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第五話 死地脱出

 狂奔と言うべきだろう。

 その群衆は、ほとんど駆けるようにしてせまってきた。

 戦という破滅的な祝祭が、そのまま彼らにとっての救いであるかのように、浄土を求めながら、死地へと突き進んで行く。


 こうした軍勢にあらがう術はない。

 彼らが疲れ、倦み、狂熱が醒めるのを待つほかに、その奔流を止める手立てがない。


 陣の背面に攻撃を受ける形となった畠山軍は、なすすべもなく突き崩されていく。

 幸いにも一揆勢の突入地点からやや外れていた千熊丸の陣は、なんとか抵抗の姿勢を見せていた。小勢であることがかえって陣の反転を容易にしたことも、利といえば利であった。

 とはいえ、寡兵かへいである。衆寡しゅうかてきせず、次第に兵を減らし、名のある将たちが次々と討たれていく。


「若殿! これ以上は防ぎきれませぬ! 御身おんみだけでも離脱を!」


「嫌じゃ! 陣が崩れれば父上はどうなる! わずかなりとも時を稼げ! 父上が態勢を整える間を作るのじゃ!」


 馬上、千熊丸が悲壮な声で叫ぶ。

 しかし、すでに戦場は白刃ぶつかり合う乱戦となっている。三好・畠山連合軍に、統制された軍隊としての優位はもはやなかった。


「兜首じゃ! ここに兜首がおるぞ!」


 一揆勢がにわかに騒ぎ始める。

 千熊丸の姿を認めた兵たちが、一斉に群がってくる。


「わ、若殿、お逃げを……」


 一揆勢の投げた槍を胸に受け、侍が血を吐く。

 千熊丸に最も近くで侍っていた老臣であった。


 一人、また一人と、近臣が討たれていく。


「兜首、ったり!」


 一揆勢の兵が、馬上の千熊丸に飛びかかり、馬から引きずり下ろす。

 少年は、容易に組み伏せられた。

 脇差が抜かれ、日の光が刃に煌めく。


 瞬間、風が奔った。


 どかっという音。

 千熊丸を組み伏せていた兵の頭が、真っ二つに割れる。

 割れた頭の向こうで、抜き身の村正を握る久秀が、冷や汗を垂らしながら笑った。


「なるほど、こいつはとんでもない刀だな」


 言うなり、久秀は千熊丸を抱え上げる。

 そうして、飛ぶように馬にまたがった。

 手綱を引き絞ると、馬は後脚で立ち上がり、高くいななく。


 周囲の兵たちが、わずかに退いた。

 同時に久秀は馬首を大きく返す。


 次の瞬間、馬はもう走り出していた。

 戦場の外に向かって。




「やめろ! 離せ! 貴様、変心したか!」


 馬上、久秀に抱かれながら、千熊丸がもがいてわめく。


「落ち着け! おれは敵じゃあない。あんたを敵に売ったりもしない。ここから逃げるだけだ」


「ふざけるな! わしは父上を守らねばならぬ! はよう陣に取って返せ!」


 武士でない久秀にも、少年の気持ちは痛いほどわかった。

 己の采配で近臣たちを失い、しかも今、崩れゆく父の陣を遠目に見ながら、逃れることしかできない。

 堪え難い苦痛だろう。


 しかし久秀は、少年を慰める言葉の代わりに、千熊丸を馬の背にぐっと押し付け、その頬を、ばしりとしたたかに叩いた。


「ここで死ぬのはただの我儘わがままだ。天下人の子なら、自分の命の価値を測れ」


「……!」


 千熊丸は涙を浮かべて久秀を睨み返したが、それ以上暴れることはなかった。

 すぐ目の前に、敵が迫っていた。


「しっかり掴まってろ」


 眼前に一揆勢が五人、行く手を塞いでいる。


 一人は久秀を目掛けて槍を構えた。

 もう一人は馬を転ばそうと、足払いを狙っている。

 残りの三人は馬から落ちた久秀と千熊丸に殺到すべく、刀を握りしめている。


 久秀の顔に、笑みが浮かんでいた。

 わかるのだ。

 自分の乗っている馬の“良さ”が。

 この馬ならば、この程度の障害をかわすことなど造作もない。

 それがわかる。


 軽く腹を蹴ると、馬の歩幅が変わり、速度が増した。

 馬に、自分の意思が伝わっているのを感じる。


 槍が、馬の脚を払いにくる。

 と、同時に、馬が大きく跳躍する。

 足払いは空を切り、久秀に狙いを定めていた兵も、槍を突き出す間を失った。


 久秀は着地の勢いを乗せ、一刀、村正を振るう。


 槍を構えた兵が、不運にもその刃を受けた。

 まともな鎧も身につけていない、もとは土民の一揆兵である。

 肩口から臍のあたりまで、人の体が瓜のように割れた。


 久秀は腹に大きく息を吸い込み、大声を放つ。


れなるは妖刀村正! かの妖刀に切られしむくろ、浄土に昇ることあたわず、亡者となりて無間地獄を彷徨さまようものと知れ。死よりおぞまましきは地獄の苦海、恐れぬ者のみ前に立てい!」


 そして、馬を煽る。

 馬の嘶きが、あたかも地獄の魍魎が呼ぶ声のように響いた。


 相手は信心深い門徒の群である。あの世への畏れがある。

 互いに顔を見合わせ、妖刀を掲げた武者を避ける。

 自然、道ができた。


「少し、揺れるぜ」


 背後の千熊丸に声をかけると、久秀は馬の背に伏せるようにして、体を預けた。

 元より、乗馬に長けているわけではない。

 あとは一級品の馬の生きる力に任せ、駆けてもらうだけだ。


 そうして、矢のように一騎だけが、この絶望的な戦場から離れていった。

 本日は3話ほどアップの予定です。まずは飯盛城の戦いが完結し、長慶の幼年期が終わりを告げるところまで。


■TIPS

妖刀村正:

村正は伊勢国桑名に拠点を置く刀工で、「村正」の名は室町後期から江戸初期にかけて複数の刀工が継承している。妖刀伝説は江戸時代に発生した俗説ながら、その実物は妖力を宿していると言われても信じてしまえそうなほど、見事な刃紋を描いているものが多い。極めて複雑でありながら表裏が揃う刃紋が村正の特徴であり、室町時代当時から非常に高い評価を受けた刀である。


一向一揆:

親鸞を開祖とする浄土真宗が、中興の祖・蓮如によって本願寺教団として再組織化され、一揆勢として武装勢力となったもの。加賀一国を実質的に支配するとともに、山城、摂津、近江、伊勢、三河など日本各地に強い勢力を築いた。

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