第三十二話 八上姫
三好連盛追放から数日、久秀は長慶に呼ばれた。
「来たか、久秀。よい報せじゃ。そなたに知行を与える」
久秀の顔を見るなり、長慶は書状を手渡す。
宛行状である。
「伊賀殿の知行が一部無主地となってしまうのでな。確たる所領を得るにはよい機会であろう」
久秀は驚き、宛行状を返そうとする。
「おいおい、それじゃあおれが伊賀殿を追い出して領地を奪ったみたいだろう」
長慶は笑って言う。
「毒を喰らわば皿まで、というやつだ。聞いておるぞ、追放は己の讒言だと言わせたようじゃな」
「あれは……」
久秀が釈明しようとすると、長慶はそれを制して言葉を続けた。
「確かに伊賀守は直情の者ゆえ、弓介殿の密告であると逆上して危害を加えるかもしれなかった。そこに弓介殿を遣わそうとしたのはわしの落ち度であるし、そなたの判断は間違ってはおらなんだろう。じゃがな、久秀、己が悪名を被ればよいなどという考え方は、もうするな。それは誰も救わぬ」
「……ああ、わかった。心得ておく」
久秀は神妙にうなずき、それからはにかむように笑った。
「なんじゃ。おかしいか?」
「いや、お前もそういうことを言うようになったんだな。まるで名君のようだ」
「名君になるのじゃ。これからな」
それから長慶は釘を指すように言った。
「所領を得るということは、統治をせねばならぬということじゃ。久秀、おぬしには己の所領だけでなく、西宮の行政にも携わってもらうぞ」
「行政? 待て待て、おれはそんな仕事、やったことないぞ」
うろたえる久秀を、長慶が皮肉る。
「理玖殿がおろう。彼女は斎藤越前殿(基速)のもとで学んだ才媛じゃ。文書の扱いから相論の調停まで、一通り心得ておられる。理玖殿に学び、奉行としての手腕を発揮せよ。ゆくゆくは、西宮の統治すべてを委ねたい」
「西宮すべて?」
久秀が問うと、長慶はうなずいて、棚から一巻の地図を取り出し、広げる。
西は周防山口、東は伊勢までの国分が描かれた地図であった。
「先日のことじゃ、十河家に継嗣無きにより、元長四男の又四郎を養子に出すことになった。十河家は高国派であった守護代香川氏に代わり、現在讃岐国を支配しておる」
「淡路の安宅家に次いで、讃岐の十河家か」
地図上で見ると、これで三好家は四国の東半分各国に拠点を得たこととなる。
「これら各拠点は、阿波の長弟、千満に任せることとする。阿波三好家は、阿讃淡三国の掌握を使命とするのじゃ」
「なるほど、あの千満殿ならやるだろう。それじゃ、おれたちはどうする?」
長慶が、地図に指を当てる。
「三好本宗家は、もう阿波には戻らぬ。ゆえに、畿内の地盤を固めてゆかねばならぬ。ここ西宮は見ての通り、有馬を挟んで丹波国と境を接しておる。有馬の北、三田から山をひとつ越えると、八上城がある」
八上城という名は、久秀にも聞き覚えがあった。
「八上城といえば、あれだな、細川晴国の二枚看板だった、あの内藤国貞と、もう一人の守護代格の大名」
「うむ、波多野氏の居城じゃ。その波多野氏当主、備前守秀忠殿より、早速遣いが参った。久秀が堺に行っておる間にな」
皮肉に久秀が苦い顔をする。長慶は構わず続けた。
「結論から申せば、わしは波多野殿の娘を妻に迎えようと思う」
「はっ!? 急すぎやしないか?」
「お主が言うか? これは単に越水城と八上城の地理的な問題だけからではない。今でなくてはならんのじゃ」
長慶は苦笑しながら、地図を指で叩いて言う。
「波多野氏は先だって晴国殿に味方したが、晴国殿が死した今、晴国残党を見限り、晴元殿との関係を急ぎ改善したいと考えておる。一方、わしらは畿内において味方が少ない。和睦が成ったとはいえ、宗三殿とはことを構えたばかりじゃしな」
長慶の言葉を受けて、久秀が聞く。
「なるほど、今必要な婚儀ってことか? あからさまな政略結婚じゃないか」
「有り体に言えば、そうじゃ」
「反対するわけじゃあないが、お前の婚儀は、たとえ政略結婚にしたって、もっとでかい目線で決めるものだと思っていた。おれにはわからんことだが、家格というのが重要なんだろう。晴元のやつは、摂関家の娘を嫁にした」
失言とも言える久秀の言葉に、しかし長慶は笑う。
「ふふ、お主はそう言うだろうと思ったよ。安心せよ、わしもただ越水城と西宮だけ守っておればよいとは思っておらん。最初に西宮を任せたいと言うたじゃろう」
そして、長慶の長い指が、するりと地図の上を南へ滑る。
指先は、堺のさらに南、岸和田のあたりを指した。
「よいか、和泉にはまだ、細川氏綱殿という京兆家の継承権者がおる。先年、わしらの謀反で露呈した通り、晴元殿はまだ在地の国人たちを掌握しきれておらぬ。畿内の情勢、動くときが必ず来る。三好本宗家が大きく飛躍するのはそのときじゃ。そのとき、直ちに動くことができるよう、力を蓄えておかねばならんのじゃ」
久秀にはその長慶の言葉に、父・元長の前訓が息づいているように思われた。
元長は七年の雌伏を経て、畿内の混乱に乗じて細川高国から政権を奪った。
動くときは機に応じて、しかも一気に動かねばならない。
今は、そのための力を溜めるときだった。
「わかった。祝福するよ、我が主の祝言を」
久秀はそう言って笑い、それからぽつりとつぶやいた。
「ありがとうよ。おれにもわかるように話してくれて」
久秀が去ってゆく。
長慶は地図を戻し、文机に向かう。
かくて三好家は、新たに畿内の拠点統治へと、その課題を移していったのだった。
祝言はつつがなく進んだ。
迎えの口上には三好長逸が八上城を訪れ、太刀、馬、鎧を拝領。
花嫁とその女中らは輿に乗り、有馬路を経て西宮へ至り、市街を抜けて越水城へと入城する。
西宮から越水城への道々には篝火が焚かれ、姫君の進む道が夜に明々《あかあか》と映じられていた。
天文九年(1540)十二月のことである。
翌朝から、婚礼の儀が始まった。
長慶は変わった様子も見せず、婚儀の間、終始和やかな微笑を浮かべていたが、初夜を前にして、久秀を呼び止め、耳打ちして聞いた。
「久秀、初夜に心得ておくべきことはあるか」
長慶には珍しく、緊張しているらしい。
久秀はあえて真面目な顔で答える。
「そうだな、何より花嫁の不安を解くことだ。心は身とつながっている。心が解れねば、何事もうまくいかん」
聞いて、長慶は得心したようにうなずき、それから思い出したように皮肉を言った。
「思ったよりまともな助言であったわ」
そうして寝所に入ると、白無垢を着た花嫁が、三指を突いて長慶を出迎えた。
「波多野秀忠の娘、お雪にございます。末永くよろしゅうお願い申し上げまする」
雪姫は、あどけないが案外落ち着いた声で、しっかりと挨拶の言葉を述べた。
あるいは、長慶のほうが強張った声だったかもしれない。
「長旅、お疲れであろう。今日から家族である。寛がれよ」
長慶がそう声をかけると、雪姫は、ゆっくりと顔を上げた。
それから長慶の顔を見て、驚いたように言う。
「あなた様が孫次郎様でございますか?」
奇妙な問いに、長慶は不思議に思い、聞き返した。
「そうじゃ。三好孫次郎にござる。婚儀の間、顔は見なんだか?」
「はい、はしたなきゆえ、見てはならぬと教わりました。でも、大変おきれいなお顔なので、驚いてしまいました」
それはお世辞というには無邪気すぎる言葉で、長慶は笑った。
「ふふ、しかし、戦続きの中での婚儀ゆえ、怖くはなかったか?」
「少しだけ。でも、父上が教えて下さいました。孫次郎様は、戦の最中でも歌を詠まれるのだと。きっとお優しい方なのだと思いまする」
おそらくは、父・秀忠の娘への思いやりであろう。
雪姫はそれを素直に受け取ったらしい。
彼女は続けて言った。
「お顔を見ると、少し怖いような気もいたします。こんなにきれいなお顔の方を、お雪は見たことがありません」
「それは困る。わしは、姫に嫌われぬよう、どうしたらよいか、ずっと考えておったのに、顔で嫌われては無念じゃ。これで許してはもらえぬか」
そう言って長慶が懐から取り出したのは、一本の簪であった。
その根本には、小さな白い兎の飾りがついている。
「まあ……」
「因幡の白うさぎじゃ。八上の姫の妻問いに、きっと役立つと思っての」
古事記にいわく、大国主命が稲羽の八上比賣に求婚するに際し、その成功を予言して言祝いだのが、白兎である。
雪姫は簪を受け取ると、それをぎゅっと胸に抱きしめて言った。
「うれしい。大切に、生涯大切にいたしまする」
言葉とともに、雪姫の目蓋から、涙があふれてきた。
「あっ……違うのです、悲しくはありませぬ。悲しくないのに、どうして……」
笑って涙を拭う雪姫の顔を見て、長慶は初めて、女人を愛しいと思った。
そうして、その肩を優しく抱いた。
雪姫もまた、長慶の胸に、顔を埋めて泣いた。
悲しくなくとも、人は泣くのであろう。
ゆえに古来、人は愛という字をかなしいと読み習わしてきたのかもしれない。




