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第四十七話 江口の戦い その3 雪姫と義興

 三好長慶の氏綱方への転向は、畿内に大激震をもたらした。

 これにより畿内の勢力図は大きく変貌を遂げる。


 長慶方についた主な勢力は、まず畠山総州家と遊佐長教が支配する河内一国。

 長慶がほぼ支配する摂津下郡から池田氏、瓦林氏、有馬氏など。

 摂津上郡からは、芥川氏、三宅氏、入江氏などが長慶方に。

 そのほか山城国西岡から鶏冠井氏、物集女氏。

 播磨国から衣笠兄弟。

 丹波国から内藤国貞、和泉国から松浦守が支持を表明した。


 これに之虎が統括する阿讃淡三カ国の兵力を合わせれば、晴元方と比較して圧倒的に優位な戦力となる。

 この勢力図の変動は、おおむね長慶と之虎が事前に「もし氏綱方に乗り換えた場合」を検討したところと一致していたが、ひとつ、大きな誤算があった。


 長慶の正室、雪姫の実家である丹波の波多野氏が、晴元方についたのである。


 波多野氏は、長慶との縁組を推進した当主秀忠が三年前に世を去り、その子、元秀が当主となっている。

 英邁な君主であった秀忠亡きあと、元秀は家中の掌握に苦慮していた。


 そこに、晴元が調略を仕掛けた。

 対立する内藤氏を撃滅したのちは、将軍家を通じて波多野氏を丹波国主に任ずるというのである。


 舎利寺の戦いの際に、これまで旗印として擁立してきた細川国慶を失い、内藤氏は風前の灯火といえる情勢。

 丹波国主の座を目前にして、若年の元秀は姉を見捨て、長慶との対立を選んだ。


 波多野氏から手切状を受け取った長慶は、悲痛な表情で雪姫にそれを伝えた。


「波多野殿は、そなたの返還を求めておる。勿論、わしはそなたを害するつもりは無い。同盟の常にて、遊佐氏より姫を迎えるが、正室は無論そなたのままじゃ。千熊丸もまだ幼い。そなたにはここに残ってほしいと思っておる」


 しかし、雪姫は悲しそうな顔をして、これに答えた。


「長慶様、私も武家の女、かようなことは心得てございます。敵国の姫が正室の座にあり続ければ、必ず家中紛争の火種となりましょう。そのとき、千熊丸がどのような立場に立たされるか」


 雪姫の言葉は、のちの徳川家康と築山殿の悲劇を引くまでもなく、正論である。

 長慶は、普段おっとりとした雪姫がこうしたことを口にするのに驚き、とっさに答えを返せなかった。


 雪姫は、その大きな瞳に涙を溜めながら、触れれば壊れてしまいそうな笑顔をつくって言う。


「千熊丸は、あなたに似て賢く、優しい子に育っております。三好家の跡を継げば、必ずや名君となるでしょう。そのころには、きっと戦も収まり、お雪も我が子に会うことができると信じております。そのときまで、お雪には、この白兎がついていてくれますから……」


 往時の白さはもうくすんでしまった簪の兎に触れ、雪姫は堪らずその瞳から涙を零した。

 長慶は、姫を抱きしめ、ただ謝った。


「すまぬ、お雪。わしは……」


「謝らないで。優しい夫と元気な子に恵まれて、お雪は本当に幸せでした」


 八上城から長慶のもとに嫁いだ姫が、この後どのような生涯を送ったのか、史書は伝えていない。いつか、長じた義興とその母の交流を示す資料が発見されることを祈るばかりである。




 雪姫が丹波に帰ってから、数日後のこと。

 長慶との会議を終えた久秀の袖を引く者がいた。

 長慶の子、千熊丸である。


「松永殿、父上は私のことが嫌いになったのでしょうか?」


 千熊丸が、久秀にそう問う。


「なんだって? そんなわけあるか。どうしてそう思う?」


 久秀は驚き、しゃがみ込んでそう聞いた。


「父上は、母様かかさま八上やがみに返しました。河内かわち高屋たかやから、新しい姫が来るそうです。それに最近は私と遊んでくれません」


「なるほど、わかった。この松永弾正が父上に問い質して差し上げよう。しばしお待ちあれ」


 久秀はそう言って、すぐさま長慶の居室に舞い戻る。


「なんだ、久秀。次の来客が待っておる」


「千熊が不安がってる。考えてやらねばならんだろう」


 久秀が耳に口を寄せてそう伝えると、長慶は戸惑いを見せた。


「……しかし、わしはそういうことに慣れておらんのじゃ。父上に遊んでもらったことなぞ、わしにはついぞ無いんじゃぞ」


「だが、御母堂はご健在であられたろう。今の千熊丸の気持ちと比べようがない。それに、お前の少年時代は過酷なものだ。誰もがそのような道を辿って、健やかに生きられるものではない」


 久秀の真剣な声に長慶は気圧されて言う。


「わかった。一刻のち、時間を取ろう。千熊丸とともに久秀も来い」




 かくて一刻ののち。

 久秀は千熊丸を連れて、長慶の居室に入る。


「よく来た、千熊に久秀。此度は父・長慶が不当にも母・雪姫を八上城へと送り返し、河内高屋より新たな姫をもらい、しかも千熊丸と遊ばぬという非道を行っておるとの訴えについて、沙汰を下す」


 長慶は芝居がかった声でそう告げて、それから千熊丸を呼び寄せ、膝に抱いてから穏やかに言った。


「千熊、母上のことは、わしも悲しい。けれど、千熊がもう少し大人になったら、わかるようにきちんと説明すると約束しよう。母上はそなたを愛すればこそ、八上に帰ったのじゃ」


 千熊丸は難しい顔をしながら、それでもこくりとうなずく。

 長慶によく似た、賢い子である。


「それから、河内の姫のこと。わしもまだ見たこともない姫じゃが、この姫は、人質じゃ。わしも人質なぞ取りとうないが、いくさつねじゃ。取らねば皆が安心して戦えぬ。そなたと同じく、きっと心細いに違いない。優しくしてやってほしい」


 千熊丸が、再びうなずく。


「そうして、わしのこと。すまない、わしは今、どうしても戦のことを考えねばならん。どうしても、たくさんの時間をそこに使わねばならん。千熊と遊ぶ時間も大切じゃが、今は我慢せねば、皆が戦で死んでしまう。それゆえ代わりに、わしのいちばん大切なものを、そなたに与えようと思う」


「父上のいちばん大切なものとは、なんですか?」


「そこな久秀じゃ」


 言われて、久秀は唖然として声を上げる。


「はあ!? なんだと!?」


「久秀、これより千熊丸の御守役を申し付ける。千熊は次代の三好宗家当主じゃ。わしは十歳のころ、飯盛城の戦いで父をうしのうてのち、久秀にさまざまなことを教わった。同じことを、千熊にも教えてもらいたい」


 言われて、久秀は言葉に詰まった。


 久秀は当年で齢四十を数える。

 自分でも、涙脆くなったと思っている。

 長慶の言葉に思わず涙腺がゆるんだが、平伏してそれを隠した。

 そうして、なんとか一言だけ、言葉をしぼり出した。


「……つつしんでうけたまわり申す」


「千熊、これより三好家は、過酷な戦に飛び込んでいく。わしがそなたと共におれる時間は、さらに短くなるやもしれぬ。それでもわしは、そなたを何より大切に思っておる。それを信じてほしい」


 千熊丸は、父の目を覗き込みながら、素直にうなずいた。


「父上、わかりました」


 このときから、久秀はその忠誠を尽くすべき二人目の主君を得た。

 二人目の三好千熊丸、のちの三好義興である。

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