉宗滴の出馬こそ叶わなかったものの、将軍警固の名目で兵を借りることには成功し、晴元は京に戻る。
六角氏からも援軍を得て、義藤、晴元方の手勢はかき集めれば二万に届く規模にまで拡大した。
すでに、季節は冬である。
再起を賭けた戦いを前に、晴元は清水の舞台に登り、京の街を眺めた。
その眺望の先に、恐ろしいものが見える。
「なんだ、あの軍勢は……」
晴元の目に見えたのは、京の街に蝟集する、すさまじい数の兵、兵、兵。
長慶が畿内の勢力を結集し、決戦兵力を京に入れたのである。
その数、四万。
すでに長慶の動員兵力は、六角氏をも大きく上回っていたのだった。
宗滴の戦況分析は正しかったと言わざるを得ない。
「急報、急報にござる!」
呆然とする晴元に、従卒が駆け寄る。
「近江坂本に、松永長頼の軍勢が出現! 各地に火を放ち、退路を塞ぐ構えにござりまする!」
「……長慶ぃ……!」
晴元の唇から、赤い血が流れた。
歯が、唇を破っていた。
翌朝、晴元と義藤は、失意のうちに中尾城を自焼し、近江堅田へと没落する。
ついに長慶は宗三のみならず、細川晴元をも完全に退け、父・元長の雪辱を果たしたのであった。




