第三十話 奉行人、斎藤基速
晴元との和睦ののち、天文八年(1539)八月。
長慶は摂津越水城に入城する。
長慶が畿内で得た、初めての軍事拠点である。
新たな城に物資を整える必要があった。
大半を新たな自領となる西宮で調達しつつ、一部の軍需物資は、堺の天王寺屋に発注した。
その堺から届いた物資の中に、一通、久秀宛の文が添えられていた。
仮名書きの文で、一見して女性からの便りとわかるが、書かれている内容は簡素すぎるもので、
たすぬへき ひとはのきはの ふるさとに それかとかをる にはのたちはな
りく まゐる
まつなかさま
とのみ記されていた。
久秀は不審に思い、迷いつつも長慶に歌の意味を尋ねた。
「新古今じゃな。訪ねるべき人が遠のいてしまった、庭の橘の香りにその人を想うという歌じゃ」
「あー、つまり?」
「朴念仁か? 久秀を訪ねて来た女性が堺にいるという便りであろう。城のことはおおむね済んでおるし、ちょうどよい。天王寺屋への返礼も兼ねて、堺に行ってきてもらおうか」
そう言って、長慶は天王寺屋への書状を認め始めた。
久秀はばつの悪そうな顔で言う。
「そう怒るなよ」
「怒っておらぬわ! 用を済ませたらさっさと帰ってくるんじゃぞ。西宮の統治はこれからなんじゃからな」
かくて久秀は、越水に腰を落ち着ける間もなく、兵庫津から堺へと渡ることとなった。
堺に着くと、湊はとんでもない数の船であふれかえっている。
久秀はまず天王寺屋を訪ね、宗達に船のことを聞いた。
「ああ、あれは阿波や紀伊から材木を運んで来とる船や。下京がまるっと焼けてもうて、もう三年。人も戻って、復興のための木材が足らんようなっとる。あんだけの大災厄やし、気が引けるとはいえ、これも世の常やからな。儲けさしてもろとるわ」
それから久秀は、長慶からの書状を手渡した。
宗達はそれに目を通して言う。
「三好殿は摂津下郡の郡代として、西宮の段銭奉行に就任されたっちゅうことやな。西宮の段銭を仕切っとる商家への紹介状、一筆書くさかい、帰るとき持ってってや」
久秀はこれを承知して、別件について聞いた。
「ところで、船荷におれ宛の文がくっついてきたんだが」
「ああ、驚いたで。理玖殿と知り合いとは」
「知ってるのか?」
「知っとるも何も、斎藤理玖殿ちゅうのはあんた……」
宗達が言いかけたところで、女の声が聞こえた。
「あらあら、松永はん久しぶりやわあ、偶然やねえ」
襖をちょっと開けて、理玖が顔を出している。
「天王寺屋と知り合いなのか?」
久秀がそう聞くと、理玖はころころと笑って答える。
「ええまあ、うち、堺も長いからねえ。そうだ、松永はんにちょっとお願いがあるんよ。うち、待っとるからお話終わったら声かけてな。それから宗達はん、うちの家のこと、よう言わんよ?」
宗達は苦笑いしながら応じた。
「あー、わかったわかった。すぐ終わりますさかい、待っとってや」
「おおきに」
理玖が去ると、小声で久秀が聞く。
「あいつ、何者なんだ?」
「いや、それ言うたらあとが怖いわ。まあ、筋の悪い者ではないで」
そう言って宗達は意味ありげな含み笑いを漏らした。
宗達との会見を終えて、久秀は理玖に声をかけた。
「終わった? じゃ、ちょっと付きおうて。内緒の話」
そう言う理玖のあとについて、久秀は天王寺屋を出る。
驚いたことに、店の外では数名、刀を携えた供の者が理玖を待っていた。
明らかに武家の人間である。
「おい、どういうことだ?」
「ごめんね、うち、堺じゃ窮屈にしか動かれへんの。何もあんたはんを脅すために連れてきとるわけとちゃうんよ。気にせんといてな」
そう言われて、久秀は供の者に囲まれながら堺の街を歩いた。
理玖は天王寺屋からそう遠くない屋敷へと入っていく。
久秀もまた、ついていかざるを得なかった。
屋敷に着くと、理玖は供の者を帰らせ、小さな離れに久秀を招き入れた。
久秀は腰を落ち着けると、真剣な表情で問うた。
「子ができたのか?」
「は?」
理玖はきょとんとした顔で聞き返す。
「なんて?」
「子が、できたんじゃあないのか? それで文を」
久秀が再び真剣な顔で言うと、理玖は笑った。
「あっはは、いややわあ、顔に似合わず真面目やねえ。できてたらもっと早う知らせるわ。あれから何年経ってると思うとるん?」
理玖の意外な反応に、久秀はひとまず安堵の溜息を吐くと、改めて聞いた。
「それなら、なぜ堺に?」
「桑名もきな臭くなってきたんよ。尾張の織田信秀って、聞いたことある?」
久秀は首を振る。
「いや。織田達勝なら聞いたことがある」
「その達勝はんの家臣やけどな、織田弾正忠家の信秀はんちゅうのが急激に力をつけてきて、熱田を牛耳り始めたんよ。美濃の斎藤や、駿河の今川ともコトを構えそうな気配。熱田は桑名のお隣やし、何かと物騒になってもうて。逆に京の戦はいったん落ち着いたみたいやから、里帰りしたんよ」
それから理玖はためらいがちに言葉を続けた。
「それで帰ってきたら、父上が縁談をもろてきてはって。うちもう二十六やし、父上もこれが最後の機会やっちゅうて、断り切れへんのよ」
「なるほどな」
「それで、久秀はんがちょおっとうちの許嫁のフリしてくれたらええなーって」
理玖はそう言ってから、慌てて言葉を付け加えた。
「ほんまに、ちょっとでええんよ。とりあえず父上が今度の縁談だけ断ってくれたら、その間にうち、なんとかするから。久秀はんに迷惑はかけへんし」
久秀は少し考えてから答える。
「わかった。その代わり、許嫁のフリはだめだ。お前を嫁にもらう」
「はあ!?」
驚く理玖に、久秀は言う。
「おれがそう答えるとは、少しも思わなかったか?」
「い、いやそれは……ちょっとは期待したかもしれんけど……ほんまにええの?」
「お前こそ、いいのか。嫁ぐのは嫌じゃないのか」
久秀がそう問うと、理玖は少しうつむいて、小さな声で答えた。
「ええよ。あんたが相手なら」
理玖の案内で、久秀は屋敷の奥へと進む。
表座敷でしばらく待つと、理玖が身なりのよい初老の男を連れてきた。
久秀は頭を下げ、名を名乗る。
「三好家家臣、松永久秀にございまする」
「うむ、活躍はかねがね聞き及んでおり申す。理玖の父で、元堺公方右筆方奉行人、斎藤越前守基速にござる」
名を聞いて、久秀は思わず顔を上げる。
右筆方奉行人といえば、将軍直属の家臣、いわば幕臣である。
「は!? 幕臣!?」
驚く久秀に、基速は優しく笑って首を振った。
「いやいや、幕臣ではござらぬ。朝廷の宣下は無く、もはや大樹も堺にはおられぬゆえな」
「こっ、これは……知らぬこととはいえ、失礼仕った」
これには久秀もさすがに狼狽した。
世が世なら、将軍の奉行として、幕府政務の中枢を担っているはずの人物である。つい最近武士として取り立てられたばかりの久秀とは、天と地ほどの身分差がある。
「はは、どうせ理玖のこと、わしの素性は隠しておるであろうと思ったが、気の毒なことをしたわい。松永殿、元堺公方の奉行の娘となると、面倒なことも多かろうと存ずるが、それでも理玖を嫁にもらってくれるかね?」
基速の問いに、久秀は居住まいを正し、深く頭を下げて答える。
「是非にも」
基速はしばし久秀の姿を見つめたのち、笑うような、泣くような顔で言った。
「……理玖は、拾い子とはいえ、実の娘と同じに思っておる。ようやっと帰ってきた放蕩娘が、頑として縁談を拒むゆえ、わけを聞けばいい年をして想い人がおるという。ゆえに、文を出せ、それで来ぬようならすっぱり諦めろと言い聞かせたが、まさかあの松永久秀を連れてくるとは思わなかったわ」
それから久秀に対し、同じように深く頭を下げる。
「松永殿、理玖のこと、何卒よろしく頼み申す」
理玖もまた、そっと頭を下げた。
奇妙といえば奇妙な、似合いと言えば似合いの、一組の夫婦が生まれた。




