第三十八話 宗養
太平寺合戦で木沢長政が敗死して以降、長慶と久秀は大和で残敵の掃討に当たっていたが、十月、これを終えると半年ぶりに摂津越水城へと帰還した。
帰城した長慶を待っていたのは、嬉しい報せである。
「殿、若君にございまする」
雪姫が、抱いた我が子をそっと長慶に渡す。
長慶は恐る恐るその子を我が手に抱いて言った。
「おお、千熊丸よ。父じゃ、わしが父じゃぞ」
新たに三好千熊の名を継いだその幼子は、泣きもせず、不思議そうに自らの父の顔を見つめていた。
久秀はその光景を後ろで見ながら、そっと席を外した。
自邸に帰り着いた久秀の顔を見て、理玖が笑う。
「まあ、なんやのその顔。目が真っ赤やないの。泣いてきはったん?」
「笑うなよ。長慶が子を抱くのを見て、なんだか無性にうれしくなっちまった」
久秀はまだ潤んだままの瞳で言う。
理玖は、いたずらっぽく笑って言った。
「そらええわあ。もひとつ嬉しいお知らせがあるんよ」
そう言って、自分の腹を擦って見せる。
気づけば、理玖の腹がぽこりと膨れている。
「おい、そりゃお前」
「あんたはんの子ぉに決まっとるやないの。年明けたら、もう臨月なんよ」
久秀は、理玖の腹に手を当てて聞いた。
「お前、そんな細い体で、大丈夫なのか?」
「あはは、大丈夫。八上の姫様かて、あんな小ちゃい体で丈夫な子を産まはったやないの。ちゃあんと産んであげる。心配せんでええよ」
理玖は腹に耳を当てる久秀の頭を撫でながら言う。
束の間の平穏な時であった。
年が明けて、天文十二年(1543)。
和泉で細川高国の子、氏綱が挙兵した。
氏綱は畠山稙長の妹を妻としている。
自然、稙長を主君として呼び戻した河内の遊佐長教も氏綱方についた。そのほか、和泉の国人も多数氏綱に味方し、総兵力一万を超える規模の反乱となる。
ただ、晴元方にとっては幸いなことがあった。和泉最大の国人である松浦氏が、反氏綱の姿勢を示し、その動きを牽制したのである。
長慶と久秀はこの機に和泉へと兵を進め、氏綱方の和泉国人、玉井氏を討つ。
これを見て氏綱は戦わず、早々に兵を引いた。
「長慶、細川氏綱ってのは臆病者か? 晴国が挙兵したときも、和泉で静観していたそうだが」
帰路、久秀は長慶にそう聞いたが、長慶は首をかしげる。
「うむ、面識は無いが、どうも単なる臆病とは断じ難い。此度の挙兵も、予想以上の国人たちが氏綱殿を支持しておる」
「ふう、まだまだ畿内は油断がならないってことだな」
越水に帰城しても、二人には西宮の政務が山積していた。
このころにはすでに、西宮での行政業務のかなりの部分を久秀が担うようになっている。
その中でも、特に重要視されたのが、西宮千句講への寄進と保護である。
「長慶、今度の千句講には出席できるか? 御用商人の橘屋と正直屋から、是非にとせっつかれてるんだがな」
久秀が聞くと、長慶は筆を止めぬまま答える。
「うーむ、出たいのはやまやまじゃがな、かくも政務が立て込むと……」
「今回は正直屋垂井が奮発して、京から宗なんとかって連歌師を招くそうだ」
名を聞いて、長慶の筆が止まる。
「誰じゃと?」
「えーと、宗養だ。この招待状に書いてある」
「行く。万障繰り合わせて参るゆえ、そのように申し伝えよ」
食い気味に言う長慶に、久秀は眉をひそめる。
ともかく、そういうことになった。
千句というのは、連歌をひとつずつ詠み連ねて、千句に到るまでこれを続ける。
一日の連歌会で詠まれる句はおおよそ三百句程度。
三日や四日にわたって、連日連歌会を行う盛大な催しである。
このころ連歌は庶民の間にも大いに流行し、連歌会は地元の名士たちにとって重要な社交の場となっていた。
こうした連歌会を円滑に進行するための講師また座長役として、連歌師は各地の連歌会に招聘され、時には外交僧のような役目をも担うに至っている。
そして当代、連歌の第一人者といえば、宗祇の流れを汲む宗牧である。
宗養はその宗牧の息子で、父とともに連歌師としての道を歩んでいる。
この時、宗養はわずか十七歳であったが、京から漏れ聞こえる評判によれば、父をも凌ぐほどの業前だというのである。
長慶が会いたがるのも、無理もなかった。
「初めてお目にかかります。宗養と申します」
長慶を前にして、宗養は十代とは思えぬ柔和な物腰でそう言った。
長慶は年代の近い宗養に親しみを感じ、つい話し込んでしまう。
「連歌隆盛といえども、武家にはいまだ歌好まざる者も多く、同好の士は少なく、情けない。和歌は役に立たぬと思われておるようじゃ」
長慶のぼやきに宗養は穏やかに笑い、ただこう言った。
「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」
宗養の言葉はそれ自体が典雅な音楽のようで、ふと香を纏った風が吹いたような心持ちがする。
「古今集、仮名序ですな」
「はい。私は、本当のことだと思っております」
宗養は気負いもせず言う。
それから宗養は長慶に相通ずるものを感じたのか、句会が終わってからも宗養から声をかけ、種々のことを話した。
その中で、ささやかな返礼といった風に言う。
「摂津池田氏、家督について宗三殿のご要求強く、大分お悩みの様子。次の機会には、彼の方もお誘い申し上げましょう」
この頃から長慶は連歌会、歌合に数多く出席し、交流の網を広げていく。
長慶は、こうして晴元の軛を逃れる術を模索していた。




